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家宝
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
2003年5月10日(シャンテ・シネ2)

 予め在る何ものか



 レオノール・バルダックの父親がルーレットで散財してしまう場面、カメラは先ず回転するルーレットを捉え、それが停止するのを待たずに視点を切り替えて複数のチップが積まれたテーブルの方へ、観客は〔姿の見えない)ディーラーの声でそれが「赤の18」に停止したことを知るのですが、カメラが無表情に捉え続けるテーブルは丁度その場所だけ何一つのチップも置かれていない状態で、つまり、その不気味な「不在」が父親の破滅を教えることになるのです。この「説明」の仕方は非常に面白くて、例えば、先ず父親が何処に「貼った」かを捉えて、次に回転するルーレットをそれが停止するまで捉える、結果として現われる両者の誤差が即ち一つの結論となる、説明の仕方としてはそれがむしろ一般的だと思うのですが、この場合、彼が何処に「貼った」のかも、そして、それが何処に停止したのかも、回転するルーレットのカットを挟みながらも、その何れをも直接的に捉えることはせずに、しかし、それでいてむしろその結論をより雄弁に、単に「外れた」という事実以上のものを観客に教えてしまうのです。テーブルに出現する余りにも不気味な不在、それは予め「無い」のではなく、ディーラーの「赤の16」という無機質な声を合図にスクリーンに出現する不在、その不気味さ、掛けられた意味の重さの所以です。

 同じ監督の『家路』にはこんな場面が。物語の後半、急遽映画出演することになったミシェル・ピコリがスタジオ入りして初めてのリハーサルをする場面なのですが、リハーサル、即ち「劇中劇」が演じられている間、固定されたカメラが終始捉えているのはその劇中劇ではなく、それを見つめるジョン・マルコヴィッチの姿で、劇中劇はその台詞のみが観客の耳に届き、状況に呼応して変化するマルコヴィッチの表情に観客は物語を発見するという、その手の「間接話法」など然して珍しくもないのですが、その一連のシークエンスが秀逸なのは、ひたすらにジョン・マルコヴィッチの姿を捉えているだけの単調でしかも長い、物語的には陰鬱ですらあるそのカットが、しかし、実はその終りを約束する「ある瞬間」を観客が待ち侘びるよう予め仕掛けられているために、決して単調でも退屈でもなくて、むしろ奇妙な緊張感を漂わせることになるから、観客が待つことになる「ある瞬間」とは、ひたすらにジョン・マルコヴィッチの表情をのみ捉えるその固定ショットに一個の異質として「女の声」が紛れ込むその瞬間のことであり、其処に於いてそれが重要な意味を持つのは、それを合図にその陰鬱な固定長回しショットが終わることを観客が予め教えられているからなのです。カメラが其処に見出す不在とその不在を確定する(やはり主体を欠いた)人間の声(音)、ルーレットのそれと構造は同じです。

 此処に於ける決定的な「不在」は、レオノール・バルダックが列車で空間を移動する一連のシークエンスに、車窓を過ぎて往く景色をのみひたすらに捉えたカット、視線の主体を排除したそれは「異様」ですらあります。列車による空間の移動と言えば、比較的最近の映画だとアキ・カウリスマキの『過去のない男』のそれが印象的、その映画の中で、マルック・ペルトラは列車による空間の移動を3度行うのですが、その3度とも言わば「説明的」に車中のカットが挟み込まれ、其処には列車に揺られるマルック・ペルトラの姿が捉えられている、「誰が/何を」を説明するのですから当たり前の話です。しかし、この映画に於いて何度となく挟み込まれるそれにはレオノール・バルダックの姿が(1度の例外を除いて)捉えられることはなくて、列車の運動に伴い移動する視線の主体を欠いた車窓の景色のみがひたすらに映される、しかも、場面によっては、カメラは少し引いた位置から窓枠(フレーム)とその手前の4人が向き合って座るシートをも捉えており、それ故に其処に本来在るべきものの「不在」が殊更に強調されることになるという、まるで幽霊か透明人間が列車に揺られているかのような印象すら受けてしまいます。そのような映像の連鎖は「説明」としても当然ながら何かが不足してしまっているわけで、迂闊な人はそれがレオノール・バルダックの空間の移動を意味しているということすら理解できないのかも、映画に於ける映像の連鎖が物語状況の説明、補完のためにあるとするならば、それらは極めて不親切なものであると、その車窓を捉えた場面に決まって流れる主題、ヴァイオリンソロの激しい旋律が十分に何かを説明し得ているとは言え。

 そもそもこの映画はその導入部分からして奇妙で、川面をゆっくりと滑る遊覧船や遠くに見える吊り橋と其処をゆっくりと歩く人影をひたすらに捉えたショットが延々と、それ自体には物語的な意味など殆どなくて、その視線の主体と思しき人間の会話がその背後でこれから始まる物語状況の説明を淡々と果たしているという、会話する人間は互いに相手の顔を見るでもなく、やはり川面をゆっくりと撫でる遊覧船にその視線を、其処に物語的に意味のある誰かが乗っているわけでもありません。そして、何よりも印象的なのは、この映画にやはり何度も現われる「渓谷」の全景を捉えたロングショット、時間にして10秒間くらいでしょうか、何が動くわけでもなく、誰の視点とも知れないそれが、場面と場面、物語と物語を繋ぐ鎹のように、意味あり気にスクリーンを支配するのです。人間、あるいは物語の不在、カメラが其処に何も捉えないなどあり得ないのですが、此処に於けるそれは、あるいは意図的にそれらを排除、むしろそれらに支配されない、決して従属しない何かを確固とした意志を以て捉えていると、そんなふうにも思われます。勿論、物語映画の一場面であることを抛棄してしまうわけではなくて、列車の場面にしても、不親切とは言え、物語的な「説明」はそれなりに果たされていますし、遊覧船の場面にしても、その優雅な姿を捉えるのと同時に直截な「言語」による物語が、肝要なのは、それらが決してその物語に従属してはいないということです。物語に従属しない、むしろ物語を其処に従属させ内包してしまう空間、そして、その空間、例えば「渓谷」を捉えた不連続なカットが見事にそれを表象し得ているように、其処にはまた、やはり人間やその営みによって成される「物語」になど決して従属しない「時間」の流れが、此処に捉えられた「空間」と「時間」は、あくまでも予め「在る」ものとして、映画的な表現に於いては本来そうであるような、人間が移動することによって其処に「空間」が出現し、人間の営みの連続性が「時間」の概念を創出する、そんな手前勝手など此処には決してあり得ないのです。此処に於いて、邪気も無く人間とその物語を翻弄する「ファムファタール」の特性を発見すべきは、レオノール・バルダックという美しき「従者」にではなく、あるいは彼女に具現化されているのかも知れない、文字通り「運命」を掌るポルトガルの美しい自然、人間とその物語の外側に予め存在する、その確証を得るかのように此処に執拗に捉えられた「何ものか」にではないでしょうか。

 公開初日の土曜日の午後、まあまあの客入りでした。監督が現役最年長のオリヴェイラだからというわけでもないのでしょうが、客層は高齢者が圧倒的、それ以外は映画オタク風がチラホラといった感じでした。同じ監督の前作である『家路』の初日の際は、某映画狂人氏のトークショーが催された関係もあって、比較的若い世代が大挙して押し掛けて随分と賑やかな感じだったわけで、その時と比べてしまうと、やはりどうしても寂しい印象を受けてしまいます。その映画狂人氏はパンフレットの第2頁にいきなり「魔術師のからくり」という文章を寄稿していたりも。
 この映画の中には葬儀の場面があるのですが、90歳をとっくに過ぎた人間はしかし一体どういった心持ちでそんな場面を撮るものなのかと、ふと、そんなことを思ったりもしました。


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