Index

 
過去のない男
監督:アキ・カウリスマキ
2003年3月15日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 過去を繋ぎ止めるために



 前作では「映画」から色彩と音声を排除して「あとは映像を排除するしかない」とも発言していたアキ・カウリスマキが、今回は、豊かな色彩と饒舌な音声はそのままに、一人の男から「過去」を排除してしまったという、相変わらず刺激的で興味の尽きない映画作家です。過去を排除するとは言っても、しかし、スクリーンに目撃される人物、我々がある一定の時間をのみその体験を共有するあらゆる虚構に於いては、そもそも「過去」など何処にもなくて、彼らはひたすらにその人生の或る断片を我々に差し出すに止まるのもまた事実です。確かに、錯時的な映像表現や説明的な台詞を借りて語られる映画的な過去はあり得るものの、しかし、この映画のように、そのような表現手法を借りるでもなく、むしろ時間軸に忠実に進行される物語に於いては、では、その過去の「ある/なし」が如何に差異化され意味を持ち得るのか、勿論、物語的に「ないことになっている」という話は別として。

 例えば、救世軍で働くオールドミス(と思しき)カティ・オウティネンは「過去のある女」に相違ないはずなのですが、物語的に特に語られるでもない彼女の過去は一体何処にあるのか、夜の窓辺に佇む彼女がナイトガウンを些か乱暴に開けると其処にロックンロールが流れるという場面、それは職場では堅物で通っている彼女の隠された一面、心の奥底に沈む何かを発見し得る場面でもあり、なるほど、其処から彼女の過去を何らか想像することもまた可能なのかも知れませんが、しかし、其処にあるのはあくまでも蓄積された過去の結果としての「現在」であるに過ぎず、無責任な想像はあり得ても、何らか確かな過去を保証するものでは決してありません。それは(マルック・ペルトラ以外の)他の誰に於いても同じ、しかし、だからと言って彼らに過去がないというわけではなくて、此処にあるのはひたすら現在に持続された過去、我々がスクリーンに目撃する彼らの現在が、その断片以前に於いても、当たり前のように持続されていたのであろう過去なのです。つまり、物語の外に何らか「現在」に関わる原因を探るにしても、それをカティ・オウティネン(イルマ)という特定の個人の物語に探ってもこの場合余り意味がなくて、もっと外部的な何か(例えば「社会」であるとか)の中にそれを見出し、その外部的な何かの持続がイルマという存在の〔物語以前からの)持続を決定してしまっていると考えるのが(この場合)適当なのではないかと、「過去のない男」であるマルック・ペルトラがその彼らと決定的に立場を違えているのは、過去からの持続が物語の始まりと同時に確実に断ち切られてしまっていることにあり、それは同時にその「外部的な何か」との関係が断ち切られたこともまた意味するわけで、故に「過去がない」というより、その断絶によってむしろ「現在を喪失している」と、そもそもスクリーンの何処を探しても見つからない「過去」になど拘ってもどれほどの意味もないわけで、其処に間違いなく存在する(しない)「現在」こそが、此処に於いてはむしろ肝要なのではないかと。

 感情表現の類を積極的に排除しているようにも思われる演技(演出)、それがこの監督の一つの特徴であるとは言え、しかし、例えば『ラヴィ・ド・ボエーム』などと比較しても、まるでスクリーンが凍り付いてしまったかのようなそれは些か極端な、予め企図されたことが容易に知れるもの、演技はひたすらに「身振り的」で、つまり、彼らはひたすらに(過去から持続された現在の)自らの社会的状況を示唆するに止まっているのです。そして、此処に於いてその社会的状況、社会との関わりをより積極的に示唆しているのが、例えば、カティ・オウティネンが身に纏う救世軍の制服であり、サカリ・クオスマネンがやはり身に纏う警備員の制服、あるいは「ディナーだ」と言って救世軍が配給するスープにありつくユハニ・ニエメラの盛装等々、彼らの「現在」が其処にあるのです。薄汚れた革ジャンを身に纏うマルック・ペルトラに社会との関わりを示唆するものなど当然ながら何もなくて、それが即ち「現在」を喪失した男の衣装、社会(現在)との関わりを取り戻そうとする彼が、先ずは新しい衣装を手に入れることから始めたのは象徴的なことと言えるのでしょう。社会的身振り(職業/制服)を得ることが即ち社会との関わりを得ることであるというのは、カウリスマキの映画では既に何度も繰り返されていること、あるいは其処に彼の政治的な意思を発見することもできるのかも知れません(例えば、社会との関わりを断ちきられた存在の視線を借りることによって、当たり前のように其処に横たわる或る社会的状況を異化してみせるとか)。ともあれ、此処にあるのは「現在」を喪失した男が、社会との関わりを得ることによって少しずつ「現在」を取り戻していく物語、財布は直ぐ近くのゴミ箱に捨てられ、彼の顔にはまさしく彼の「現在」を示唆する衣装が被せられる、その場で大人しくしていれば失わずに済んだのかも知れない「現在」を、彼はその場を離れることによって、むしろ(あるいはその「生命」と引き換えに)積極的に抛棄したようにも、彼が物語の最後に選択を迫られるのは、図らずも出現してしまった二つの「現在」の何れか、これは人生を二度生きた男のメルヘンなのです。

 現在はしかし現在があるだけではいまだ現在ではない、言葉遊びのようにもなってしまいましたが、つまり「現在」とは予め蓄積された「過去」があって始めて「現在」であり得るわけで、「過去がない」はずのマリック・ペルトラが此処に「現在」を獲得していく過程は、同時に彼が「過去」を生成していく過程でも、映画的虚構にはそもそも過去などないと上の方で書きましたが、しかし、此処に生成された「過去」とは、我々がその生成の現場に立ち会いもした比較的確かな「過去」であり、それは彼の記憶が「汽車に乗っていた」ことから始まるという、我々の記憶とまさに一致するその事実をしてより確実なものとなります。庭先に植えられたジャガイモの成長、『メメント』のガイ・ピアースならそれが何故其処にあるのかさえ分からないはずなのですが、しかし、マリック・ペルトラにはそれ、その成長を果たしたジャガイモの「現在」が彼が以前ある目的を持ってそれを植えたという「過去」の結果としてあることを十分に理解しているわけで、つまり、その事実をして彼は既に「過去のある男」と、不仲だった細君との再会を待つまでもないのです。此処にあるのは、本来的に「ない」はずのものを確実に排除して、一個の虚構が持ち得るすべてを我々と共有する試み、故に、其処に生成され蓄積されていく過去、あるいは目撃される現在は特別な意味を持ち、その虚構はより確実な存在としてその生き様を我々の前に差し出すことになるわけで、彼に向けられる視線はより真摯なものとして、この映画を介して、我々は一個の虚構の「誕生」に立ち会うことにすらなるのです。

 映画あるいは物語が97分間という僅かな時間の中にのみ(真に)生きるのなら、(現在がある以上)決して「ない」などあり得ない映画の「過去」は一体何処にあるのか、他の映画作家のことはともかく、アキ・カウリスマキに関して言えば、それは酒場の壁に飾られたポートレイトであり、カティ・オウティネンの「イルマ」という役名であり、あるいは「ハンニバル」と名付けられた犬の素性、どれを観ても然して代わり映えのしない俳優達の姿もやはりそうなのかも知れません。それは、彼らが演じる(演じた)虚構がスクリーンの外に想像させもした何かとはまるで違う確実な「過去」であり、決して物語を繋いだりするものではないにせよ、しかし、其処に間違いなく「在った」ものとして我々の認識を促すもの、あるいは、それはスクリーンの外、物語の外になど本来的に何もない故にこそ浮かび上がる「何ものか」であるとも、短い断片としての人生を繰り返し生きた人達、人生を二度生き、そして、何よりも確実な「現在」を選択した男の物語が示唆するのは、我々の時間を間違いなく繋いでいる確かな記憶(過去)へのノスタルジーにも似たものなのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、最近の恵比寿ガーデンシネマでは別に珍しくもないこと、当たり前のようにすべての席が埋まっていました。驚いたのは、この映画と入れ替わりで狭い方の箱へ移動した『ボウリング・フォー・コロンバイン』が、いまだに(午後2時半の時点で)レイトショー上映以外のすべての回が売り切れていたこと、日に日にキナ臭くなる中東情勢との関わりはやはり無視できないところでしょう。しかし、幾ら初日とは言えカウリスマキの映画が満席になるとは、最近ではやはり恵比寿ガーデンシネマで上映されたウディ・アレンの映画がそれなりに客を集めていたりも、以前では考えられないことなのですが、此処のところの流れを見ていると「映画館=場所」が客を集めるということもあり得るのかも知れませんね。「ブランド効果」のようなもの。
 余談ですが、この映画の中には列車の車中を捉えた場面が三回あって、マリック・ペルトラがデッキに立って紙巻き煙草を銜える冒頭の場面と、彼が細君に会うためにヘルシンキを離れる場面、そして、またヘルシンキに戻る「スシ」の場面、マリック・ペルトラが1番目と3番目のそれではスクリーン向かって右側(の席)にいたのに対して、2番目のそれでは左側に、その位置関係は列車の進行方向に一致しているのですが、こういうのもやはり「イマジナリーライン」の一種ということになるのでしょうか?


Index