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トーク・トゥ・ハー
監督:ペドロ・アルモドバル
2003年6月28日(テアトルタイムズスクエア)

 ボーイ・ミーツ・ガール



 多分、この世の中には「複雑な物語」などなくて、例えば、男女の恋愛に関する物語なら、大抵が「ボーイ・ミーツ・ガール」のそれに過ぎなくて、何となく複雑にも感じてしまう部分があったとしても、それはあくまでも物語の表層を覆っている何かがそう感じさせてしまうだけ、時代背景や社会通念、そんなどうでも良いものを思い切って排除してしまえば、其処に残るものにどれほどの差違もないことに気が付くはずです。あらゆる物語はその本質に於いては至って単純で、故に、何百年にも亘って反復される、否、それに替わるものが存在しないのですから、人類が物語を欲する以上、その表層を巧みに取り替えつつひたすらに反復されるより他にないのです。物語、あるいは男女の関係に於けるその単純な何かは、つまり、どの物語、どの映画にもあると言えるわけで、では、「映画」はそれを如何に表現するのか、最も単純で分かり易いそれは人物の「配置」なのかも知れません。物語状況が極端で、一見して複雑にも見えるアルモドバルのこの映画に於いて、取り分け絶妙なのはその「配置」、あらゆる物語に通底する至って単純な何か、この場合なら専ら「対話」に関わるそれが(必ずしも物語に直接関わるわけでもない)そんなところに見事に顕れているようにも思われます。例えば、映画の冒頭、バレエの舞台を観るダリオ・グランディネッティとハビエル・カマラ、まだ見知らぬ同士の彼らは、対話のあり得ないその状況に相応しく横並びに配置されているのですが、間に一つの席も置かないその距離の近さはその後の二人の関係を大いに予感させているとも、また、彼らの関係で言えば、互いに向き合いつつも厚い硝子の壁にその間を阻まれてしまう物語後半に於ける配置も、やはり「対話」を巡る彼らの状況を指摘しているものと言えます。ロサリオ・フローレスとダリオ・グランディネッティの言わば通俗な男女関係なら、彼らの対話不全の状況は、その対話の多くが自動車の中で為されているという其処に、運転席と助手席、その当たり前の「配置」は彼らを互いに向き合わせようとは決してしないのです。ベッドに横たわるロサリオ・フローレスとダリオ・グランディネッティの配置、それとは対照的なハビエル・カマラとレオノール・ワトリングの配置、あるいはベランダで横並びにされるロサリオ・フローレスとレオノール・ワトリングの配置等々、何れもが其処に「対話」を巡る関係の意味が示唆されてもいます。そして、極め付けはこの映画の最後、冒頭のそれが反復されもする観劇の場面に於けるダリオ・グランディネッティとレオノール・ワトリングの配置、ダリオ・グランディネッティの二つ後ろの席にレオノール・ワトリング、満席に近い状態であるにも関わらず彼らの間の其処だけは何故か空席になっていて、振り返る男に応じて女が視線を合わせる、この絶妙な「配置」と其処で為される無言の「対話」、何かを予感させずにはいられない両者の関係の距離が文字通り「目に見えるもの」としてスクリーンに映し出されています。何れにせよ、肝要なのは、此処に於いて様々な「配置」によって示唆されているそれらが決して「様々な何か」などではないということ、彼らの間を往き交うものは唯一つ、巧みな「配置」がその流れを様々に変化させているに過ぎないのです。

 さて、此処に於けるハビエル・カマラは明らかに「異形」と呼ぶべき存在です。異形である故に妄信的なのか、あるいは、妄信的である故に異形なのか、何れにせよ、彼の異形は其処に隠された何か、既述の「配置」が示唆してもみせる至って単純な何かをより分かり易くしていると言えます。『歓楽通り』で「無償の愛」を提供したパトリック・ティムシットもそうでしたが、異形に純粋な何かを発見し得るのなど然して驚くべきことでもなくて、それは子供や白痴(これらもやはり異形に相違ないのですが)の場合も同様、肝要なのは、異形が特別に純粋なのではなく、あらゆる人間が持ち得るその純粋な何かが、異形の場合は特別に「見え易い」というだけのこと、観客は其処に在るそのままの異形に感情移入することなど先ずなくて(この映画に描かれている通りのハビエル・カマラのような人間と友達あるいは恋人になりたいと思う人など余りいないはず)、それが情況を異化するような存在でもない限りは、その(異形としての)表層あるいは実存を排除することによって其処に何かを発見しようと努める、故に「見える」と。ハビエル・カマラともう一つの異形、観客に対してその肉体を晒す以外何一つの術も持たないレオノール・ワトリングとの相当に「異様」なはずの対話を巡る物語が、しかし、その本質に於いては案外単純で分かり易いものであることを大抵の観客が察し得るのも、その極めて特殊な物語状況を、むしろそれ故に予め排除してしまいもするから、他方、ロサリオ・フローレスとダリオ・グランディネッティの至って「通俗」な男女関係を巡る対話不全の物語は、それ自体が通俗で分かり易い故に、それをその表層ごと受け容れてもしまい(つまりは感情移入する、あるいは同化するということ)、むしろより複雑であるかのような印象を、その本質に隠されたものは異形のそれと大差がないにも関わらず、受け容れ易い実存に惑わされて容易には其処に辿り着けないのです。それが何者であれ、表層あるいは実存を排除して残る「本質」に然程の違いなどなくて、そして、それは非常に単純で分かり易いもの、異形の特権は(異形故に)予めその実存を抛棄し得てしまうことに、その意味に於いて、異形や特殊な状況を物語に持ち込むのはむしろ安易で堕落した方法であるとも、予めその実存が排除され剥き出しになった人間存在、即ち「言語」(「本質」とは言語によってのみ表現し得るものです)が其処に在るのですから、物語に対する理解が容易なのも道理なのです。何れにせよ、此処に於ける二つの男女関係を仮に「聖」と「俗」に分けるとするならば、それをそのまま人間存在の本質と実存に当て嵌めることもまた、あるいは、人間の本質を「聖」としてしまうことに語弊があるのならば、「純粋」と「不純」、もしくは「単純」と「複雑」とでも、単純な本質と複雑な実存、此処に発見されるのは、とどのつまりが「人間存在そのもの」なのかも知れません。尚、物語の最後に予感される第三の男女関係は「聖」と「俗」の邂逅などでは勿論なくて、何故なら、もはや異形であることを止めてしまったレオノール・ワトリングは既に「俗」に転じている故、それは相変わらず通俗な「ボーイ・ミーツ・ガール」に過ぎないのです。

 女闘牛士のロサリオ・フローレスが「敗北」を喫して担架で運び出される場面、カメラは天を仰ぎ見る視線、つまり、担架に仰向けに寝かされ既に意識がない女闘牛士の、本来的にはあり得ないはずの視線を其処に持ち込みます。同様の「死者の視線」とでも呼ぶべきものは『オール・アバウト・マイ・マザー』にもあって、それは交通事故に遭うエステバンの視線、冷たい道路に横たわる彼の最後の視線はその「残酷さ」の故に非常に印象深くもあったのですが、この女闘牛士の視線をそれと同様に「死者の視線」としてしまうのは(物語的に言っても)些か先を急ぎ過ぎている感があるとは言え、しかし、その視線を以て彼女の運命は既に予感されているとも、あり得ないはずの視線は既にその「所在=肉体」を喪失しているのです。それは再び視線を取り戻すことになるレオノール・ワトリングとの比較からも言えることで、彼女の場合は、あくまでも事故の「予感」が示されるのみ(交通量の多い道路を無理に横断する場面がそれ、同様の場面がやはり『オール・アバウト・マイ・マザー』にもありましたが)、決定的な場面を回避してしまうなど、何となく「らしくない」とも感じたのですが、物語的結論から遡行すれば、その差別化にもそれなりの意味を見出し得るのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、ほぼ満席でしたが、前評判というか前宣伝が派手だった同監督の前作の凄まじい混雑ぶりと比べるとそれほどの「勢い」は感じませんでした。エンドクレジットが流れる頃には何処からともなく嗚咽が聞こえてきたりもしたのですが、この映画の何に感動して涙を流しているのかなど知る由もないとは言え、こういう映画を観て涙を流す人というのはむしろ非常に残酷な心根の持主なのではないかともふと、上映終了後に喫煙所で出会した女性のグループが「熱海の秘宝館に似たようなのがありそうね」なんてことを愉しそうに話していたのですが、むしろこういう人達の方が「信用」できますね、私としては。


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