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8 Mile
監督:カーティス・ハンソン
2003年5月24日(新宿アカデミー)

 バビロンの妖精



バビロンにベイブがひとり
洪水にあって溺れそう
光と
ほこりと
束の間の星の中
永遠に憧れて、もうすぐ
それを手に入れようとしている

 私事で申し訳ないのですが、この映画を観た同じ日の夜、ジェーン・バーキンの来日コンサートを観たのですが、彼女がアンコールに応えて歌った「バビロンの妖精」という曲を聴きながら、この映画のエミネムを何となく思い出してしまいました。此処に歌われている「バビロン」とはハリウッドのこと、尚、上に引用したのはその曲の第3コーラス目の歌詞(の和訳)、作詞はセルジュ・ゲンズブールです。

 クローネンバーグの『スパイダー』もそうだったのですが、この映画にも「ベッド」が登場しません。それは専ら性行為に至る場所としての「ベッド」のことなのですが、狭いトレーラーハウスで馬乗りになるキム・ベイシンガー(これはベッドだったかも、この場合、寝転がっていないところが肝要)、プレス工場やレコーディングスタジオで立ったまま事に至るブリタニー・マーフィ、勿論、それは彼女らの品性に関わってくる問題でもあるのですが、ともあれ、それらは何れも「性行為の場面」ではあっても、決して「ベッドシーン」ではないのです。狭いトレーラーハウスがそれを象徴しているように、物語状況としての「貧困」であるとか、あるいは「拠所の無さ」とか、安息の場所としてのベッドの不在はそんなことを示唆すると同時に、また、そのような場面が持ち込んでしまう「ブレイク」をこの映画から排除する意味があったのかも知れません。「ベッドシーン」というのは、その最初から最後までがカメラに収められるということなどなくて、特にその終わりなど「フェイドアウト」が基本、それが夜なら、行為の途中で暗転して次の場面では朝になっているとか、大抵はそんな感じです。つまり、其処に映画的、物語的な「ブレイク」が生じてしまうわけで、此処に不要とされたのはそれではないかと、安息の地に停滞しない映画、満たされない内面を表層として持続するための方法の一つと言えるのかも知れません。

 リングとステージの決定的な違いは、前者が四方を観客に囲まれているのに対して、後者に於ける観客はあくまでも正面にのみ、この映画の「フリースタイル」の場面が専らステージの側からその上の人物越しに、ともすれば非常に窮屈な印象を与えてしまうようなアングルで撮られている理由はそんなところにあるのかも知れません。肝要なのは、観客の視点によってそれを捉えるのではなく、あくまでもステージ上の人物の中心に、その背景として観客を捉えること、何故なら、彼らはステージ上にありながらも、観客と向き合うのではなく、あくまでもステージ上の「相手」と向き合っている故、そして、観客がそれを「見ている」ことに意味があるのではなく、ステージ上で向き合う彼らが「見られている」ことにこそ、其処に展開されるのが「音楽」の一形式であるとは言え、それは通常のコンサートのようなものではなく、むしろ「ボクシング」に近いものと言えるのかも知れません。尤も、ボクシングの場合、既述のようなリングの形態のお陰で、どのような角度からボクサーを捉えたとしても観客を背にした彼らの姿をカメラに収めることができてしまうのですが、この場合は、「ボクシングのようなもの」でありながらも、しかし、観客はある一定の角度にのみ、「ボクシングのように」それを捉えるなら、カメラの位置は自ずと限られてしまうわけです。ただ、この映画に於けるその「不自由さ」は、ボクシング映画などではその実現が容易である故に特別に意識することもないボクサーと観客の関係の構図を、改めて教えてくれるものでもあります。ステージあるいはリングに上がることは、ただ単に相手と闘うためにそうするのではなく、それを「見せる(見られる)」ためにあると。

 冒頭の「シャドウ・ボクシング」を連想させる場面からして既にそうですが、この映画は、例えば『ロッキー』のような、ボクシングを題材としたそれに非常に似ています。既述の通り、ステージ上の「対決」はそのままリング上のそれを予感させますし、「リベンジ」を大いに期待させる差し当たりの敗北から始まる物語にしてもそう、貧困、劣悪な生活環境、恵まれない家庭はボクサーに要求される「ハングリー精神」を喚起し、良き理解者(トレーナー)の協力を得て勝利へと至る、バスの車窓から「言葉」を探すそれは差詰め「トレーニング」といったところでしょうか。『ロッキー』と比べると「クール」にも思われる物語的結論は、「時代性」というよりは、「エミネム」という現実の勝者を物語に持ち込んでいる強みとでも言うか、結論が何であれ、観客にその成功を確信させることなど「エミネム」の存在を以てすれば実に容易なことではないでしょうか。そして、さらに言えば、このような、予めの敗者が様々な挫折を経て成功へと至り、そのことが観客にある種の「カタルシス」をもたらす物語は、ボクシングのそれと言わず、例えば「ギャングスター」のそれであるとか(尤も、ギャングスターの物語が「成功」を以てその結論とすることなど先ずありませんが)、古今東西に在り来たりな、それを映画に限っても、何度も反復され使い古されてきた成功譚の一種に過ぎないとも言えます。従って、この物語には何一つの「新しさ」もないと言えるわけで(アロノフスキーが名付けた「ヒップホップ・モンタージュ」なんて「新しさ」も此処にはありません)、其処に現代風俗の一個の象徴的存在とも言える「エミネム」を配したところで、その「古臭さ」は何一つ変わるものでもないのです。しかし、この映画に詰め掛けるのであらう観客の多くが、その古典的な成功譚ではなく、時代性を担った新しい素材を目当てにしているのもまた事実、否、むしろその意味に於いてこそこの在り来たりで陳腐ですらある物語が有効に機能し得るとも言えるわけで、その殆ど「お約束」とも言える物語は、多くの観客の「お目当て」を何一つ侵食することなく、ひたすらに表層を漂わせ、その視線の先から決して逃さない、エイリアンと格闘した「ウィル・スミス」や火星のゾンビを排除した「アイス・キューブ」が何処となく抱えてしまった「歪み」すら其処にはない、つまり、これは正統派の「アイドル映画」であると(まさに「ザ・エミネム・ショウ」)、その一点の曇りすらない迷いの無さが、むしろファンを戸惑わせてしまうことはあるにせよ。

 廃屋に火を抛つ場面が印象的だったのですが、物語的な意味や暗喩はともかく、ああいう場面というのは専ら、俗な言い方をすれば、焼け落ちる家屋の「絵を撮る」ために持ち込まれたのではないかということを感じたりもします。それ自体の意味など別にどうでもよくて、とにかく派手に焼け落ちる家屋をスクリーンに捉えたかったと。仮に意味があるとすれば、映画自体を折り返すための「蝶番」のようなものとして、機能としては『風と共に去りぬ』の中にもあったそれと同じような具合で。

 公開初日の土曜日の午後、予想された通りの人種が予想された通りに大挙駆け付け、劇場は見事に満席になっていました。一種独特の熱気と言うか、他の映画では余りみられないような雰囲気でしたね。尤も、この映画、エミネムファンの間では、余りの毒気のなさに賛否両論のようですが。


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