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the EYE【アイ】
監督:彭順、彭發
2003年4月13日(シネクイント)

 美しく、堕落する



 あらゆる映画はハリウッドとの距離によって測られる、と言ったのが誰だったのかは忘れてしまいましたが、「トム・クルーズがリメーク権を獲得した」というそれが他の何よりも先ず謳われてしまうこの映画に関わる事実は、その距離の「近さ」が一つの価値として世間的に認知されているという証左に他ならないのでしょう。『バニラ・スカイ』でその「実績」が広く知られるトム・クルーズが「リメーク権を獲得した」とは、即ち「ハリウッド」がその面白さを保証したということに同義、なるほど、確かに分からない話でもないのですが、しかし、今どきそんなことに価値を見出すのも些か敗北主義的であるというか、アジア映画を「ハリウッド予備軍」の如くに見做すのもどうかと、「すべての道はハリウッドに通じる」なんて時代でもありません。尤も、その恥ずかしい宣伝文句を採用したのは本邦の配給会社なのでしょうから、この映画やその直接の関係者には何の関わりもない話、迷惑と思いこそすれ、ではないでしょうか。そもそもこの映画は然して面白くもないわけで、否、あるいはだからこその謳い文句であるとも、これはこれで案外妥当なのかも知れませんね。

 アンジェリカ・リーがエレベーターに乗る場面。横長のスクリーン中央に捉えられた彼女のクロースアップが暫く続いた後、正常な精神状態の人間ならば誰しもが生理的な反応し示してしまう「ドン!」という不快な効果音と共に一瞬カメラが他所を向いて、直ぐにまた同じショットに戻る、すると、そのスクリーン右端の「余白」には、先程のショットには映っていなかった不気味な人影が見えている、と、この映画に仕組まれた恐怖のカラクリは終始そんな感じ、「恐怖」というよりは「驚愕」の方が表現として正しいのかも知れません。実際それで大抵の観客は驚きますし、私もやはり驚きました。巧妙なのは、その前の場面との関係からそうなるであろうことが観客に予め知れていること、観客は「いつ現われるのか」と身構えつつもやはり驚かされてしまうのです。しかし、だからどうだというものでもなくて、斯様に人間の生理に直接訴え掛けるようなのを「アンフェア」などと言うつもりは毛頭ありませんが、それが何に似ているかと言えば、「映画」というよりは「お化け屋敷」、一概に「お化け屋敷」と言っても怖いそれもあれば少しも怖くもないそれもありますから、この映画は差し当たり「良く出来たお化け屋敷」といったところでしょうか。そうでない部分、物語的に怖いところも勿論あるのですが、しかし、この映画はオープニングからしてそう、余りにも「ポップコーン・ムービー的」な低俗さが目に付き過ぎてしまうところがあるようにも思われます。エレベーターの隅に(如何にも思わせぶりな感じで)後ろ向きで現われた幽霊が振り返るとその顔が半分潰れていてまたまた吃驚、殆ど手を付けていないはずのポップコーンがもう半分しか残っていません。

 誰の目にも映ってしまうものは「幽霊」ではなくて、多分もっと別な何か、それが何なのかという話はさておくとして、故に、所謂「幽霊もの」にはそれが「見える人」と「見えない人」がいて、大抵が「見えてしまう人」の悲劇の物語、この映画もやはり例外ではありません。この映画がユニークなのは、その「見える人」の見える理由が角膜移植された目そのものにあるということ、しかも、それ以前は幽霊はおろか、この世の中に間違いなく在るのであろうすべてのものがまるで見えていなかったのです。アンジェリカ・リーは2歳のときに何らかの理由で失明して、20代前半と思しき「現在」になって漸く視界を取り戻す、医者がホチキスを見せてもそれが何なのかすら分からないのですが、それに触れればホチキスだと分かる、彼女の「世界」を象徴する場面と言えます。視界を取り戻す以前の彼女にとって確実なもの(世界)とは即ち手で触れることのできるものだったわけで(タイトルクレジットの背景が示唆するのもそれでしょう)、視界を得た彼女の蹉跌はその動作を怠ってしまったことに、つまり「見える/見えない」ではく「触れる/触れられない」をその判断基準とすれば、幽霊など誰にとっても存在しなくなってしまうわけで(その基準で存在の有無が確定されるものはもはや「幽霊」ではありません)、悲劇の一因もやはり其処に、この物語に於いて、視界を取り戻すことが即ち悲劇の始まりであるというそれは、幽霊というものが唯一視覚認識によってのみ明らかになる存在であるという今さらながらの「原理」を上手く利用しているということ、その意味に於いても、この物語の発想はやはりユニークなものであると言えるのかも知れません。盲人の楽団からは排除され、難病を患い退院の見込みのない少女からは何となく距離を置かれてしまう、取り戻された視覚は別のカタチでも物語に影を落とし、彼女に絶望的な疎外感をもたらすことになります。何れにせよ、此処に於けるアンジェリカ・リーの「堕落」は、例えば、上述のエレベーターの場面、彼女が其処に在る何ものかを「幽霊」と見做すのは、備え付けの監視カメラの映像即ち「他者(見えない人)の視覚」と「自身(見える人)の視覚」の比較に於いて、ほんの数日前まではその手で触れることのできるものだけが「世界」だったはずの彼女にとって、これはもはや酷い堕落であるとしか、「世界は美しかった」とは言い条、その代償は余りにも大きかったと、美と堕落、堕落と美、それらが決して切り離すことのできないものであるにせよ。

 物語は中盤を過ぎたあたりから少し意外な展開をみせることになるのですが、転換の契機となる電車の場面こそ背筋の寒くなる思いをさせられるものの(何気なく車窓に映っているものを含めて)、しかし、それ以降は、アンジェリカ・リーが「見える人」である理由が次第に明らかとなっていくに連れ、段々と退屈に、もはや「視界を得る=見えてしまう」こと自体が悲劇を生む一個の装置であることを止めてしまうのです。何故なら「何故見えるのか?」を探るそれは、アンジェリカ・リーに科せられた不条理を第三者の悲劇の物語(条理)にひたすらに転嫁する作業に他ならないからです。此処に明かされる謎であるとか超自然の摂理というものが、「あなたの知らない世界」の次元であることを今さら指摘しても詮ないのですが、しかし、そもそもホチキスすらまともに視覚認識できない人間を主軸に「見える/見えない」の物語を展開するなら、もう少し何か気の利いたやりようもあったのではないかと、此処はやはりトム・クルーズに期待でしょうか。ただ、『プロフェシー』を想起しなくもないハリウッドとの距離が一段と近くなるクライマックスを経て到達する物語的な結論はまさに原点回帰とでも呼ぶべきもの、「見える人」の悲劇に何らか「救済」があり得るとすれば、それは「見えなくなる」ことを以て他者との差違が消滅することに、此処に於ける結論もやはりそれに違わないのですが、既に指摘した「堕落」すらも遠ざけてしまうその決着の付け方は、物語的には幾分残酷であれ、帰還すべき場所に帰還したという意味に於いて、見事な均衡を為していると言えるのではないでしょうか。

 公開から何週か経った日曜日の午後、この映画館は何を観てもそんな印象があるのですが、立見の出る盛況ぶりでした。客層もやはり何を観ても同じような印象で、いつもセンター街をウロウロしていそうな若者が大半、「ポップコーン・ムービー」に相応しいと言えば、そんな感じなのかも知れません。
 男性の医者と女性の患者が恋愛関係に発展するのなど「物語」に於いては然して珍しくもないことなのですが、しかし、この映画のそれの場合、医者が何一つ医者らしいことをせず、ひたすら恋愛感情にのみ突き動かされて行動しているかのよう、両者が初めて顔を合わせる場面でいきなり医者の方が患者を女性として意識することを示唆するカットが挟み込まれるのですが、結局、最後までそれ、先日他界してしまったレスリー・チャンが精神科医を演じた『カルマ』も(彼は十分に医者としての役割を果たしているのですが)その点に関して言えば似たようなものでしたし、それらを観る限りに於いては、東洋の医者の倫理観は相当に低いのではないかと、他人事ながらも何となく心配になってしまいましたね。


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