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歓楽通り
監督:パトリス・ルコント
2003年3月1日(シネマライズ1)

 デラシネの憂鬱



 宿のない人達の上には当たり前のように冷たい雨が落ちる、冒頭の錯時的なシークエンスに続く物語の始まりはまさにそんな感じです。路上に立つ三人の娼婦と、差し当たり屋根のある何処かで観客にカメラ越しの視線をくれながら語るパトリック・ティムシットによって遡行される幸福な三角関係の物語はまた同時に冷たい雨風を防いでくれる「屋根のある場所」へのノスタルジーでもあります。嘗て合法的な存在としてあった「娼館」とその時代に対する、あるいはパトリシア・ティムシット自身が「庇護者=屋根」であることによって幸福であり続けた三角関係に対するノスタルジー、屋根を失った人達は冷たい雨風を堪え忍びながら、取り戻すことのできない「過去」にひたすら想いを寄せるしかないのです。その意味に於いて、その「過去」の中にしか生きていない人達は案外幸福だったのかも知れない、生き残ることが必ずしも幸福ではないと、現実はともあれ、カメラ目線のモノローグによって遡行されるこの如何にも物語的な物語〔虚構)が教えるのは、差し当たりそんなところです。

 物語にありがちな「無償の愛」など如何にも胡散臭く感じてしまうのは、我が身に照し合せてそんなものなどまるで現実的でないと誰しもが思う故、それは人間の宿命的「通俗さ」からは程遠い概念なのです。勿論、此処にあるのは単なる「物語」なのですから、その現実的「通俗さ」を誰しもが持ち合わせていなくてはならない理由など何処にもないのですが、差し当たり客席の懐疑の視線を遠ざける意味で、此処に於けるその提供者は一個の「異形」としてスクリーンに現われることになります。異形だからこそ無償の愛を提供できるのか、あるいは無償の愛を提供してしまうような存在だから異形と呼ぶしかないのか、ともあれ、その異形を一つの角とした男二人と女一人の三角関係が此処に成立しているわけですが、パトリック・ティムシットが神父の役をやらされることになる教会のシークエンス(鍵束を指輪に見立てる場面が非常に印象的です)などまさにそう、庇護者としての異形とそれ以外の二人は必ずしも対等ではなくて、その意味に於いて、此処にあるのは正三角形ではなくむしろ〔異形を頂点とした)二等辺三角形、それ以外の二人は、時には占い師を買収してまでも其処に「運命」を捏造しようとする異形によって巧妙に操られているとさえ、そもそもそれが「三角関係」であるのかどうかすら疑わしく感じられてしまうのです。しかし、その教会のシークエンスでパトリック・ティムシットが一瞬みせる戸惑い、異形が異形であることを止め、自覚もなく三角形の辺を揃えようとするその試みこそがこの映画の最も美しい瞬間、異形がふと我に返ったとき、其処に狂おしいばかりの三角関係が生まれるのです。何よりも美しいのは、パトリック・ティムシットがレティシア・カスタの身体、女性特有の滑らかな曲線を愛おしげになぞる場面、彼が子供の頃からそうしていたような、娼婦達の世話役として彼女らの「肩を揉む」という、性的な動機などまるで予感させない(まさに異形としての)接触行為を明らかに逸脱し、庇護者であることも「無償の愛」の提供者であることも止め、彼は其処に一個の通俗な魂を取り戻すのです。勿論、それは一時的なものに過ぎず、故に、あらゆる正常な三角関係が何れそうなるような「破綻」が其処に訪れることもなくて、異形の無自覚な自己犠牲に支えられつつそれは幸福の頂点へと突き進むことになるのです。

 ひたすらに逃げ回っている以外、然して害のなさそうなヴァンサン・エルバズは本来的には「有償の愛」を具現化したような存在のはずで、その意味に於いてパトリック・ティムシットとの明確な対峙があってもよさそうなのですが、一方が異形であることにも増して、彼もまたその愚鈍さを以て三角関係の幸福を破壊するような存在になることは決してありません。肝要なのは、レティシア・カスタがそもそも娼婦であるという物語状況、劇中の台詞にもあるように、彼女の肉体を得ることなど容易で、従って、女性との関係に於ける通俗な動機の一個が予め排除されていると、その条件はヴァンサン・エルバズも同様なのです。此処に於いて金銭が如何にも無力なのは、捕らわれた二人をパトリック・ティムシットが助け出すシークエンスにも明らか、掻き集められた紙幣の束はまるでゴミのように抛り置かれ、ヴァンサン・エルバズですらそれを顧みようとはしません。欲望の対象である肉体と如何にも世俗的な紙切れがそうやってスクリーンに置き去りにされた後に残るのが、専ら健全な精神に依拠するそれ、要は「愛」であると、それがパトリック・ティムシットが異形であり続ける限りその三角関係が破綻しない所以、あるいは、これが如何にも物語的な物語である所以とも言えます。

 パトリック・ティムシットの無自覚が自覚に変わるのを待つことなく、静かに停止するその運動が「死」を予感させる如何にも映画的な装置、物語的な説明は確かに為されてはいるものの、しかし、ただひたすらに「黒い自動車」でしかないその装置の運動の停止によってこの幸福な三角関係が終焉を迎えるのは、それが遡行された永遠のノスタルジーである以上、物語的にはやはり幸福な結末と言えるのかも知れません。その装置は「草の上の昼食」が予感させもした不幸な内部崩壊をむしろ喰い止め、幸福な三角関係を幸福なままに、パトリック・ティムシットが独り取り残されてしまうのは、異形の宿命とでも言うべきでしょうか。

 ハイヒールのコツコツという音に始まって、ガラスを割って何処かに侵入するパトリック・ティムシットの足(靴)のアップがスクリーンに捉えられる、性的な女性(娼婦)が多く登場する映画ですから、そんな物語の始まりはある種のフェティシズムを期待させもするのですが、しかし、実際はそうでもありませんでした。パトリック・ティムシットがそれらを磨くべくズラッと並んだハイヒールの前に座すカットであるとか、ナイロン・ストッキングを掲げてみせるカットが確かにそれを予感させもするのですが、しかし、如何せん異形ですし、監督のパトリス・ルコントにしても、その物語状況を無視してまで映画にそれを持ち込むほどの異常者でもないということなのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、冷たい雨の降り頻る中、それでも劇場は8割方埋まっていたのではないでしょうか。一時は半分閉鎖状態が続いていた二階席も当たり前のように開放され、それなりに席が埋まっていたようです。その日の時点でまだ上映が続いていた『8人の女たち』とその前にロングランを記録した『アメリ』の御陰もあってか、シネマライズも随分と明るい雰囲気に、単に私の思い過ごしなのかも知れませんが、ともあれ、好きな映画館だけに何よりなことだと思っています。


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