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キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
監督:スティーブン・スピルバーグ
2003年3月21日(新宿プラザ劇場)

 ソラリスの海へ



 アキ・カウリスマキの『過去のない男』に関する文章で、その映画に於いては制服が専らその人間と社会との関わり合いを示唆する記号として機能しているといった趣旨のことを書いたのですが、それはこの映画に於いても同様、その「機能」を逆手にとって他者の目を欺くのがレオナルド・ディカプリオであると言えます。「服装によって人間は判断でき、制服がその人の社会的地位を表していると本気で人々が信じていた頃の話だ」とはスピルバーグの発言なのですが、これはつまりそういう時代背景に基づく物語、記号が正常に機能し得た時代だからこそディカプリオの驚くほど幼稚にも見えてしまう詐術が通用し得たという「現実」が示されます。では、『過去のない男』はどうなのか、其処にはその機能を逆手にとる人間など現われないのですが、しかし、その記号が有効に機能しているのもまた間違いのないことです。北欧にはまだまだ善良な人間が多い、あるいは、社会状況の違いがいまだそれを有効に機能させている、という考え方もあるのだとは思うのですが、しかし、両者の違いはもっと別のところに、スピルバーグのそれが「現実的虚構」であるとするならば、カウリスマキのそれは「虚構的現実」とでも言うか、つまり、後者では現実の社会に於いてその記号が正常に機能しているかどうか(それが現実的であるかどうか)など大した問題でもなくて、その表層の詐術がより深い「現実」を示唆し得ることをむしろ重要視している、要は表現手法の一種に過ぎないということです。誰かを騙しているという話ならば、カウリスマキは観客を騙していると、しかし、それ故にこそ制服を持たない存在の寄辺なさが其処に(より明確に)炙り出されてくるわけで、その「現実」を得るためには事実の誇張など言わば方便のようなものなのです。その意味に於いて、それが実話を基にした物語であることも含めて、錯時法が用いられていようが誰でも知っているようなハリウッドスターが顔を揃えていようが、現実的なのはむしろスピルバーグの方で、カウリスマキのそれはあくまでも「メルヘン」であると、勿論、それは其処に発見される言語の軽重とはまるで関係のない話です。

 この映画に於いて積極的に用いられている錯時法に関して言えば、その「非=現実主義的」な手法の成立を容易にしているのが、むしろその実話に基づくとされる物語の「現実性」にあるというのが面白いところで、要は、大方の観客にとってそれが既知の物語である故に、その結末を隠蔽することに然して神経質になる必要がないというだけの話なのですが、本来「現実的」なのであろう物語を映画的に解体/再構築することによってむしろ積極的に非現実化するという、其処に「娯楽性」を持ち込むあり方としては模範的と言えるのではないでしょうか。

 それがアンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』からの引用なのかどうかは知りませんが、私が迷わずそのラストシークエンスを想起した場面があって、それは移送中の飛行機から見事に脱出したディカプリオが母親の暮らす家を訪れて、窓の外からその幸福そうな様子を眺めるというそれ、しかし、よくよく考えてみれば、これは随分と奇妙でタルコフスキーのそれがそうであるような「幻想的」な場面であるとも言えます。そもそも父親の死を確認するために逃亡を図ったはずのディカプリオが何故〔既に離婚した)母親の新しい家庭を訪れる必要があるのか、勿論、母親にその事実を確認するためということも考えられるのですが、しかし、方法は他に幾らでも、追手が一番に探すであろう場所にわざわざ出向く必要など何処にもありません。ディカプリオの存在に気付いた幼い娘がそれに驚きもしないというのもまた奇妙なことで、少なくとも「現実的」であるとは言えません。この映画はその表題の通り追う者と追われる者の物語、しかし、それが単にレオナルド・ディカプリオとトム・ハンクスによる「捕物」を意味しているだけでないのは言うまでもないことで、クリストファー・ウォーケンと税務署の関係もやはりそうですし、そのウォーケンとディカプリオの父子関係に於けるそれもそう、この場合、その父子関係のそれの方がむしろ重要であるとも言えます。最後にはあっさりと追手に捉えられてしまうその場面はディカプリオにとって逃亡生活の終わりを意味すると同時に、また追跡生活の終わりをも、ひたすらに追跡を続けていた相手、即ち父親の決定的な不在が彼のその生活に幕を下ろさせることになるわけです。本来いるはずのない場所にその不在を確認しに行く、ディカプリオが追い掛けていたのは単に父親の存在だけではなく、それを重要な一個のピースとして嵌め込むべき「家庭」という一個の理想郷、嘗てあった、物語序盤のダンスの場面が取り分け印象的な完璧なそれへの回帰が、此処に於ける彼のあらゆる行動を促していたということなのかも知れません(故に、それと丁度入れ替えで与えられる疑似的な父子関係による「救済」ではまだまだ足りないとも言えます)。父親の死、その肉体の不在は抽象化され場面は現実感を喪失する、「嘗て在ったもの」へのノスタルジーは、それが特定の個人に関わるものであることすら簡単に止めてしまいます。その意味に於いても、これはやはりタルコフスキーのそれを想起せざるを得ないわけで(『惑星ソラリス』のその場面に目撃されたものを考えれば尚さら)、そして、それを媒介する余りにも「スピルバーグ的」な装置としての少女の眼差しは、優しくもありまた冷たくも、既に失われたものが投げ掛ける視線、見事逃げ果せた者のみが本来発し得る「掴まえてみろ!」という挑発的な言辞は、むしろその少女にこそ相応しいのかも知れません。

 巧妙な錯時法によって語られてきた物語がその「ソラリス」の幻想的な場面に見事収束する、しかし、それでもまだ物語は終わらない、最近のスピルバーグ映画の「特徴」とでも言うべきなのでしょうか。その不明な「二段構え」がこの映画を141分という無用な長尺に仕立て上げているのは言うまでもないことで、以下に続くものが物語的に不要だとは言わないにしても、しかし、141分という時間枠の方が予め決まっているかのような不経済はどうにも理解し難いものがあります。仮に最後の「蛇足」を物語的に認めるにしても、ならば『ゴールドフィンガー』のシークエンスなど物語的にはまるで不要、意味があるとすれば、専らブラウン管を介して学習を続けてきたディカプリオがそのシークエンスに於いてのみスクリーンを介して学習するというそれだけ、同じ入場料を払うなら1分1秒でも長い方がより「お得」であるという子供染みた「経済学」を信じる人などさすがにいないはずです。

 公開初日、祝日の午後、千人の劇場は当たり前のように満席でした。スティーブン・スピルバーグ、レオナルド・ディカプリオ、トム・ハンクス、まあ、これだけの名前が揃えば、中東方面の情況が気になる最中とは言え、黙っていても客は集まりますか。個人的にはクリストファー・ウォーケンとナタリー・バイが好演がむしろ、特にナタリー・バイのそれは『未知との遭遇』のフランソワ・トリュフォー同様、(個人的な)スピルバーグの好感度を多いに高めるものです。そう言えば、私の耳が確かなら、この映画にはシフォンズの「ヒーズ・ソー・ファイン」という曲が使われていたのですが(「サントラ」には収録されていないようです)、その曲はジョージ・ハリスンの「マイ・スイート・ロード」の「盗作元」として知られるもの、「偽物」に関する映画でわざわざその曲を引用するというのは、あるいはジョージ・ハリスンに対する強烈な皮肉なのではないかと、まあ、私の考え過ぎだとは思いますが。


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