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北京ヴァイオリン
監督:陳凱歌
2003年4月26日(ル・シネマ1)

 スクリーンを往来するもの



 少年が得意のヴァイオリンで出産の「手伝い」をする。そのお陰もあって無事赤ん坊が誕生、上機嫌な「名士」はその謝礼を父親のリウ・ペイチーに渡そうとするが、彼は頑としてそれを受け取ろうとしない。仕方なく丁度其処にいた少年にそれを渡すと、少年は躊躇いもなくそれを受け取り、リウ・ペイチーは特に口を挟むでもなくその様子を黙って見ている。映画の冒頭にそんな場面があります。この場面に何となく頚を傾げたくなってしまうのは、そのような状況に於いては父親が息子を窘めるのが普通である故、遠慮なく謝礼を受け取ってしまう少年を、しかし、リウ・ペイチーはただ黙って見ているだけ、それに文句がないのなら自身が素直に受け取っていれば良かったのです。この場面に覚えた違和感がその後も暫く気になって仕方がなかったのですが、しかし、物語が進むに連れその違和感も徐々に解消、劇場内が明るくなって漸くその場面の「意味」にも理解が及びました。この映画冒頭に現われる何気ない遣り取りの場面は、ある意味非常に示唆的で、この映画全体に通底する幾つかの重要な事柄を予め言い当ててしまっているとも、父親と少年の関係、「金品の授受」というこの映画に於ける非常に重要なモチーフ、それらの答えがこの場面には隠されているのです。

 此処に於いては、とにかく「金品」あるいはその「授受」を巡るモチーフが即物的、非常に露骨なカタチでスクリーンに数多く現われることになります。少年たちが北京へ出発するまでの短い間でさえ、例えば、先に引用した場面のさらに前、川べりで散髪をしてもらった少年が料金を請求されて「お金はお父さんに」と言い残して走り去ることに始まって、リウ・ペイチーが帽子の底に慎重に隠すお金、小舟に乗って出発する二人に対して投げ掛けられるのは「北京へは一体幾ら持っていくのか?」という執拗な問い掛け、あるいは、舟に揺られる父親が重そうに抱えるのは(誰かに贈るつもりの)綿の束、と、まだまだ見逃している事柄も多いのかも知れません。二人が北京に到着して、そのモチーフをまさに具現化したような存在、チェン・ホンと出会ってからはその状況はさらに加速することになります。彼女は駅で別れを惜しむ愛人に札束を手渡し(以降、彼女が差し出す紙幣はすべて露骨にスクリーンに捉えられることになります)、荷物を運んでくれた少年に涙を流し取り乱しながらもチップとして紙幣を、後日再会した少年に今度はヴァイオリン演奏の謝礼としてやはり紙幣を、与えられた側は皆速やかにそれを受け取ります。ブーツの中に隠した札束や、リウ・ペイチーに差し出す5万元の札束等々、同様の状況は物語の終わりまで繰り返されることになるのですが、何れにせよ、「稼いだお金は全部洋服代に消えてしまう」と発言することからも知れるように、言わば「消費社会の奴隷」であることも含めて、世の中に金品を巡ってそれを「与える人間」と「与えられる人間」がいるとするならば、彼女は専ら与える側の人間であると言えます。

 北京に到着した二人が最初に体験する「挫折」にも、やはり即物的価値の象徴としての金銭が大きく絡んでいます。腐敗した音楽コンクールは才能など二の次で、実際には金で買われているようなもの、それを与え得る者のみが勝者となり得、それが能わない彼らは当然ながら其処から排除されることに、予め成立している、彼らには立ち入る余地すらない「与える者」と「与えられる者」の、つまりは「金品の授受」を巡る強固な関係、それに嫌気を差して些か厭世的になっているのが少年の最初の師となるワン・チーウェン、彼ら三人がある種の共闘関係を築くのも物語的必然と言えるのでしょう。「カネのための演奏などするな!」と嘗ての愛弟子に説教を呉れるのは少年の二番目の師となるチェン・カイコー(演じるユイ先生)、そんな状況が「芸術」にとって好ましくないのは誰しもが分かっていることなのです。肝要なのは、芸術を巡る「正常な関係」に於いては、むしろ金品を「与える側」の人間の方こそが敗者であるということ、この場合の勝者、即ち(金品を)「与えられる側」の人間がその対価として本来与えるのはその才能が成し得るもっと別な何か、およそ金品の授受(のみ)によって破綻なく成立してしまっているコンクールの「異常さ」は其処にあるわけです。

 誰しもが認めるように、この才能豊かな少年は「金品の授受」に関しては本来「与えられる側」の人間、実際、最初に引用した場面がそうですし、「与える側」の人間の代表とも言えるチェン・ホンからもやはり何度か、既に繰り返しているように紙幣は露骨にスクリーンを往来し、つまり、それは常に目に見えるカタチで与えられているのです。ヴァイオリンを売り払ってコートを手に入れる、少年の蹉跌は、本来の役割を逸脱して、ひたむきに「与える側」の人間であろうとしたことに、あるいはヴァイオリンが上手に弾けたところで、与えられるの所詮は「金品」に過ぎないと、少年なりに世の中の仕組みを看破してしまったからなのかも知れません。何れにせよ、どんなに心を込めてヴァイオリンを弾いたところでチェン・ホンの気を惹くことは能わず、それならばと「金品の授受」が成立させる堕落したシステムの中に自らを投じることによって状況の打開を図ったと、少年の突飛な行動の何らか解釈するとすれば、そういうことになるのでしょう。それが物語的な解決に繋がらないのは、この物語がその堕落したシステム自体をを否定しているから、少年に関わった(父親を除く)二人の「理解者」が、何れも少年から与えられた「金品」を返却することによって(チェン・ホンの5万元もワン・チーウェンの「茶封筒」もやはりスクリーンを露骨に往来します)、つまりはその通俗なシステムからの逸脱を試みることによってある種の「正常さ」を取り戻すのも、やはりその歪んだシステムが積極的に否定されているからに他なりません。

 この映画にはもう一つ、やはりスクリーンにその過剰を示すモチーフがあります。それは「衣類」、チェン・ホンを巡るそれは言わずもがな、リウ・ペイチーが全財産を隠すもののあっけなく盗まれてしまう帽子(帽子を盗まれた直後に彼が洗髪をするのは非常に愉快な場面です)、ワン・チーウェンの薄汚れた身なりや部屋中に散乱する靴下やもはや色の見分けが付かないくらいに汚れたセーター、リウ・ペイチーが少年に編んだセーターとチェン・ホンが贈ったコート(少年が最後の場面でその二つを身に着けているのが印象的です)、あるいは、チェン・カイコーが少年を介してリウ・ペイチーに渡そうとした紙幣には「これで洋服でも」と言葉が添えられる(リウ・ペイチーは結局それを受け取らずにグラスの下に隠して出ていってしまいます)、そもそも少年が楽譜に貼り付けてこっそり見ているのはファッション雑誌の切り抜きなのです。衣類を巡って特に印象的なのは、北京へ出発する前に少年がリウ・ペイチーの服装の見立てをする場面と、愛人の誕生日を前にやはり少年がチェン・ホンの服装の見立てをする場面、これら二つの場面は明らかに呼応しています。少年がヴァイオリンを売り払って手に入れたのがやはり「衣類」だったことにも明らかなように、此処に過剰に現われるそれは、やはり既述の通俗なシステムを往来する「モノ」の一つとして、システムから遠く離れ過ぎた人間(ワン・チーウェン)はそれを抛棄し、システムにどっぷりと浸かる人間(チェン・ホン)はそれのためにのみ生きる、ファッション雑誌の切り抜きにひたすらに妄想を膨らませ、あくまでもそれを「見立てる立場」に止まる、それが少年にとってのシステムとのあるべき関わり方、その正常な関係からの逸脱が蹉跌をもたらしたのは既述の通りです。

 さて、この物語の残酷さは、リウ・ペイチーと少年の「父子関係」に於いてすらそれら金品と同様の往来があり得てしまっていることに、あるいは、此処に展開される金品の露骨な往来はその「父子関係」の比喩であるとさえ、血の繋がりの欠落は、極端なことを言えば、その関係を「モノとモノ」のそれにまで落としてしまうのです。「与える/与えられる」の関係で言えば、リウ・ペイチーが「与える側」で少年は「与えられる側」、最初に引用した場面に話を戻せば、つまり、リウ・ペイチーは自身と少年の立場の違いを弁えて、あくまでも「与える側」の人間であることに徹したということです。モノとモノの関係、あるいは「与える/与えられる」の関係で言えば、チェン・カイコーと少年の関係もやはり同じ、チェン・カイコーの蹉跌は、ヴァイオリンの所有を巡る顛末が象徴するように、あくまでもその即物的な関係のうちに止まってしまったことに、少年が与える何かの見返りが(密かに買い戻した)ヴァイオリンでは、システムからの逸脱など決してあり得ないのです。この物語の幸福な結論はそのシステムからの逸脱、あるいは超越にこそ、幾つかの蹉跌を経て、少年は自らが「与えるべきもの」を正しく悟り、そしてその対価として「与えられるべきもの」を正しく選択、この映画のラストシーンを往来するのはもはやその通俗なシステムとはまるで無縁の、札束や衣類のように露骨にスクリーンを往来したりはしない何か、目には見えなくとも、確実に在る何かなのです。

 ワン・チーウェンの家に通じるあの歩き難そうな水たまりや矢鱈と塀の上を歩きたがる少年、それらが表象する「不安定さ」であるとか、あるいは、ラストシーンに重ねられる過去のエピソードが示唆するように、此処に於ける「与える/与えられる」の関係は決して一元的なものではないとか、思考と言語を促すものは他にも色々と、つまりは「面白い映画だった」ということです。

 公開初日の土曜日の午後、午後3時半からの回を観るつもりでその1時間くらい前に劇場に着いたのですが、その時点で既にその回は満員札止、仕方なくその次の午後6時からの回を観ました。当然ながらその回も満席、上々ではないでしょうか。
 少年役のタン・ユンの本職は音楽学校の学生で俳優としては素人、故に、特に感情表現の類が曖昧で、場合によっては物語の理解に支障を来してしまうこともあるのかも知れないというほど、ただ、ヴァイオリンを弾いているときの表情だけはさすがという感じでしたね。しかし、その如何にも素人臭い演技を観ていて改めて思ったのは、我々が普段スクリーンに目撃しているのが「感情」ではなく、あくまでも「感情表現=演技」に過ぎないということ、その決して現実的とは言えない適切な「感情表現=演技」が物語の理解を速やかにしているのでしょう。


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