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ぼくんち
監督:阪本順治
2003年4月12日(シネスイッチ銀座1)

 肉体は精神を駆逐する



 観月ありさが「ぼくんち」で始めて子供達に紹介される場面、カメラはその狭い日本家屋を子供の視線よりさらに高い位置から俯角気味に捉えています。畳敷きで人間が其処に正座をしたり胡座をかく日本家屋と言えば、やはり誰しもが小津安二郎のローアングルを想起するのだと思うのですが、この場合、それが意識されているのかどうかは知りませんが、そのショットはしかし明らかに意図的なもの、阪本順治というのは、『顔』のときもやはり同じことを感じたのですが、狭い場所をより狭く捉えると言うか、現実に狭いその貧相な日本家屋をそのまま、むしろその「狭さ」を強調するように撮ることを心掛けているよう、実際、その空間は如何にも窮屈そうな感じに映ります。同様のショットは他にもあって、ピンサロの控室や中華食堂を捉えるショットも俯角気味に撮られており、これらもやはり観る側はその空間の狭さを意識することになります。狭い場所を狭く撮ることは別におかしなことでも何でもないのですが、この場合、肝要なのは、相対的に其処にいる人間が大きく見えてしまうということ、元来が手足の長い、言い方をすれば「大女」である観月ありさがその所為でますます大きく見えてしまうわけで、否、企図されているのはむしろ其方ではないかとも考えられるわけです。観月ありさがやはりその狭い空間でゴロと昼寝をしているところに長男が帰ってきて、という場面などショットとしては相当に異常であるというか、スクリーン狭しと身体を横たえるそれはまるで怪物のよう、綺麗な女優を何も怪物のように撮らなくてもとは思うのですが、これもやはり意図的なものに相違ないのでしょう。そもそも、この映画は観月ありさがその大きな足で勢いよくボートの船底を踏み付けるカットから始まっているわけで、仕草としては言わば「男勝り」なそれも彼女の性格や精神状態というよりは、やはり人並み以上に発達したその身体を其処に捉えるべくのもののように思われます。あるいはこんな場面もありました。買物帰りの観月ありさがガソリンスタンドの前を通り過ぎるのですが、人気のないそのスタンドに何気なく立ち寄った彼女が何をしたかというと、其処に立つ給油機の周りをグルと一周り、そのこと自体、物語的には何の意味もないのですが、しかし、観客が彼女の背の高さを改めて確認するという意味に於いては、十分に意味のある場面とも言えるのです。序でに言えば、彼女の母親役を演じている鳳蘭も、彼女と並んで立っている場面をみればよく分かるのですが、彼女と同じくらいに背が高く、やはり「大女」だったりもします。

 さて、観月ありさがとにかく「大きい」ということはよく分かったとして、では、そのことに一体何の意味があるのか。これは「大人」と「子供」の物語、大人と子供の違いはその精神状況や社会的な立場等、色々とあるのですが、しかし、やはり一番の違いはその身体に、単純な話、その「大きさ」が違うのです。スクリーンに誇張された観月ありさの身体はまさに大人のそれ、ピンサロ嬢という物語設定の割にはそれがまるで性的な方向へ肥大しないのも、此処に於ける彼女はあくまでも子供と対峙する存在としての大人である故、あるいは子供の視線によって捉えられた大人が企図されているのかも知れません。ともあれ、表層的な事実としてスクリーンにその差違が明らかにされた大人と子供、もはやその内面(精神)に於ける差違など然して重要ではなくて、実際、此処に登場する大抵の大人は、無責任な母親である鳳蘭を初めとして、精神的には殆ど子供と同次元の存在、その身体の優位性を以て辛うじて(子供とは差別化された)大人であり得ているという、ただそれだけの存在でしかないのです。それは子供の場合もやはりそうで、その内面、精神状況を以て(大人との)差別化を図ろうとする物語が子供を神聖化、必要以上に純粋無垢な存在としてしまうのとは対照的に、此処に於いてはそのような「落し穴」に嵌まることもなく、専ら身体の足りない存在として其処に示されるに止まるのです。それでも、此処には大人と子供の「然るべき関係」が十分にあり得ている、これはむしろその関係の物語であると言っても過言ではないのですが、その関係とはつまり「教育」に於けるそれ、大人と子供の関係を捉えた物語はその大半が「教育」の物語であり、この映画もやはり例外ではないのです。

 ひたすらに「起立」と「点呼」を繰り返すことによって「学校」の何たるかを教育する今田耕司、勿論、物語的に言えば、彼は無学である故にそれ以上のことを教えることができないというそれだけの話に過ぎないのですが、しかし、それは自身の身体(の運動)を以て子供に教育を施すという此処に於ける重要な主題を端的に示しているものであるとも言えます。そもそも此処に登場する大人は大抵がそう、それは貧困と無教養の故にその殆どが肉体労働に従事していることにも通底するのですが、無教養な人間はその身体に刻まれた経験とその伝達を以てのみ「教育」を果たし得るのです。身体に予めイコンを刻み付けて登場する真木蔵人もそう、時には子供に対しても向ける彼の暴力的な動作が一つの教育であり得ているとも確かに言えるのですが、しかし、この場合は、例えば、物語の最後の方で彼がヤクザ者に派手に殴られる場面、そのボロボロになった身体を示してみせることによって「約束を守らないとこうなる」と、むしろ自らの身体の破壊を以てより重要な教育を果たしていると言った方が適当なのかも知れません。「死んだフリ」で川面にその身体を浮かべてみせる志賀勝にしてもやはりそう、その点で言えば、物語的には最も滑稽な存在である岸部一徳が教育者としてはむしろ一番「まとも」なのかも知れません。そして何よりも、「泣きたいときは笑え!」と「言語」による教育を試みたところで「泣きたいときは泣けばええんとちゃうんか!」とあっさり反論されて二の句も継げなかった観月ありさが、既に指摘した彼女の身体を誇張するあらゆるショットはひたすらにその瞬間を待つためにのみあったのではないかとさえ思わせる、その大きな身体、長々した手足を此見よがしに示してみせる「求愛のダンス」こそが、此処に於ける大人と子供のあるべき関係、「身体表現による教育」を見事に象徴化していると言えるのでしょう。子供が背負うには些か大き過ぎるようにも見えるあの赤いリュック、其処に伺い知れるのもやはり、夢か希望か、彼に託された何かの「大きさ」なのです。

 公開初日の土曜日の午後、単館上映の扱いですから当然でしょう、満席でした。一体何処から湧いてきたのやら、劇場内では其処彼処から賑やかな関西弁が、シネスイッチ銀座本来の雰囲気とは少し違っていましたね。そう言えば、『顔』のときも同様の状況が、あの場合は藤山直美が主演でしたから、当然と言えば当然と言えるのかも知れませんが。ともあれ、阪本順治というのはそういう人なのでしょう。しかし、この映画の公開は当初の予定より随分と遅れてしまったような、予告編は随分と前からやっていましたし、「春休み公開」と謳われたポスターを目にしたことも、その前に上映されていた『抱擁』が意外な人気だったということでしょうか? よく分かりません。


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