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ザ・コア
監督:ジョン・アミエル
2003年6月14日(新宿プラザ劇場)

 良貨は悪貨を駆逐せよ!



 ペースメーカーの異常で突然死してしまった男を捉えたカメラがその視線を窓の外に移して同様の原因で同時多発的に発生した街の混乱をクレーンの横移動ワンショットに収める、そんな冒頭のシークエンスを確認して「この映画は案外面白いのではないか?」と期待を抱きました。地球のコアが停止してしまうとか、原理のよく分からない乗物で地中深くコアまで到達して核弾頭でそれを再起動させるとか、そんな物語の「外殻」に興味を示して映画館に足を運ぶ人が一体どのくらいいるのかなど想像も付かないのですが、この映画に期待すべきはしかしそんなことではまるでないよう、そんなことなど文字通りの「外殻」に過ぎなくて、そのプロットの新奇さがこの映画の「謳い文句」を幾らか華やかにすることはあっても、決してそれ以上では、この物語の「コア」は幾分使い古された感はあるものの案外頑丈で、その浮ついた「外殻」ともまるで無関係、地球のそれのように停止してしまうことも決してありません。この映画を観て先ず想起したのはヒチコックの『救命艇』、考えてみれば、今どきそんな「小さな」映画など、少なくとも「ハリウッド」では作れないわけで、故に、ある種の必要悪としてまるで『アルマゲドン』の二番煎じであるかのような「外殻」が要求されてしまうことに、結局、客を集めるための最善の手段がそれであるという制作者の錯覚が「映画」と「観客」の質を落としてしまうわけで、それは、この映画に於いてやはり派手に謳われている「VFX」にしても同じ、別にそれ自体は「映画」にとって何一つのマイナスにもならない優れた「技術」の一つだと思ってはいるものの、しかし、その単なる(映像表現のための)手段が、恰も(観客が映画館に足を運ぶ)目的であるかのように謳われてしまう状況は甚だしくも「貧しい」と言わざるを得ないわけで、実際、私はこの映画の中の450にも及ぶカットに用いられているらしいその「VFX」に何一つ驚くこともなくて、否、むしろそれが当たり前、そんなものに目を奪われて肝心の物語を等閑にしてしまうのではそれこそ本末転倒な話で、優れた技術とは本来そうあるべきものなのです。

 学者にしても技術者にしても宇宙飛行士にしても、皆「ステレオタイプ」と言えば確かにそうで、あるいは今どき莫迦らしいくらいなのかも知れません。宇宙飛行士の一人は当たり前のように女性(ヒラリースワンク)で、真面目で正義感に溢れ何処となく野暮ったいアーロン・エッカートの学者像はそのまま「インディ・ジョーンズ」のそれ、同じ学者でも高慢な俗物、スタンリー・トゥッチなど如何にもそんな人物像に相応しく狭い地中探査艇の中で悠然と煙草を銜えたり、探査艇の設計者であるデルロイ・リンドー、探査艇の船長でヒラリー・スワンクの上司でもあるブルース・グリーンウッド等々、皆何処か見覚えがある人物で、そして、それを決して裏切ることのない「活躍」を物語にスクリーンに展開します。とは言え、「ステレオタイプ」や単純明快な人物像が悪いなど誰に言えたことでもなくて、徒に「複雑化」された人物像が物語の意味を曖昧にしてしまうのと比べればむしろ好ましいとさえ、それが「物語」の何かを損なうとすれば、精々スクリーンの外にあるのであろう「現代」と、その「現代」に生きる観客の(物語とは直接には関係のない)共感の類、確かに、路上で煙草を銜えることすら禁じられた我々は今どき彼らのような人物にそのヘンの道端で出会すことはないのかも知れません。それでも、観客の多くが彼らに「見覚え」があるのは、彼ら(のような人物)を他でもない「物語」の中に多く目撃してきたからに相違なく(それが即ち「ステレオタイプ」なのですが)、「普遍的」などと言うのは些か大仰であるにしても、其処にあるのは或る意味時代なり風俗なりの表層を剥いだ幾つかの人間の姿なのであり、彼らは同様に「外殻」を剥いだ物語の「コア」の中で活き活きとその生を輝かせる存在なのです。そもそも「科学考証」の類が殆ど無視されているにも等しいこの奇天烈なサイエンス・フィクションには「現代」など何処にもなくて(サイエンス・フィクションに於ける「正しさ」とは「現代」が持ち得る想像力の範囲を決して逸脱しないことにあります)、その意味に於いて、其処に配されているのが如何にも物語的な人物群でことには何の矛盾もないわけで、むしろそんな場所に中途半端に「現代」を担った人物を紛れ込ませて肝心の物語を台無しにしてしまった映画など枚挙に遑がなかったりも、此処にあるのは表層に於ける潔いまでの現実感の抛棄、しかし、繰り返しになりますが、それは「物語」から重要な何一つを奪ったりはしないのです。

 何一つの現代、即ちスクリーンの外にある現実を其処に持ち込んだりしない彼らは、当然ながら「物語」にのみ従属する存在と言えます。さらに言えば、彼らがひたすらに従属するのは、彼らがその与えられた「役割」を見事に果たす地底探査艇に於ける物語なのであって、其処に至るまでの幾つかのエピソード群ではない、と言うか、そもそもそれらのエピソード群は彼らを其処に従えるほど「説明的」でもないのです。この映画にあるような物語に於いては、探査艇に乗り込むまでの幾つかのエピソードがそれら人物群の言わば「性格付け」を果たすわけで、この場合もやはり例外ではないのですが、しかし、此処に於けるそれは必要最小限のものに止められ、物語に余計なものを持ち込んだりは決してしません。此処で言う「余計なもの」とは、例えば、探査艇の外(物語の外)に残していく家族やその家族との関係のような、あるいは「メロドラマ的」とでも言うべきもののことです。ジェリー・ブラッカイマーのバラ撒く「悪貨」がひたすらに低俗なのは、物語の外にメロドラマの要因を置いているから、例えば、探査艇の誰がが任務の途中で不幸にも死んでしまったとして、(ブラッカイマーの映画なら)それが悲劇であり得るのは、あくまでも物語の外に残してきた何らかとの関係が其処に機能するからであって、決して物語それ自体が機能するわけではない、あるいは「現代」とも大いに関わるのかも知れない、それ故にこそ有効に機能し得る如何にも安易な「煽情装置」が仕込まれているからこそ其処に悲劇、観客の感情移入の余地が生まれると、故に、肝心の物語は何処までも空疎なものでしかあり得ないのです。勿論、それは此処に於ける6人に家族や恋人の影すら予感されていないという(表面的な)物語状況を指摘するに止まるものではなくて、彼らの存在やその不在、欠落が如何に物語に貢献し機能し得ているかという指摘にも繋がるわけで、例えば、先ず最初に訪れるブルース・グリーンウッドの死など、確かにそれは悲劇的な人間の「死」ではあっても、物語的に言えば、それを有効に機能させるために当然の如く訪れる一個の「不在」に過ぎなくて、そして、何よりも肝要なのは、その「不在」がその後の物語を如何に機能させるのかを観客の誰しもが既に諒解しているということ、しかも、それはこの映画が優れていると思う理由の一つでもあるのですが、その「説明」は至って簡潔に、数分にも満たないワンシーンを以て十全に為されてしまっているのです。それは他の人物に於いても同様、彼らは地球のコアを再起動させ人類を絶滅の危機から救うという使命に殉ずるのではなく、ひたすら「物語」に殉ずると、彼らの存在、与えられた役割が物語を機能させるのと同様、その不在もまた物語を機能させる、何一つの無駄もなく、そして、その役割の中に感情移入の余地すら生み出していく、つまり、これは「良貨」であると。

 勿論、この映画にも良くないところはあって、例えば、チェッキー・カリョの死に際して、彼の家族の存在が唐突に持ち込まれてしまうのなど残念ながら「ブラッカイマー的」と言わざるを得ないのかも知れません。ただ、ジェームズ・ボンドですら禁煙を余儀なくされるこの御時世にスタンリー・トゥッチの口元に悠然と置かれた煙草であるとか、あるいは、デルロイ・リンドーがスタンリー・トゥッチを一発殴って黙らせてしまう痛快さであるとか、観る者を幸福にする場面は他に幾らでも、そのくらいのことなど気にしないことにしましょう。

 公開2週目の土曜日の最終上映回、土曜日の夜であるにも関わらずオールナイト上映に続かないという状況がすべてを物語っているように、新宿地区で1、2を争う広い観客席は、その広さばかりが目立っていました。やはり、同じ時期に始まった『マトリックス』の影響なのでしょう、映画館全体に何となく投げ遣りな雰囲気すら漂っていました。実は私自身も何一つの期待も抱かず、差し当たり「疲れない映画を」という程度の理由で映画館に入って、上映開始前に眺めたパンフレットでこの映画が2時間を越える長尺であると知ってむしろ後悔してしまったくらい、しかし、上にダラダラと書いたような文章では何一つも伝わってはこないかと思いますが、一旦映画が始まってからはそんな後悔も何処へやらと言った感じで、エンドクレジットが流れる頃にはもう随分と気分を昂ぶらせていたりも、数ある上映作品と限られた時間の中で、実際スクリーンで観る映画を「選択」するのは難しいなあ、と改めて。


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