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マトリックス リローデッド
監督:ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
2003年5月24日(新宿ミラノ座)

 より速く、より遠くへ



 サム・ペキンパーのそれに代表される「スローモーション」が映画的な感情表現の一種であるとするならば、このシリーズの第一作目で取り分け話題になったそれはあくまでも超人的な動体視力を相対化した(やはり映画的な)映像表現に過ぎなくて、其処に何らかの「新しさ」があったとすれば、それは視線の主体から「人間性」を排除してしまったことにあったと言えるのかも知れません。要は「汗臭くない」ということ、そして、それが多くの観客の思い描く、文明化のさらに進んだ「未来像」に符合したことがこのシリーズが成功した要因の一つともまた言えるのでしょう。また、人々が思い描く未来像ということで言えば、「より速く、より遠くへ」というイメージは不可欠、それはこの50年に於ける身近な文明の進歩を顧みても容易に知れること、そしてそれは、航空会社のコピーではありませんが、相対的に「世界をより狭く」することに同じなわけで、ある意味、その究極がこのシリーズには実現されているとも言えます。このシリーズの舞台の殆どはコンピューターによって捏造された仮想空間、つまり、現実的な空間や時間の尺度を持ってすれば、それは殆ど「無」にも等しいわけで、確かに、仮想空間に於ける死が現実の死に直結するというこのシリーズ独自の「ルール」よって、時間感覚の完全なる消失が巧妙に回避されているとは言え、しかし、それは差し当たり「テレビゲーム」との差別化に寄与する以上には何かをもたらすものでもなくて、超人的動体視力(の相対化)が人間や銃弾の動きをむしろ緩慢にしてしまうように、此処に於ける時間と空間はひたすらに内へ内へと深化し、とどのつまりが「無」のイメージへと回帰してしまうわけです。また、この物語に於ける「現実の世界」には今一つ釈然としない部分が多くて、例えば、宇宙船を連想させる矢鱈と大仰な「船」をその移動手段としているわりには、しかし、空間の感覚には非常に乏しくて、一体何処から何処まで、どのくらいの距離をどのくらいの速度で移動しているのかなどまるで分かりませんし、そもそもその舞台となっている未来の地球の全体像が曖昧で、「ザイオン」という都市が存在することは分かるにしても、それ以外の空間には一体何があるのかなどもよく分かりません。これもやはり、此処に於ける、現実の尺度を借りれば「無」にも等しい内的宇宙の広がりを大いに意識させるもので、もはや「より速く、より遠くへ」の希望すらも失われた現実が其処にあると、あるいは、そんなところなのかも知れません。

 余談ですが、人類が宇宙空間をその舞台として繰り広げる物語は、それだけで「より速く、より遠くへ」の未来像が実現されているわけで、何故なら、人類が宇宙空間にあるという事実が既に「より速く、より遠くへ」を実現した結果である故、ただ、スクリーンに捉えられる「宇宙空間の移動」が大抵そうであるように、むしろ雄大さが表現されているのであろう宇宙船の動きは実に緩慢、勿論、実際には光にも近い速度で空間を切り裂いているのでしょうが、つまり、理屈としては『マトリックス』のそれと同じ、この場合は逆にその外的な広がり(文字通り「宇宙」)が相対化されていると言えるわけですが、そう考えてみると、「より速く、より遠くへ」を直裁に視覚化することは案外難しいのかも知れず、差し当たり地球から何億光年も離れた空間に人類が「在る」という事実を以てのみ其処に「未来」が示されると、従って、宇宙船の存在は「より速く、より遠くへ」を視覚化するために持ち込まれるのではなく、例えば、その必然性を微塵も感じさせない傍若無人なまでの「巨大さ」であるとか、差し当たり我々の日常にはあり得ない存在であることを以て辛うじて其処に「未来」を予感させているに過ぎないとも、アンドレイ・タルコフスキーが、其処に「未来」を示すには些か「サービス精神」に乏しいようにも感じられてしまう『惑星ソラリス』から排除してしまったのもつまりはそれ、人類が地球から何万光年も離れているのであろうソラリスの軌道を周回する宇宙ステーションに「在る」ことを以て既に然るべき「未来」が示されている以上、そんな「イメージ」など、実はどれほどのものでもないのかも知れません。

 閑話休題。ひたすら内的に肥大するに止まるこのシリーズの世界観は、確かに、第一作目のそれでは目新しいものであったにせよ、しかし、その続編ともなると、それだけではもはや観客を退屈させないことの保証にはとてもなり得ないわけで、少なくとも、其処に「新しさ」を発見する観客など皆無に等しいはずです。この続編の課題は其処に、第一作目の世界観を維持しつつも、表層としてそれを裏切る、「無」にも等しいはずの時間と空間を如何に捏造するか、結論から言えば、此処に於いてそれは見事に実現されていると言えます。そもそも此処に於ける「世界」が「無」にも等しいのは、それが仮想現実の空間であるに過ぎないことに加え(もしくはそれ故に)、何事もその実現が可能であるという状況にも理由があって、それは「より速く、より遠くへ」の実現が同時に世界を縮小するという理屈で言えば分かり易くて、例えば、「キーメイカー」の「何処でもドア」によって具現化される概念がそう、其処には「より速く、より遠くへ」を実現すべき移動のための空間すら存在していないのです。では、何がその無化された世界を裏切るのか、それは言うまでもなく、颯爽と空間を切り開き、驚くほど原始的なやり方で「より速く、より遠くへ」を視覚化してしまうキアヌ・リーブスのそれ、彼は実際には可能なはずのそれ以外の如何なる手段にも甘んじることなく、その逞しい身体を以て其処に「空間」のあることをひたむきに証明する、否、彼のその移動によって初めて其処に「空間」が生まれるとでも言うべきか、何れにせよ、旧来にはなかったもう一つ別の「未来」のイメージが其処に喚起されることになるわけです。これは一見して「何でもあり」の状況を踏襲しているようでありながらも、しかし、其処にある種の「制限」を科すことによって巧妙に「無」を回避しているというのが精確なところ、それは仮想空間での死が現実の死に直結するという「制限」が其処に「時間」の概念を止めているのと理屈は同じです。また、此処に於いては、物語状況の随所に文字通りの「制限時間」を設けることによって、本来曖昧なはずの「時間」の概念をより明確なものにもしています。この続編は、遠くなり過ぎて見えなくなってしまった「未来」をほんの少し引き戻して観客をそれに追い付かせたとでも言うか、つまりは「映画的にした」ということ。

 この類の映画に於いて、その舞台が未来でありながらも、人類にある種の「原始性」のイメージを持ち込むのは、もはや珍しいことでもないのかも知れません。物語的にも機械化文明の象徴とも言える「コンピューター」との対峙が描かれているわけですから、其処に人間をより人間らしく捉えるには、それを幾らか誇張してみせる必要が、「岩穴の団結集会」やそれに続くアフリカの民族ダンスのようなそれ、あるいは、そのダンスとカットバックされるその野蛮さを殊更に強調するかのようなセックスの描写、勿論、人類が原初に回帰する理由など物語的には何処にもなくて、「反=コンピューター」を「反=文明」にまで誇張してみせていることにその意味を見出すべきなのでしょう。都市の風景にしてもそう、人類に与えられた「機械」の表層は、その「未来的」なのであろう機能とは裏腹に、あくまでも武骨な「鉄のカタマリ」でしかなくて、リドリー・スコットのそれを想起させもする夜の街に立ち篭める蒸気は、その機械が一体何を動力源としているのかと疑いたくもなるくらいです。また、現在の人類より明らかに文明化が進んでいるはずの社会にありながらも、何故か何処となく野蛮なイメージが付き纏ってしまう「スターウォーズ」シリーズのそれと同様、此処に於ける「政治」もやはり、尤も、この場合は多少の皮肉が込められてもいるのかも知れませんが。エレベーターのドアが開いた其処に目撃される救世主のイメージなどそのまま千年のベストセラーからの引用、あるいは、黒人が相変わらず黒人同士で家庭を築いているのですら、今どきでは十分に「旧態依然」の有り様と言い得てしまうのかも知れません。何れにせよ、斯様な、幾分「やり過ぎ」な感もなきにしもあらずの「人間性へのノスタルジー」は、上述の「引き戻し」とも何処かで繋がっているようにもまた思われます。

 さて、私などが今さら「アクション」に言及しても仕方ないと思いつつも、この映画で特に印象的なのは、この類に於いては完成度が高いと思われる「アクション」それ自体も勿論そうなのですが、その舞台となる「空間」がやはり、それが意図的な動作なのかどうかはともかくとして、その「アクション」が始まる前に、先ずはその舞台となる空間の全景を捉えたカットが示されるわけですが、それを観た瞬間に観客の多くはそれに続く「アクション」を既に予想してしまう、何故なら、大抵の観客がその場面を劇場の予告編なりテレビCMで既に観ている故、それはつまり、予告編を観た観客の中にその空間の印象が如何に強く残っているかということであり、あるいは、それが舞台装置として如何に優れているかを示していると言っても間違いではないでしょう。

 カーティス・ハンソンの最近作に関する文章でも触れた(極めて映画的な)「焼け落ちる家屋」のイメージは此処にも、物語の終わりの方で焼け落ちる「船」のそれがそう、この場合、それが「蝶番」の役割を果たすのは秋に公開が予定されている第三作目との間に於いてということになるのでしょう。前作から引き継がれている「世界観」は、ランバート・ウィルソンが得々と語る「ケーキの比喩」に簡潔に纏められています。尚、この監督は女優を美しく撮るつもりなど端からないのでしょう、モニカ・ベルッチですら、です。

 先々行オールナイト上映の午前0時近くから始まる回、夜中だというのに劇場の外まで列ができる混雑ぶり、ほぼ満席でした。尚、極めて個人的な事情で、この日はとても夜中に映画を観るようなコンディションではなくて、不本意ながら中途で何度かウトウトとしてしまいました。目を開けていながらも見逃してしまったのならともかく、端から目を閉じてしまっていたのがは甚だしくも口惜しかったので、実は1週間後の先行オールナイト上映で時間と場所を変えてもう一度観ています。そもそもスクリーンに何かを発見するような類の映画でもありませんから、1回目にウトウトしてしまった箇所を確認して、物語に対する理解を多少深めたという程度でしょうか、勿論、2回観て2回愉しんだのは言うまでもないことですが。
 ある種の方面に於いてはCGによる特殊効果自体が否定されてしまったりもするようですが、個人的には特に好きも嫌いもなく、むしろ、今どき「リア・プロジェクション」を有難がっているようなのこそどうかと思いますね。


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