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ヘヴン
監督:トム・ティクヴァ
2003年3月30日(シャンテ・シネ2)

 その世界の終わりを



 クシシュトフ・キェシロフスキという7年前に急逝してしまった映画作家、彼の映画が語られる場合、「運命」や「偶然」という言葉が必ずと言ってよいくらい用いられることになります。巧みに配置された偶然が物語展開に大きな影響を与え、その物語を非常に劇的なものに、そして、それは時として一個の物語(映画)の中には収まり切らず、複数の物語(映画)に連なることも、彼の代表作とも言える「トリコロール三部作」などその好例と言えます。『偶然』という文字通りの表題を持つ映画では、一人の青年の運命を或る状況に於ける成り行きの違いによって三つに分け、ほんの些細な偶然が人間の運命を大きく変えてしまうことを指摘してもいます。しかし、これは当たり前の話なのですが、物語には偶然など本来的にあり得ないことで、物語的な偶然とは即ち作家による必然、あくまでも作家によって然るべく「配置」されたものであるに過ぎません。例えば、或る男女が偶然街角で擦れ違う、その時はお互いの存在に気付きもしないが、その数年後に運命的な再会を果たす、映画では珍しくもない光景ですが、最初の「擦れ違い」も後の「再会」も予め決定されていたこと、擦れ違う男女を捉えるカメラは偶然其処に居合わせたわけでは当然ありません。否、人間の運命とはそもそもそういうもの、多くの偶然、決して自発的意思によって決定されたわけではない様々な事象の気の遠くなるような連なりによって漸く支えられているものであるというのはおそらく事実であり、キェシロフスキの映画が指摘するのもその事実に相違ないのですが、しかし、此処に於いて差し当たり問題とすべきは、誰がそれを配置したのかということ、決して誰によって配置されたわけでないからこその「偶然」であり、誰かに配置されたものである以上、それはあくまでも「必然」であると、現実の場面に於けるそれを必然と見做す人は、其処に「神」の存在をも見出すことに、作家が「神=創造主」に喩えられるのなど別に珍しいことでもありませんが、キェシロフスキのように偶然(を装った必然)をより多く持ち込む作家はより積極的に「神」であろうとしているとも言えるわけで、彼によって創造された世界が完璧で美しいのも、其処に於いては彼自身がすべてを支配し得る唯一絶対の「神」の役割を積極的に担い、それ以外のものを受け容れない故、其処には破綻や矛盾などあり得ず、常に整合性が保たれている、「残酷な結末」や「偶然の不条理」は溜息が出るほど美しく、そして完璧に配置されているのです。

 作家が積極的に「神」であろうとする物語、其処に創造された完璧で美しい一個の完結した「世界」は、しかし、その作家の存在のうちに「世界の終わり」をも発見して得てしまうという意味で、些か退屈なものであるとも言えます。一人の作家によって一個の球体の中に押し込められた世界は、その球体の外殻を以て終わることが予め知れており、その中に配置された何かがその外殻を突き破ることなどあり得ない、むしろ、それ故にこそ完璧であり得るとも言えるのですが、しかし、少なくとも生身の人間がその人生や現実を俯瞰すること、神の視座を得ることなどできない以上、現実として其処に目撃される世界は気紛れで矛盾に満ち、そして、果てしのないもの、それは何処までも不完全で、其処に予感される「終わりのなさ」は苦痛ですら、それでも、それ故にこそと感じられる美しい瞬間を積み重ねて生きているのが人間というもの、あるいは、キェシロフスキの完璧な「宇宙」を憧憬しつつ。確かに、あらゆる映画など所詮は長方形の「枠」と有限の時間が仮構する一個の閉じた世界であるに過ぎないとも言えるのですが、しかし、その枠の中に積極的に何かを閉じ込めようとするのばかりが映画でもなくて、積極的に逸脱を試みるのもまた映画、周到に配置された「偶然」と「運命」の複雑な絡み合いが物語を拡張すればするほどにも、其処に俯瞰されたあくまでも一個でしかない世界は見る見る縮小していく、あるいは、「神」の仕事が増すほどにもその世界は憂鬱で退屈なものに堕していくと、「完璧な美しさ」を嫌悪してみるなら、差し当たりそんなところでしょうか。

 さて、そのキェシロフスキの遺稿(脚本)を元に撮られたのがこの『ヘヴン』という映画、その遺稿がどの程度の出来上がっていて、どの程度忠実に再現されているのかはよく分からないのですが、確かに、この映画には上述したようなキェシロフスキの「世界」が見事に構築されているようにも思われます。爆弾を仕掛けたゴミ箱を清掃人が持ち去ってしまうことによって起こる「偶然」の悲劇など言うまでもなく「キェシロフスキ的」ですし、何気ない部分、例えば、目的のビルへ向かうケイト・ブランシェットが信号待ちをする横断歩道で一瞬バイクに撥ねられそうになる場面があるのですが、それなど「もしバイクと接触していたら」と観る者に「偶然」の可能性を示唆するもの、そして何よりも、此処に多用される空撮による俯瞰ショットが「神」の視座を大いに予感させ(キェシロフスキ自身にはそういうアプローチの仕方は余りなかったような気もしますが)、それが何者かによって俯瞰されてしまう(俯瞰されているに過ぎない)「世界」であることを教えてもいます。ただ、ヘリコプターが澄み渡る青空に向けてひたすら(垂直に)上昇を続けていくこの映画の美しいラストショットだけは、『偶然』の飛行機のような結末がいつ訪れるのかと待ち構えていた身には甚だしくも意外な印象を、それは「宇宙」の外殻を突き破り、完璧に構築された世界を逸脱してしまったようにも見えてしまいます。しかし、何かの可能性を指摘しているかのようなその結末も、考えてみれば、その結論は物語冒頭に於いて既に予告されてもいるわけで、やはりキェシロフスキが構築する世界には其処からの逸脱などあり得ないと、もはや視界からヘリコプターの姿が消滅した青空に染み出してくるかのように漸く現れる「表題」は、物語的な結論がそうであるのと同じように、この映画の構造もまたその始まりへと回帰すべく促しているかのよう、無限循環あるいは永劫回帰、この「世界」はやはり閉じられているのです。

 運命的に出会った男女の逃避行の物語、実際「逃避行」即ち「移動」の場面というのは全体からみるとほんの僅かな時間が当てられているだけなのですが、しかし、その一連のシークエンス(流れ)は実によく出来ています。例えば、トラックの荷台に隠れて脱出を図る場面、運転手が突然カーセックスを始めて困惑する二人のカットに続くのは、走り出したそのトラックが赤信号で停止した反動で荷台の扉が開き、荷台の荷物が路上に散乱してしまうカット、それに気が付いてトラックを降りる運転手の姿に観客は危機的状況を予感してしまうのですが、しかし、それに続くのは列車のシートで肩を寄せ合って静かに揺られる二人の姿、つまり、前のカットでは二人は既にトラックを脱出しており、それ故にこそ荷台の扉が開いてしまったと、その列車から降りる場面もやはり省略されていて、俯瞰ショットで捉えられた列車が通り過ぎた向こう側には既に列車を降りて其処を歩いている二人の姿が、カットの繋がりからして観客は(その俯瞰ショットで捉えられた)列車に当然まだ二人が乗っているものと思い込むのですが、それもやはりはぐらかされてしまうわけです。映画に慣れている観客には何てことのない「省略」なのですが、こういう「はぐらかし」は単に観客に意外な印象を与えるだけではなく、映像的にも流れるような「移動」を実現するもの、やはり男女の逃避行の物語である『気狂いピエロ』にあったそれを成熟させた感じとでも言うか、とにかく、観ていて気持ちの良い「連鎖」です。また、この映画で良かった点をもう一つ挙げれば、それは緊張した場面での「音」の使い方、意を決したケイト・ブランシェットが上着を羽織るときの大袈裟な衣擦れの音や、それに続く一連のシークエンスに於ける些か誇張された時計の秒針の音やドアの音、既述のトラックの荷台の場面では、ニュースか何かを流しているカーラジオの大きな音が終始聞こえてくるのですが、それが字幕表示のないイタリア語で、つまり、観客の耳には単なる「音」でしかないという、その不気味さは否が応にも場面の緊張感を高めることになります(尤もこの「イタリア語」が、イタリアはともかく、日本以外の国、主に英語圏で上映された際にどのように処理されているのかは定かではありませんが)。

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、観客は疎らでした。この映画の公開と関係があるのかどうかは知りませんが、少し前から渋谷ではキェシロフスキの特集上映が行われており、私も本邦初上映となるらしい2本の他数本を観たりしました。この文章ではキェシロフスキの世界に難癖を付けるようなことを書いてもいるのですが、彼の作品を初めて観た当時はその完璧に組み合わされた隙のない「世界」に憧れたりもしたもの、すべてを自在に操り独自の世界を構築するという意味では福永武彦の小説などもそうなのですが、その同じ時期にはやはりそんなものを好んで読んでいたりもしました。今となってはその「世界」を些か退屈なものと、それは多分、私が世俗に堕してしまった証左に他ならないのでしょう。尚、ケイト・ブランシェットの坊主頭も悪くはなかったのですが、少し前にサマンサ・モートンの余りにも見事なそれを見てしまっていたので印象は今一つ、丸顔の女性のそれの方が、決して恰好が良いというわけではないのですが、スクリーンで見て何となく見栄えがするような気がします。


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