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セクレタリー
監督:スティーブン・シャインバーグ
2003年7月20日(シネマスクエア東急)

 服従の暗喩、あるいは悪魔祓い



 こんなことばかりを書いていると、いい加減「私」に関わる何かが疑われてしまうのかも知れないと危機感を募らせつつも、しかし、誰にでも容易に知れる「事実」なのですから指摘しないわけにはいけません。つまり、此処にあるのは何処にでもあるような極くありふれた男女に関する物語であり、今どきの世の中からすれば、むしろ驚くほど保守的な結論が用意されてもいる「ボーイ・ミーツ・ガール」に過ぎないと。確かに、その性的嗜好に於いて、男性がサディストであり女性がマゾヒストであるというそれは、少なくとも「日常的」とは言えないのかも知れないのですが、しかし、物語的に言えば、その特異な欲求とその具現化としての「行為」の反道徳性、反社会性が差し当たり彼らの幸福な結び付きの障壁として機能しているに過ぎないというそれは、例えば、この物語に比べれば幾分「正常」な理由によって生じる障壁が同様に機能する恋愛劇の古典、『ロミオとジュリエット』とどれほども違っているとは言えないのです。彼らは普通の性行為にはまるで興味がないとは言っても、しかし、それに代わる、一組の男女がその身体を接触させるという意味に於いては通俗なそれとどれほども違わない行為を感情あるいは欲求の「正常」な発露として其処に実現してもいるわけで、仮にその行為が異常なものであるにしても、其処に至る心理的な過程には何一つの異常さが確認されたりもしないのです。

 広角レンズによって誇張された長い廊下とその奥に居を構える重い扉、その上には意味あり気な、「秘密クラブ」か何かのようなシルシが鈍く光を抛っています。此処にあるのは、つまり、その重い扉を開け抛ち、予め隔てられた二つの空間の差異を消滅させようとする試み、そして、それを実行するのが専ら女性の方、マギー・ギレンホールであるのは今さら言うまでもないことです。この映画があるいはホラー映画にも似ているとも言えるのは、その廊下と扉を映すショットが、例えば、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』にもあったそれに驚くほど似ているからというだけではなくて、ホラー映画、特に「オカルトもの」の多くが(その物語的な問題解決に向けて)やはり扉、もしくはそれに類する何かを開け抛ち、予め隔てられた二つの空間の差異の消滅を目指すものであるから、その実現を果たすのが「勇敢な女性」であるというのもまた見逃すことのできない類似点と言えるのでしょう。ともあれ、此処に於けるマギー・ギレンホールの「悪魔祓い」は、ひたすらな「服従」の副産物として本来「非日常的」な空間であったはずの「扉の向こう側」を衆目に晒し「日常化」してしまうこと、第三者の視線を許すことによって其処は何一つの秘匿すら内在し得ないありふれた空間に堕してしまったのです。その性癖の異常さと反社会性を辛うじて押し込め得ていた特別な空間を失ってしまったジェームズ・スペイダーが、もはやこの世の終わりを覚悟したかのような表情で、しかし、ミセス・ロビンソンの誘惑を振り切ったダスティン・ホフマンのような快活さを装って「花嫁」を奪還してみせるのは、もはや「物語」の要請するところ、誰もそれに抗うことはできません。

 さて、ホラー映画に於いて、物語の最後まで生き残り問題の解決を成し遂げるのが多くの場合女性であるのは、ホラー映画の観客に男性の割合が高いからなのか、あるいは「処女性」であるとか「母性」であるとか、予め女性に備わっているとされる(男性の目には神秘的とも映る)それらが邪悪な何ものかに対抗し得る唯一のものだからなのか、それは多分様々なのだと思うのですが、しかし、男性の多くが早々にもスクリーンから姿を消してしまう理由は多くの場合共通しているようにも思われ、それは男性の多くが専ら「社会的」な俗物であるから、「明日は朝から大事な会議があるんだ。だから、こんなことになんかいつまでも付き合っていられないんだよ!」と捨て台詞を残して外に出た途端に頚を切り落とされてしまうとか、要は、世俗との関わりに囚われ過ぎて物語的現実を直視することができない故の蹉跌を繰り返してしまうのです。それは、この物語に於けるジェームズ・スペイダーにもまた言えることで、彼が自らの「解放」を目指さずに、一見して健全にもみえる身体の酷使による「自慰行為」に明け暮れたり、あくまでも(既に開け抛たれているはずの)扉の敷居の向こう側やガラス窓の奥からマギー・ギレンホールに視線を送るに止まるという「自制」を科したりするのも、社会との関わり合いを重要視して其処に在る「現実」を意識的に遠ざけているから、自らの性癖、行為を反社会的なものとして過度に恐れるのも、彼が予め社会的存在であるからに他なりません。他方、マギー・ギレンホールはどうかと言えば、「女性だから」という回答は差し当たり留保するとして、ハイスクールを卒業するかしないかのうちに精神を病んで長らくの病院暮らし、この物語が彼女の「退院」から始まることにも明らかなように、それまでの彼女には(狭義の意味に於ける)社会との関わり合いは殆どなくて、まさにこの物語の始まりと同時にそれを模索し始めるというのが彼女の立場、それがつまり彼女が「悪魔祓い師」であり得た所以とでも言うか、あるいはホラー映画に於いて要求される「処女性」にも似たものを備えているとも言えるのかも知れません。社会との関わり合いが希薄である、即ち然して社会的な存在でもない故に、それを一概に「反社会的」と決め付けずに、自身の特異な性癖に対しても比較的ニュートラルな立場で関わっていくことができてしまうと、従って、極端なことを言えば、彼女の道徳的価値観に於いては「凹と□」あるいは「凹と凹」には問題があっても、「凹と凸」なら何の問題もないと、其処に「社会」という障壁は予め存在しない、仮にあるとしても、その壁は極めて薄いのです。彼女に予め備わったそれ、敢えて言えばその「純粋さ」が強力な武器となり得るのは、やはり「物語」の多くに於いて、当たり前のように「子供」が勝者であり得てしまうそれと理屈は同じ、自慰行為の場面に於けるあの阿房らしい背景映像が彼女のそんな素性を明らかにしているともまた言えるのではないでしょうか。

 ロミオとジュリエットの恋愛が(少なくとも世俗的な欲求を満たすカタチで)成就しなかったのは、つまり、彼らの何れもが「社会」が其処に立てた壁の存在を正しく認識できる程度には「大人」だったからであり、エドワードとリーの幸福なのであろう恋愛の物語との違いは唯一其処、別に驚くような話でもありません。「自傷セット」を棄てたゴミ箱で偶々見つけた新聞広告が「天啓」として物語を起動してみせたり、この一見して特異にもみえる物語を通俗なそれらと容易に合致させてしまう細部は他に幾らでもあって、例えば、この映画に登場する彼ら以外の人物は何れもとても「普通」とは言えない感じで、病み上がりの娘が心配なのは分かるにしても、仕事が終わる何時間も前から出迎えの車で待つ母親であるとか(そもそもこの母親に関しては、物語冒頭のマギー・ギレンホールの退院を出迎える場面からして相当に異様で、病院から出てきた彼女を捉えたショットに続くのがその母親の何とも不気味な笑顔を捉えた短いショットで、しかも、その何とも名状しがたい短いショットを以て唐突にそのシークエンスは完結してしまっているという、この映画全体に漂うある種の異様さはその時点で既に予感されています)、アルコール依存症で文字通り異常な彼女の父親であるとか、あるいは、何故か化粧室に居合わせて聞き耳を立てるものの何の物語的必然性をも伴わせない弁護士補助員等々、その異常な彼らの此処に於ける役割とは、マギー・ギレンホールのそれに同調するかのような異常さを以て、やはり彼女の前にあるはずの「壁」の存在を無効にしてしまうこと、予め彼女と対峙する存在であることを巧妙に避けているのです。つまり、皆が皆予め異常で、しかも映画全体が予め異様な雰囲気に支配されていれば、其処に於ける彼女は相対的に「正常」と同等のものとしてあり得るわけで、彼女は何の軋轢に悩まされることなく、ひたすらに「凸」の獲得に専念できると、彼女が「壁」の存在を軽々と無視できてしまうのも、彼女が「異常」だからでは決してなく、あくまでも(その異常さとは関係のない理由から)社会との関わりが薄いから、彼女は皆が皆予め正常な物語と同等の次元を然したる苦もなく与えられているのです。そういった構造が取り分け顕著なのが、やはり予め異常なジェレミー・デイヴィスの存在、彼はマギー・ギレンホールにその性的嗜好を確信させる重要な役割を担うことになるのですが、彼の凡庸さはあくまでもその予め異常な素性が(表層のレベルに於いて)マギー・ギレンホールのそれに似すぎている故の凡庸さであり、決して彼が相対的異種だからではありません。それはつまり、予め正常な若い女性がハイスクールの同級生を何となく退屈と感じるのと何一つ違ってはいなのです。何れにせよ、斯様な理屈から此処に於ける表層の異常さは、その全体をほんの少しずらしてみれば、何一つの狂いもなくまさに通俗な、その表層のレベルに於いてすら何処にでもあり得る物語へと変容と遂げてしまうわけで、そのようなことはあらゆる「物語」に於いて少なからずあり得てしまうことであるとは言え、しかし、此処に於けるそれは余りにも「あけすけ」なのです。

 最後に残された問題は、上の方で一先ず留保した「女性だから」という回答、此処に於ける両者の対立と和解はあくまでも「社会」との関係の(程度の)差異に因するものに過ぎなくて、確かに、実際の物語では男性の関係がより強固で女性のそれがより希薄であるということになっていますが、今どきそれらの「交換」など自在、立場が逆の物語があったとしても誰も驚いたりはしないはずです。勿論、「物語が実際そうなっている」という事実こそが重要であるとも言えなくもないのですが、しかし、少なくとも此処までの話で言えば、それらを(豊かな想像力を以て)自在に交換してみせるくらいの余裕が肝要なのではないかと。但し、この物語に関して言えば、その驚くほど凡庸な物語的結論に於いてその立場はもはや「交換不能」なものとして見事に貼り付けられてしまってもいます。不敵とさえ思えるマギー・ギレンホールの「勝者の笑み」を以て閉じるこの映画、そのラストショットに至る過程に於いて、その積極的な意志によって何かを獲得したのは彼女の方であり、その意味に於いては確かに勝者であり得るのですが、しかし、その彼女はもはや「セクレタリー」ですらなく、恐ろしいことに、今度はその姿を変えてまた別の「服従の暗喩」として其処に、これは単なるマゾ気質の気紛れな「転移」とでも見做すべきなののか、あるいは彼女が獲得を目指していたのがそもそもそれであると、何れにせよ、其処に発見し得るのは「相対的正常」が覗かせる「絶対的正常」への異様なまでの執着心、止まることを知らぬ「差異の消滅」への意志は、つまり、最後は其処にまで行き着いてしまうということでしょうか?

 公開二日目の日曜日の午後、劇場は半分くらいが埋まっていた程度でしょうか。ところで、『ソラリス』に続いてまたしても「似たような役柄」でその姿を目撃することになったジェレミー・デイヴィスなのですが、少し前の『CQ』はともかくとしても、『ミリオンダラー・ホテル』のそれなどやはり「そのものズバリ」な感じでしたし、もはやこういう役柄しか回ってこないのかと少し心配にも、日本ではまだ公開されていない彼の最近作の監督がラース・フォン・トリアーであると知ってしまうと尚さらに。あと、この映画館が発行しているらしいパンフレットは巻末に「シナリオ採録」があって相変わらず良い感じ、パンフレットの表紙やそれと同じデザインのポスターが江口寿史の漫画に置き換えられている理由はよく分かりませんが。


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