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ダイ・アナザー・デイ
監督:リー・タマホリ
2003年3月8日(新宿ミラノ座)

 陰気な内部完結



 ジェームズ・ボンドが38度線を巡る緊張の渦中、毎度ながらの大活躍をみせるこのシリーズ最新作、昨今の情勢を鑑みればあるいは「タイムリー」という言葉も浮かんでくるのかも知れません。当然ながら北朝鮮政府はこの映画に対して猛烈な反撥の姿勢を、韓国に於いてすら上映中止を呼びかける運動が起きているのだとか。しかし、毎度ながら「あるのかないのか」という程度の物語をよく読んでみれば分かるように、そもそもこの悪党が「西洋人の仮面」を借りていることが象徴的なのですが、これはあくまでも「西側」あるいは「西洋」によって堕落させられた東洋人の物語なのであり(儒教精神を見事に裏切る悪党の末路がやはり象徴的)、また、此処に於いては北朝鮮やキューバという国家は大国のエゴが生み落とした、言わば「冷戦時代の負の遺産」であるという位置付け(その発想がそもそもエゴなのですが)、それは38度線を引いたのはそもそも誰なのかという自己批判にまで至るわけで、「我々同志は決して堕落などしない」という話でもなければ、然して神経質になるほどの物語内容でもないのです。二重スパイの存在を含めて、一見して世界を股にかけた大きな物語であるかのようで、しかし、実際には案外小さく内部完結した物語に過ぎなくて、それは冷戦終結以降のこのシリーズを含めた「スパイもの」全般に言えること、東西の対立をさらにその外側からコントロールしようと目論んだ誇大妄想気味の第三者機関(スペクター)の天真爛漫さに比べると、その自己批判に根差した内部完結は、ジェームズ・ボンドの八面六臂の大活躍とは裏腹に、余りにも陰気です。

 物語終盤、迷走する飛行機の中でハル・ベリーとロザムンド・パイクによる女同士の対決が予定通り完結して、飛行機内の別の場所での(男同士の)対決をやはり予定通り完結させたピアーズ・ブロズナンが其処に戻ってきてその「対決の跡」を確認する場面、その場面が何となく暗く、違和感すら覚えてしまうのは、其処にロザムンド・パイクの死体が転がっている故、物語状況からして致し方ないとは言え、しかし、それは本来「あってはならないもの」であるとも言えます。他方、ピアーズ・ブロズナンが始末したトビー・スティーヴンスの方はその身体ごと見事に「消滅」してしまったのですが、この類の映画に於ける悪党の末路、スクリーンからその姿を消す有り様としてはむしろ「正統」とも言えるわけで、其処には微塵の「暗さ」もありません。同様の「暗さ」は物語の序盤、北朝鮮関係者がピアーズ・ブロズナンして単なる「スパイ」ではなく「アサシン=殺し屋」と繰り返し表現する場面にも感じられるもので、ジュディ・デンチが「青酸カリ」に言及する段に至ってはもはや絶望的な気分にすらなります。ともあれ、話をロザムンド・パイクの死体に戻すと、本来的にそれは「消滅」しているべきもので、勿論、必ずしも物理的にそうなるように始末される必要などなくて、其処に改めてカメラを向けなければよいだけの話、あるいは、其処にカメラを戻しても当たり前のように「何もない」という超現実こそが観客に「何も考えさせない」ための配慮とでも言うか、彼らが実現すべきは「殺人」ではなくあくまでもスクリーンからの「排除」であり、彼らの存在がスクリーンに投射された一個の「比喩」である以上、日本語の比喩表現に倣って文字通り「消す」に止まるべきなのです。結局、随所に垣間見られてもしまうこの「暗さ」は、自己批判的な物語の「暗さ」に通底するもので、観客に無用な感情移入を要求する「ドラマ」の導入を目論んだ前作ほどではないにせよ、あるいは其処に要請された中途半端な「リアリスム」がそうさせてしまうとも、それは「M」が女性であったり、マニー・ペニーが短髪であったり、あるいはジェーンズ・ボンドが非喫煙者であったり(この映画では実は葉巻を吸う場面が出てくるのですが、それが一つの「話題」となってしまうことがつまり…)という「変節」とはまた別のものです。尤も、全体からみればそんなのなど些細なことに過ぎませんし、斯く言う私が北朝鮮並に神経質であるというだけの話なのかも、気にならない人には気にならないのでしょうし、仮に気にしたところで、其処に展開される見事な超現実はそれだけで十分に愉しませてくれるものではあります。

 これはこのシリーズ全体にも言えることなのですが、ジェームズ・ボンドのアクションの基本は落下することに、旧作の引用が鏤められたこの最新作は、あるいはそれ故に、そのような場面が特に目を引きます。冒頭のシークエンス(の行き着く先)が先ずそうですし、氷壁にぶら下がる場面等々を経て、迷走する飛行機からの脱出を試みるクライマックスまで、とにかく彼はひたすらに「落下」を余儀なくされるのです。勿論、彼は単に「落下」するだけではなくて、其処に見事な「着地」をも実現してみせるのですが、その予定調和、決して失敗しない(死なない)という一つの約束事が、彼の落下する頻度と高度を無闇に引き上げているとも、結論は予め分かっているのですから、その過程に於ける「過剰さ」にのみ期待が集まるのも道理と言えます。それはジェームズ・ボンドが自動車を走らせるにしても法定速度の遵守など決して心掛けないことも同じで、彼が体験する速度や高度は、それが増すほどにも「死」の予感を近づけることになるのですが、しかし、その予感が絶対的に裏切られる以上、彼はむしろ何処までも限りなくその予感に近づいていくことが許されているという、彼と対峙する悪党どもの多くがその速度や高度に抗し切れず儚くも重力の餌食となってしまうのは、彼らにはそもそもその「ライセンス」が与えられていないからなのです。ただ、それら一連のアクションに関して、相変わらず気になってしまったことが一つあって、それは幾つかの場面で「スローモーション」が導入されていたこと、旧作をすべて憶えているわけでも、これを記すに際して改めてすべてを観直したわけでもありませんから断言はできないのですが、それが導入されたのは今回が始めてのことのような気がします。「ヘブンズ・ドア」の流れる中、悲壮なスローモーションが展開されるペキンパーのそれを持ち出すまでもなく、それは非常に陰気な感情表現の一種でもあり、やはりこの類の映画には相応しくないある種の「暗さ」を持ち込んでしまうものであると、嘗てハワード・ホークスはペキンパーのスローモーションを批判して「そんな暇があったら私ならあと5人は殺してみせる」といった趣旨の発言しているのですが、此処に要求されるのも、あるいはそんな「軽さ」なのではないかと。しかし、繰り返しになりますが、そんなことなど、ピアーズ・ブロズナンが腕時計のフレームをクルッと捻ると悪党どもの抱えたアタッシュケースがたちまちに爆発してしまう爽快さの前には霧散してしまう類のことでもあって、やはり気にしてしまう私の不幸、この映画をして「暗い」など、私の性格の方が余程「暗い」と自覚すべきなのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、まだまだ人を集めそうな勢いの「指輪」から新宿ミラノ座の大スクリーンを奪取してしまって、このシリーズのファンとしては何となく気が揉めるところもあったのですが、千人の大劇場がそれなりに埋まっているのを確認して漸く胸を撫で下ろしてみたり。高齢者の割合が高いのは異例の長さで続いているこのシリーズを特徴付けるもの、指定席がに割り当てられている席数が普段より多かったようにも思われたのですが、それもやはり、懐に余裕はあっても体力に余裕のない高齢者の利用を見込んでのことなのかも知れません。


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