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エルミタージュ幻想
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
2003年2月22日(ユーロスペース2)

 遠方のパトス



 映画一本をワンショットで撮るというとやはりアルフレッド・ヒチコックの『ロープ』が先ず想起されるのだと思うのですが、勿論、それはあくまでも疑似的なワンショット撮影で、何とはなれば、一巻のフィルムで連続して撮影できる上限が精々20分程度である故、ヒチコックのそれの場合、人物がカメラに極端に近接することによって生じる暗闇を巧みに利用してフィルムの切り替えを行っています。「ワンショット映画」のような極端なものは一先置くとして、そもそも「反モンタージュ的」な長回しによるワンショット撮影にはどのような意味があるのか、「存在論的リアリスム」で知られるアンドレ・バザンは(過度の)モンタージュが生み出す虚構性を否定する立場から、それは映像表現に現実感をもたらすものであると、其処に(より)連続的に実現される時間と空間が対象の存在感をより確かなものとするということです。理論的に細分化されたモンタージュは(それを有効に活用することによって)作家の意思をより明確に伝達することに貢献はするものの、しかし、それに伴う時間と空間の夥しい断絶は、少なくとも、人間の目が日常を捉えるそれとは明らかに質が異なっているという意味に於いて、その映像から現実感と現実の持つ曖昧さを奪ってしまうことにもなるのです。勿論、アンドレ・バザンが映画を論じていた時代から随分と時を経てしまった現在ではワンショット撮影の持つ意味も様々、むしろ「技巧的」なそれも多くて、比較的最近の映画だと、ブライアン・デ・パルマ(この名前が既に技巧派の代名詞のようなものですが)の『スネーク・アイズ』の映画冒頭からの長いワンショットなど、専らニコラス・ケイジの動作を追い掛けたそれは、その同じ時間にそれ以外の場所で起こっていた幾つかの出来事を(観客の視線から)意図的に遠ざけるためのものであり、言わば、ワンショット撮影による「現実感」を逆手にとって「映画的現実」を隠蔽していると、尤も、「映画=モンタージュ」を一つの常識と見做せば、あらゆるワンショット撮影は「反モンタージュ的」であるという意味に於いて、むしろ「技巧的」であるとも言えるわけで、アンゲロプロスでも相米慎二でもよいのですが、そもそも長いワンショットがあるというだけで(その作家なり映画なりが)何か特別なものであるかのように語られてしまうのが、その何よりの証左と言えるのではないでしょうか。

 さて、この『エルミタージュ幻想』という映画は文字通りのワンショット映画で、本来実現不可能なはずのそれを可能にしているのがデジタル・ハイビジョン・カメラによるビデオ撮影であるというのなど、今さら繰り返すほどの「情報」でもないのでしょう。フィルムに起こしたそれをスクリーンで観ても決して不快に感じないことや、実際90分強のワンショット撮影が出来てしまうという技術面での可能性をして、「映画の未来」を語るに足るメディアであるのは間違いのないことだと思うのですが、しかし、この際それは割愛するとして、話はやはりそのワンショット撮影に関して。此処に於けるワンショットはエルミタージュ美術館という空間と、この映画に与えられた90分強という時間の連続性を間違いなく保証するもので、否、ワンショットで撮られているのですから、それは当たり前の話に過ぎないのですが、肝要なのは、其処に捉えられているのが、単にエルミタージュ美術館という閉ざされた一個の空間や、映画の言わば「外的」な時間に単純に従属するものではないということ、其処にあるのはロシア(ソ連)というエルミタージュ美術館の内部に決して収まったりはしない広大な空間であり、そのロシアに纏る(映画の実時間と比較して)遥かに長い時間、つまりは「歴史」なのです。其処に矛盾が生じてしまうのは言うまでもないこと、連続的な時間と空間の中に、非=連続的ならざるを得ない、言わば「断片」を収める、つまり、ワンショットで撮影する意味が果たしてあるのか、ということです。例えば、この映画を観終わってから改めてそれを反芻するとして、余程記憶力の良い人ならその最初から最後までの90分間を連続的に想起できてしまうのかも知れませんが、しかし、大抵の人の頭に甦るのはあくまでも(非=連続的な)断片としての記憶に過ぎないはずです。仮に連続的に想起できる人がいたとしても、では、映画館に入る一時間前の記憶から連続して想起できるかと言えば、さすがにできないはずで、映画一本を連続的に想起できる人にしても、それはあくまでも『エルミタージュ幻想』という一個の断片をかろうじて所有しているに過ぎないのです。我々が日常を過ごす時間や空間は間違いなく連続している(はず)なのですが、しかし、それをその連続性ごと意識、所有できる人などいなくて、可能なのはあくまでも僅かな連続性の集積、断片としてのそれら、人類の所有物としての長大な時間(の再構築)、所謂「歴史」などまさに断片の寄せ集めに過ぎません。

 連続するものが現実なのか、断片の寄せ集めが現実なのか、おそらくは前者のそれが現実なのだとは思うのですが、しかし、人間がそれを意識することなど不可能、それは地図の上には間違いなくあっても、実際には行ったことの場所にも似ています。アンドレ・バザンの言う現実感が何となく疑わしくも感じてしまうのは、本来意識できないはずのものをスクリーンを介して客観的に意識できてしまうことが果たして現実的なのかと思うからで、多くの観客がモンタージュを当たり前のように受け入れているのは、単に「慣れ」の問題ばかりではなくて、案外其処に現実に似たものを発見しているからなのかも知れないと、そんなこともまた思います。ともあれ、此処にあるのは、断片としての記憶を、時間と空間の連続性が約束する現実の中に再構築する試み、尤も、その試みが本来断片でしかあり得ない故に虚構性を纏ってもしまう「歴史」にそれなりの現実感を伴わせることになるなど思いもしませんし、実際、そんなことが企図されているとも思えないわけで、確かに、途切れることなく其処に流れる、最後には当たり前のように海に行き着くその90分という時間は、その流れに身を任せるものに悠久の時をも予感させるとは言え、しかし、その連続性の中に配置する(対置される)ことによって、むしろ「歴史」の虚構性を炙り出すことになっているようにさえ、そもそもそれは「再現」された虚構に過ぎないわけですし、そして、最後の「舞踏会」から「退場」への、カメラが人間の間を擦り抜けて行くまさに圧巻とも言うべき一連のシークエンスが観る者にある種の感情を抱かせてしまうことに明らかなように、それは何よりも、それが既知である故に発見された「物語」であるに過ぎないわけですし。

 公開初日の土曜日の午後、ユーロスペースの狭い箱は毎回立見の出る盛況ぶり、何故そんなに人が集まっているのかはよく分からないのですが、海外の美術館巡りを趣味としているのではないかと思わせるような「高級」な雰囲気の御婦人方が多く見受けられもしましたから、あるいは、映画好きに加えて、そういった方面の人達もまた集まっていることが、その混雑に繋がっているのかも知れません。尚、私は美術の素養もロシア近代史に関する知識も中途半端な(無いに等しい)ものですから、そういった部分でこの映画を愉しむことは、正直なところ、できませんでした。


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