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神に選ばれし無敵の男
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク
2003年5月31日(銀座テアトルシネマ)

 既に知っていること



 考えてみれば(あるいは考えるまでもなく)、前世紀の或る時期、欧州の或る地域に於いて「何が起こったのか」など、誰しもが既に知っているわけで、勿論、そんなことなどまるで関知しないという人間がいても別におかしくはないのですが、しかし、少なくとも「映画」がそのような人種に何らか「教育」を施すための媒体である必要など何処にもなくて、そんなことは然るべき機関に任せておけば十分、媒体なり機関なりにはそれに応じた「役割」というものがあるはずです。『戦場のピアニスト』が何らか如何わしいものに見えてしまうことがあるとすれば、それは、其処に語られた或る歴史的事実(であろうこと)が、まるでその映画によって初めて見出されたものであるかのように語られてしまう瞬間であり、既に知っているはずのその事実を然も知らなかったことのように、恰もその映画によって「教育された」かのような言葉に出会したとき、「平和の大切さを…」という言辞ですら、少なくともその映画を評する場面に於いては、ある種の白々しさを伴ってしまうようにも思われます。何とはなれば、「平和の大切さ」など、わざわざ映画館に足を運んで然るべき経済活動の対価として学習するものでもなくて、それこそもっと別の場面で、むしろ、そんなことのために財布の紐を緩めるのなど随分と莫迦げた話のような気がしてしまいます。何れにせよ、ポランスキーは今さら誰かを「教育」するつもりでそんな映画を撮ったはずもなくて、それでも、其処に何らかの「教育的意志」を探ろうとすれば、それこそ一時期話題にもなった何某の「ユダヤ人が云々」という発言にも繋がってしまうわけで、確かに、「ユダヤ謀略史観」という奇怪な思想など知らない人間が多くいても不思議はありませんし、そんなことを「教育」するつもりなら、世界規模の媒体としてはそれなりの意味もあったのかも知れません。勿論、ポランスキーにそんなつもりなどなかったのであろうことは、「映画」がそもそも「教育」に相応しい媒体でないことをすれば、容易に知れることなのですが。

 余談ですが、「既に知っていること」という話で言えば、驚くことにいまだにロングラン上映が続いているらしい『ボウリング・フォー・コロンバイン』の本邦に於ける華々しい「成功」もやはり、其処に示されたものが「既に知っていること」だったからに相違なくて、一見して教育的であるようで、しかし、まるで教育的でない、それを絶賛する本邦の「知識人」どもは、其処に示されたものが「既に知っていること」であるからこそ絶賛するのであって、その映画に「教育された」からそうするのでは決してありません。「既に知っていること」を提示されて何故今さら賛辞を繰り返すのかと言えば、恐ろしいことに、彼らはそれを「自分達だけが知っていた」と思い上がっている故、他でもない「アホでマヌケ」なアメリカ白人がそれを追認してくれたのですから、彼らが喜びたくなるのも道理なのです。

 閑話休題。「映画」がその「既に知っていること」に対して無関心であるべきということでは勿論なくて、例えば、ソクーロフの『エルミタージュ幻想』のラストシークエンスが壮麗なまでに美しいのは、我々が既に何かを「知っている」からこそであり、その「関わり方」が示唆するものこそが「映画」に科せられた役割なのではないかと、ヘルツォークによるこの久しぶりの物語映画に思うのもまた同じことなのです。

 物語の序盤、サーカス小屋で力比べをするヨウコ・アホラが示してみせた完璧なまでの勝利が目撃された瞬間に、この映画の「完全な勝利」が決定してしまったと言っても間違いではないでしょう。あんなふうに勝利を決めてしまう人物が今までにどのくらいいたのか、何れにせよ、彼が(あらゆる意味で)真の勝者であり得るという物語的事実が其処に於いて既に示されてしまってもいるわけで、観客の目、あるいは物語的視座がむしろ次に現れる「敗者」の方に向くのも道理と言えるのかも知れません。その「敗者」の姿を捉えるという意味に於いて、取り分け印象的なのは成功であると同時に敗北でもあるあの「オカルト省」での幾つかの場面、その呆れるほど天井の高い建造物は、ティム・ロスの、物語的勝者と比べてですら遥かに小さなその身体を(仰角気味のショットによって)仮初めに大きく見せると同時に(ロングショットによって)より一層小さく見せることも、それら両者に於ける主従の関係は既に明らかです。肝要なのは、そんなふうに相対化されてしまうティム・ロスの姿が滑稽でもありまた哀しくもあるという「事実」が、我々がその巨大な建造物に換喩された何ものかの正体を「既に知っている」ことに由来しているというそれ、決定的な事象に至るより遥かに早くエンドクレジットを迎えるこの映画の後に「何が起こったのか」など既に共有されているわけで、或る意味、この映画はオカルト省に於けるティム・ロス同様に、さらに大きな何かによって予め支配されているとも、抗う意志など微塵も感じさせないところにこそ「映画」の美徳があるなどと言い切ってしまって良いものかと躊躇いはするものの、しかし、少なくとも、此処には「ユダヤ謀略史観」の立ち入る隙など何処にも、この映画は誰を「教育」したりなど決してしないのです。

 オカルト省でのそれと比べると、物語的に明らかに幸福な時間が流れている「オカルトの館」に於けるそれは、まだ別の意味で目を引く場面が多くあります。何よりも、カメラが自在な動きで舞台を捉える幾つかのシークエンス、『シカゴ』のそれのように観客の視座に甘んじるわけでもなく、ラップバトルを其処に収める窮屈さもない、カメラがステージ奥からティム・ロスの姿を捉える場面など、彼はそのカットの間中、さすがにカメラ目線ではないにしても、常にカメラに対して正面を向いている、つまり、「オカルトの館」の観客に対しては常に背中を向けていることになるわけで、その恐るべき現実感の欠落とでも言うべきか、否、そんな些事などまるで気に留めない鷹揚さが生み出す圧倒的存在感をこそ認めるべきなのであり、それは巨大な石ごと相手を持ち上げてしまうヨウコ・アホラのそれにもまた似た完璧な勝者の姿ともまた言えるのかも知れません。ティム・ロスが舞台から転がしてみせるあの巨大なサイコロが、差し当たり物語に幸福な時間を約束してくれるのも、何ものにも換喩され得ない、我々が「いまだ知らない」その新奇さの故ではないでしょうか。

 全体的に、「ドイツ表現主義」が色彩を得るとこんな感じになるのかな、という印象を持った映像でした。

 公開二週目の土曜日の午後、西に上陸した颱風の影響で酷い雨が降り頻る中、客席は半分くらいが何となく埋まっていました。あるいは単に一時的な対応に過ぎないのかも知れないのですが、以前はそうではなかった銀座テアトルシネマが「整理券制」を導入していました。良い席を確保するために30分も前から映画館の通路に並ぶのなど面倒で仕方がない私としては、差し当たりチケットを購入さえしてしまえば、後は映画館の外で気楽に時間潰しができるこの制度の導入は大歓迎、「入替制」を導入していないところならともかく、上映回ごとに客を強制的に排除するようなあらゆる(不遜な)映画館は当たり前のこととしてこれを導入すべきですね。銀座周辺だと日比谷のシャンテシネとか。


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