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ソラリス
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
2003年6月21日(新宿オデヲン座)

 地獄で逢いましょう



 地球から何万光年も離れた或る惑星の軌道上を周回する宇宙ステーションに人類が「在る」という事実が既に「遠い未来」を予感させるにしても、その空間の移動、一体どのような装置によってその移動が為されたのかすら説明されていないのでは、少なくとも「サイエンス・フィクション」を扱う映画としてはやはり物足りなく感じてしまうもの、極端な話、宇宙空間を悠然と飛行する巨大な宇宙船のカットを二つ三つ挟んでおけば、物語がどのようなものであれ、それだけでもう十分に「SF映画」と呼べてしまうわけで、或る意味「映画」などそんなもの、アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』に違和感を覚える人がいるとすれば、その映画が「そんなもの」であることを拒絶していたからなのかも知れません。その点、スティーヴン・ソダーバーグは多少の「親切心」(もしくは「サービス精神」)は持ち合わせているようで、確かに、移動の場面は同様に省略してしまっているものの、その到着、キューブリックのそれを想起しないでもない宇宙船と宇宙ステーションの「ランデブー」の場面は(他の場面との比較から)些か丁寧過ぎるのではないかと思うくらいしっかりとスクリーンに収めています。尤も、そのような場面は、例えば、自動車で空間を移動するような場合、その移動の場面は省略して、目的地に到着して其処に停止する自動車のカットを示すことによって移動そのものもまた説明してしまうという「映画」には珍しくないそれと原理は同じで、「移動そのもの」あるいは「宇宙船そのもの」を見せることが何らかの意味を持つ「SF的」なそれとは本質的に異なっているとも言えます。同様の中途半端な「親切心」は他にもあって、例えば、ソラリスが寄越した「客」を排除する原理のよく分からないナントカという装置、それらしきものが辛うじてスクリーンに捉えられることはあっても、その全容などまるで分かりませんし、物語的に重要な存在を排除するためにも用いられるにも関わらず、それが実際に動作している場面は一度も、この「未来空間」でまともに動作しているのは、実は「自動ドア」と「ビデオ」だけという、「今から数十年後にテクノロジーがどんなふうに発達しているかを見せるような映画を作る気はない」と公言するソダーバーグらしいと言えば、確かにそうなのかも知れません。あるいは、ナターシャ・マケルホーンを宇宙空間に「捨てる」場面にしても、確かに、あの一瞬何が起こったのかさえ判りかねてしまう「スマートさ」が「未来的」であると言えなくもないのですが、しかし、あれは単に何かを「切り離した」だけであって、然るべき装置が「動作した」というわけでもやはりなくて、その意味に於いては、ドナタス・バニオニスに火傷まで負わせてしまったタルコフスキーのそれの方がむしろ「未来(映画)的」であったとも、火を吹くロケットは重力に逆らって垂直に上昇、スクリーンにはその様がしっかりと焼き付けられています。また、宇宙ステーションの内部構造にしても、一々比較していてもキリがないとは言え、タルコフスキーのそれがありがちな「パイプ状」であったのに対して、ソダーバーグのそれは丸みは帯びているもののどちらかと言えば長方形に近い角張った形状で、あの如何にも寝心地が悪そうなベッドなど特にそうですが、矢鱈と金属が剥き出しなったそれは「居住空間」として快適そうにはとても見えません。未来空間のイメージとしては「二十年旧い」とも言えるのですが、地球上の未来都市のイメージも含めて、此処に於けるそれは総じて「非=人間的」な空間のイメージ、ソダーバーグの「サイエンス・フィクション」に対する関心の薄さがそうさせてしまうのか、それとも、人間存在の意義に関わる物語との不協和音が予め企図されていたのか、あるいは、プロデューサー業に徹しているはずのジェーンズ・キャメロンが要らぬ口を挟んだのか、私には知る由もありません。

 さて、儚き「肉体」に対比されもする「愛」あるいは「想念」の不滅を賛美しているかのようなこの物語に正しく「読む」べきは、おそらくそれを丁度裏返しにしたもの、つまりは「肉体」あるいは「実存」の絶望的なまでの不在と、その結果、もしくは原因としての「想念」あるいは「主観」に拠らざるを得ない「世界」について、現実に存在したのであろうナターシャ・マケルホーンもソラリスがジョージ・クルーニーの記憶を掠め取って再生した「客」としての彼女も等しく同じ、何故なら、彼女の肉体の有無に関わらず、クルーニーにとっての彼女はその主観によってのみ生み落とされた存在に過ぎない故、肉体の限り無い再生にその不在を発見する、ジョージ・クルーニーに限らない探査チームの苦悩は其処に、実存の不在、想念との齟齬、不幸ならざるを得ない人間関係の多くも、やはりそんなところに原因があるのかも知れません。また、言うまでもなく、此処に於ける実存の不在は、単にジョージ・クルーニーとナターシャ・マケルホーンの関係に止まるものではなく、文字通りの「世界」そのものが実存を欠いていると、それは物語の最初と最後に反復される地球上を舞台としたシークエンスが示唆する通り、その反復の精確さが実存としての「世界」の不在を指摘しています。此処に於いて多用される「シャロウ・フォーカス」が映し出すその「狭さ」はやはり実存の不在を、集団セラピーに集まった人達、あるいは電話機や本棚が鮮明さを欠いてしまうのは、ジョージ・クルーニーにとってそれらが予め「世界」から排除された存在である故、宇宙ステーションで目を覚ますクルーニーが初めて(再生された)ナターシャ・マケルホーンを発見する場面、徐々に鮮明さを獲得していくそのイメージこそが、其処に「世界」が生み落とされる瞬間のそれなのです。そのイメージに忠実にこの映画を捉えてみると、しかし、其処に明らかな矛盾を発見することにもなります。それは専らジョージ・クルーニーの「夢」を借りて出現する彼らの過去に纏る幾つかのシークエンス、「隠し撮り」のような第三者的視線によって捉えられるそれらは、本来「主観」以外の何ものでもないはずのそれが持つ(映像の)イメージとは明らかに意を異にしてしまうのです。確かに、「現在」との比較で言えば、「過去」とはあくまでも振り返って其処に在る、時間的空間的距離を余儀無くされる客体であり、その意味に於いては、あの覗き見的なショットにも十分に理解は及ぶのですが、しかし、それが実存の再生にも繋がるこの場合に限っては、視線の主体をあのように外側に置き過ぎてしまうのはやはりどうしてもある種の不自然さを伴ってしまうわけです。さて、此処に於いて肝要なのは、それをそもそも「技術」に勝ち過ぎる嫌いのあるソダーバーグらしい「間違い」としてしまうか否かということで、私は「否」と、つまり、其処には何一つの矛盾も存在していないと考えます。何故なら、この場合、其処、ジョージ・クルーニーの「記憶」あるいは「夢」には例外的に第三者の介在があり得てしまっている故、それは即ち彼の「記憶」をひたすらに掠め取る存在、そう、あの「覗き見」の主体は他でもないソラリスなのであり、我々はソラリスの視座に於いて彼の過去を目撃する、そして、それは過去に止まらず現在もまた、彼が独りキッチンに立つあの反復されるミドルショット、その視線もまた同様ではないでしょうか。記憶を掠め取り主体を抉るその視線のイメージは美しくもあり、また恐ろしくも、所謂「神」の視座が「世界」を客体化し「正常さ」へと引き戻すのだとするならば、ソラリスの視座はむしろそのさらなる主体化を促すもの、ジョージ・クルーニーが溺れるに至るその海は、あるいは「地獄」にもまた喩えられるのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、客席は3分の2くらいでしょうか。本国での不評がそのまま本邦での前評判の悪さにも繋がっている感もありましたから、それでも十分に健闘の部類ではないかと、私はもっと悲惨な状況を予想してもいました。それにしても、数カ月前に読んだ幾つかの記事によると、本国での不評は専らその「難解さ」にあったそうなのですが、しかし、この映画の一体何処が「難解」なのかと(「面白くない」と言うならともかく)、「アメリカ人」の頭の程度を疑いたくもなってしまいます。百歩譲ってこれを「難解」とするにしても、「難解だからダメ」では、しかし、殆ど小学生のレベル、「分かり易さ」が「エンターテイメント」の絶対条件であるなど、一体何処でどう歯車が狂ってしまったのやら、「アメリカ人はもう少し自分の頭で物事を考えようとすべきだ」、ジョージ・クルーニーの苦言も頷けます。


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