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シカゴ
監督:ロブ・マーシャル
2003年4月19日(新宿ピカデリー1)

 映画の優位性



 十年以上前にアメリカで放映されていた「ザ・マペット・ショー」というテレビ番組、ジム・ヘンソンやフランク・オズが操るマペット達が(人間の)ゲストを迎えて「ボードビルショー」のようなことを繰り広げる実に愉しい番組なのですが、テレビ番組でありながら、しかし、あくまでも架空の観客を前にしたマペット達が舞台上でコメディを展開するという形式、そのような体裁が考案されたのは、おそらくはマペットの致命的な弱点を違和感なく隠すため、彼らが許容できるのは正面からのカメラだけなのです。そのテレビ番組とこのミュージカル映画に何の関係がある言うわけでもないのですが、あくまでも舞台を舞台らしく捉え、180度の範囲、つまりは客席からあり得る視点の範囲を殆ど逸脱しないこの映画を観ながら私が真先に想起したのがその「ザ・マペット・ショー」であると、それだけの話です。とは言え、今どきのミュージカル映画がそう槍玉に挙げられてしまうような「MTV的」な映像に堕したりしないのもやはりそれ故のことで、これが何に似ているかと言えば、例えば、マーチン・スコセッシの『ラストワルツ』がそうであるような、音楽コンサートの類を捉えた優れた記録映像のそれ、舞台演出が本職の監督が舞台を舞台らしく撮るのですから、その部分に間違いがないのなど当然と言えば当然のことなのですが。

 所謂「ミュージカル映画」が奇怪なのは道端を歩いている人間が突然歌い踊り出すからで、現実の世の中で同じことをやれば、そんな人は間違いなく病院送りになってしまうはずです。では、ミュージカル映画の中の人達は何故そんな奇怪な行動を取るのか、「それはミュージカル映画だから」と、確かに、それだけの話なのかも知れないのですが、しかし、ミュージカルとは舞台演劇の一種として本来的には舞台上で展開されるべきもの、その限りに於いては、あらゆる状況を無視して唐突に歌い踊り出そうが何の問題もないわけで、「舞台」とはそもそもそういう場所、其処に展開するあらゆることは予め虚構であることが約束されているのです。映画もやはり、横長の「枠」に仕切られた中で起こる大抵のことは虚構であるとの相互諒解が予め成立しているのですが、それが「映画」の持つ有名なアドバンテージの一つ、舞台と比べるとしかしその空間は明らかに現実的で、其処に於いて許容される人間の動作の範囲も、舞台上のそれと比べると、格段に狭くなってしまうのです。舞台劇を翻案した「ミュージカル映画」が些か奇怪でもある理由は其処に、つまり、舞台というあからさまな「非日常」ではなく、意図的に「日常」を模した空間で明らかに「非日常的」な行動が展開されてしまうからなのです。尤も、嘗ての「ミュージカル映画」全盛の時代にはその「奇怪さ」も十分に許容されていたと言うか、観客の側に虚構を虚構として受け容れる「鷹揚さ」のようなものがあったのだと思うのですが、今どきは必ずしもそう言い切れないところがあって、実際、ミュージカル映画など殆ど制作されていませんし、それが流行らないという事実が、観客の意識の変化を如実に示しているようにもまた思われます。数少ないミュージカル映画にしても、『ムーラン・ルージュ』ではそれが展開される空間の非日常性が殊更に強調され、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では現実(物語)と虚構(歌)の連続性がカメラワーク等の差別化によって予め抛棄されている、何れも「ミュージカル映画」が持ち込んでしまう「奇怪さ」を回避するための動作と言えるのではないでしょうか。

 舞台からスクリーンへの翻案に於いて、それに伴う「空間」の移行が「奇怪さ」の原因の一つであるとするならば、歌や踊りがあくまでも舞台上に展開されるこの『シカゴ』にその「奇怪さ」が見当たらないのも当然のことと言えます。逆の意味での奇怪さ、カメラが「舞台」を捉えてしまうことに然程の違和感を覚えないのも、やはり「映画」のアドバンテージでしょうか、映画の持つ空間に対する許容範囲の広さを示していると、其処に何らか「奇怪さ」があるとすれば、本来的には客席との「距離」の故に為されているキャサリン・ゼダ=ジョーンズの濃いメークアップが生々しくもクロースアップで捉えられてしまうことに、それもまた「映画的現実」と言えるのかも知れませんが。ともあれ、ミュージカル映画の本分とも言える歌や踊りがあくまでも舞台上に展開されてしまうのなら、では、此処にも間違いなく存在する「映画的空間」の意義は何処にあるのか、この場合、それは専ら舞台上で歌われる「歌詞」によって説明される物語状況を補完するためのものでしかありません。勿論、大抵の「ミュージカル映画」に於いてもそうであるような、場面と場面を円滑に繋ぐための装置としても十全に機能しているのですが、しかし、歌と踊りを舞台に預けてしまったこの映画が「映画」として為すのはやはりそれ、キャサリン・ゼダ=ジョーンズらが「収監されている理由」を歌うシークエンスなど特にそうですが、本来的に言葉が過剰で説明的なミュージカルソングの歌詞を、さらに映像によって補完しているという(本来はそれが無い故にこその「過剰」だと思うのですが)、映画のアドバンテージを有効活用しているのでしょう、映画的空間(現実)と舞台上(虚構)の忙しない「カットバック」も相俟って、些か煩わしく感じられてしまう部分も無きにしもあらずです。例えば、ルーマニア人の女囚が絞首刑になるシークエンス、場面からしてどうしても『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を想起してしまうのですが(状況が違い過ぎますから比較は余り適当ではないのかも知れませんが)、現実(物語)と虚構〔歌)が見事な融和を果たしたそれに対して、此処に於ける「現実(的な映像)」はあくまでも舞台上で展開される「虚構」に従属するものに過ぎなくて、舞台上に展開される「比喩」を野暮ったくも現実化して見せているとでも言うか、比喩(的な映像)はあくまでも比喩に止まり其処に言語をのみ生起するからこそ美しいわけで、幾ら手持無沙汰だからと言って、闇雲に現実化してみせるのが良いこととはとても思えません。そもそも、本来的には一個の空間(舞台)に展開され文字通り「虚実が入り乱れている」のであろうその現実と虚構を映画的に分断しているのが違和感の原因(デイヴィッド・クローネンバーグの『スパイダー』に於けるレイフ・ファインズの想起が何となく「演劇的」であるのは、彼がその想起された場面に居合わせるからです)、むしろもう一つ別の(一個の)空間にそのまま移行する、つまりは「奇怪さ」を受け容れる潔さこそが必要だったのではないかと。尤も、虚構をより「虚構らしく」見せるという意味に於いては、そもそもこれは舞台女優を夢見る女性の妄想の物語なわけですし、その「空間」の使い分けもそれなりに理に適っていると言えるのかも知れません。また、この文章では便宜的に「舞台」と「映画」を分けて書いていますが、当たり前の話、此処には「舞台」など何処にもなくて、スクリーンに映し出されるそれも含めたあらゆるすべてが一本の映画であると、話が少し戻ってしまいますが、其処に「舞台」を捉えたところで、それがスクリーンに投射されている以上、やはり「映画」以外の何ものでもないというのが映画の映画たる所以、「映画的でない」など、そもそもが筋違いなお話なのかも知れません。

 現実と虚構を映画的に分断しているという話の補足になりますが、確か、物語の初めの方に出てくるクイーン・ラティファがその「人となり」を歌によって説明するシークエンス、其処に於いては、それまでは例の目紛しいカットバックによって展開されていた現実と虚構が、歌の最後の方で一個の空間(舞台上)に融合されるという演出がなされていて何となく期待を抱いたのですが、それ以降、同様の演出が為される場面は残念ながら現われなかったように思われます。総じて、これは非常に良く出来ていて実に愉しめる映画であったと、否、それはこれまで書いてきた内容と決して矛盾する感想でもなくて、この映画を「面白い」と評価する人の殆どが、実際にはボブ・フォッシーの嘗ての仕事と「舞台演出家」としてのロブ・マーシャルの技量を評価しているに等しいことにも同じで、しかつめらしく「映画として」などと言わず、優れた舞台でも観ているつもりになれば(確かに、それにしては煩わしい部分が多いとは言え)十分に愉しめるものであると、舞台演劇的なものは舞台で観れば十分とは言い条、高い入場料を払ってブロードウェイの舞台でそれを観るのが躊躇われてしまう人でも、しかし、映画館になら気軽に足を運ぶことができる、それこそがまさに「映画」に与えられた一番のアドバンテージなのではないかと。

 公開初日の土曜日の夕方過ぎからの回、広い劇場はほぼ満席で、映画館を後にする際には、続くオールナイト上映の初回を待つ長蛇の列に出会したりも、オスカーの影響もあるのでしょう、興行的にも十分な成功を収めそうな雰囲気です。キャサリン・ゼダ=ジョーンズが他の二人と比べても格段に歌が上手くて矢鱈と「舞台映え」すると思っていたら、彼女はそもそもが舞台(ミュージカル)出身なのだとか。私はこれまで勝手に「モデル出身」などと思い込んでいました。すみません。


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