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ダークネス
監督:ジャウマ・バラゲロ
2003年3月2日(新宿東急)

 その暗闇は実存する



 羅志良の『カルマ(異度空間)』という多分今現在も公開中の映画があって、その香港製ホラー映画に於いては、物語の冒頭に「幽霊」の存在に関する或る一つの仮説が提示され、結局、最後までその仮説を逸脱することなく物語が終わるのですが、その仮説というのは、幽霊とはあくまでも人間の心が映す幻像に過ぎなくて、それを「見る」のは精神的な病の一種であると、つまり、幽霊の実存を否定しているわけです。従って、この映画に登場する幾つかの「幽霊」はあくまでもその視線の主体によってのみ認識された幻像に過ぎなくて、勿論、それは「映画」ですから、観客もまたその幻像を共有することになるのですが、ともかく、それらは見えてはいるものの、しかし、決して実存するものではないのです。この映画はまたホラー映画にしては驚くほど「暗闇」が少ないのですが、その事実とこの映画に於ける幽霊を巡るその仮説は大いに関係があるはずで、つまり、其処に現れる「幽霊」はあくまでもその人間の内面に止まる幻像に過ぎないわけですから、一般に考えられている幽霊がそうであるように、決して暗闇など必要としない、むしろそれを認識する主体にとって最も認識し易い形象を借りて立ち現われるわけですから、仮に其処が暗闇であったとしても、その姿は常に明瞭さを失うことはないのです。暗闇に隠れて薄ぼんやりとしか見えない何かは、それが間違いなく実存するからであって、実存しないものはそもそも光や陰の影響を受けたりなどしないのです。その映画が「幽霊」に関する物語でありながら暗闇をまるで必要としていない所以です。

 表題が既に「暗闇」であるこのジャウマ・バラゲロのスペイン映画には勿論「暗闇」が多く出現し、むしろ「暗闇の映画」とでも呼ぶべきもの、その暗闇に紛れて視覚の対象しして常に曖昧な「何ものか」は、つまり「実存する」ということです。この映画の中には隣接する別の部屋から仰角気味に扉の開け抛たれたダイニングルームを捉えるショットが何度も出てくるのですが(中央にダイニングテーブルがあって、その左右の席に大抵誰かが座っています)、その反復されるショットの中にカメラの前を「何ものか」が通り過ぎるショットが何度かあって、ダイニングルームにいる人間は何となくその気配を感じることはあっても、それに気付くことはありません。このショットが意味するのもやはりそれが「実存する」ということ、例えば、少年が子供の幽霊のようなものを目撃する場面が何度かあるのですが、専らその少年の視線を借りたそのショットは、少年に精神的に不安定なところがあるという物語状況を加味するまでもなく、それが幻影なのか実存なのかを明確に教えるものではありません。しかし、ダイニングルームを捉えたショットは、反復されるほどにその意味が増してもいるように、誰の視線を借りたものでもなくて、故に其処に捉えられた「何ものか」は、ダイニングテーブルが実存するように、間違いなく実存する、否、実存していなくてはならないのです。もし仮にそれが誰かの視線であり得るとするならば、少年の部屋に於けるベッドの下からのショットが何となくそれを予感させるように、その「何ものか」自身の視線、もはや実存の可能性は疑いようもありません。

 人間が神を創ったのならそれは実存しないが、神が人間を創ったのなら(人間が実存する以上)それは間違いなく実存する、暗闇に(何かが)実存する、あるいは「暗闇」が実存するこの映画は勿論後者、キリスト教的二元論が誰を代理人に仕立てるでもなく此処にその実存を以て展開されます。「一週間」という物語的時間や日付の不明な「曜日」によるカウントは「天地創造」の暗喩、差詰め神が一週間で創ったものを「暗闇」が一週間で破壊するといったところでしょうか。この映画が些か特異なのは(それは勿論ハリウッド映画との「距離」によって測られた概念です)、キリスト教的二元論とは言っても、例えば『エクソシスト』や『オーメン』がそうであったように「暗闇」と対峙する代理人の正統、つまりは神父なり牧師なりの教会関係者が一人も出てこないことにあって、単なる女子学生に過ぎないアンナ・パキンと如何にも頼りない感じの彼女の男友達がその「実存する暗闇」に勇躍立ち向かいはするものの、しかし、結果は言わずもがなです。ハリウッドの大資本映画ではおそらくこんな結論などあり得ないはずで、やはり『オーメン』や『エクソシスト』がそうであったように、差し当たり邪悪は排除される(それがキリスト教的二元論に基づく限り完全な排除はあり得ません)というのが専ら、それはしかし、アメリカには敬虔なクリスチャンがより多いことを意味するのではなくて、ハリウッドに於いては人間が神の代理なのではなく、むしろ神が人間の代理である故、人類の代理として正邪の戦いに挑む神に敗北などあってはならないのは、今どきの話ならジョージとサダムのそれ、ハリウッドに於ける神は専らアメリカ的正義を担っているからなのです。

 円形の建物とその円窓、回転するメリーゴーランドの玩具や蓄音機の旧いレコード、モルモットが輪転させる車輪、黒い丸眼鏡を掛けた三人の不気味な男達、あるいは太陽と日蝕等々、此処に於いては円状のものとその回転が専ら恐怖を煽る装置となっています。また、実際『シャイニング』が引用されているようにキューブリックの影響が強いのか、シンメトリーの構図や、既述のダイニングルームのショットや水泳のショットがそうであるように物語的に然して意味のない「反復」が多用され、それらもまたスクリーンに不気味な雰囲気を持ち込むことに一役買っています。私は映像心理学の類になどまるで疎いものですから、それらが何故「不気味さ」や「恐怖感」をもたらすのかはよく分からないのですが、最近だとダーレン・アロノフスキーなども同様の装置を積極的にスクリーンに持ち込んでは観客の恐怖を煽っていますか。ホラー映画に於ける「恐怖の装置」と言えば、以前『プロフェシー』に関する文章でその代表とも言える「電話機」に着目してみたのですが、この映画では当たり前のように何の変哲もない(古めかしい)黒電話が使用されていました。音は勿論「リンリン」という例の金属音です。スペインの電話機事情などまるで知りませんが、ホラー映画に於ける時間は30年ほど前から止まっているということなのかも知れません。

 これが「暗闇の映画」ということなら、スクリーンに現れる「暗闇=黒」にもやはり言及しなくてはなりません。蓮實重彦などがよく書いていることですが、最近の映画には真の暗闇がないと、その事情は専らテレビ(ビデオ)にあって、今どきはブラウン管が正常に映し得る「暗闇=黒」がその基準とされ、(もはや後日のビデオ化までがそのソフトの価値として当たり前のように折り込まれている)スクリーンにもやはりそれ適用されているという、映画的(スクリーン的)に正しい暗闇を何の処理もせずブラウン管に移行してもひたすらに真黒なだけで、其処に何が起こっているのかなどまるで分からなくなってしまうのです。稀にビデオで観ると暗過ぎて異様に観辛い映画があるのですが、本来的にはそれがむしろ正常、その映画を撮った人物は何よりもスクリーンに映し出される暗闇を重要視したということに違いありません。さて、この映画に於ける「暗闇」も、これをそのままブラウン管に移行したのでは今一つ要領を得ないであらうことをしてそれなりに正しい「暗闇」であると、尤も、『ロベルト・スッコ』の浜辺のシークエンスにあったようなステファノ・カセッティが犬を追い掛けて走り出すと途端にその姿が消えてなくなってしまうあの暗闇と比べてしまうと、さすがに「本物」とまでは言えませんが。

 公開二日目の日曜日の午後、ガラガラでした。新宿東急という映画館は新宿ミラノ座という大劇場の地下にある、やはりそれなりに大きな劇場なのですが、此処は何を観てもいつもガラガラという印象、やはり千人の大劇場2館を始めとして新宿地区だけでも5つのスクリーンを独占している例の映画に観客が流れているということでしょうか。こういう状況だとそれがどんな映画であれ何となく肩入れしたくもなってしまうのですが、それにしてもしかし、ミラノ座は来週から本当にジェームズ・ボンドにスクリーンを明け渡してくれるのでしょうか。


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