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ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
監督:アラン・パーカー
2003年7月26日(新宿文化シネマ4)

 奔る女の経済学



 映画が「社会的」もしくは「政治的」である必要など何処にもなくて、従って、それらがひたすらにそれを観る人間の快楽にのみ奉仕する、言わば「娯楽」の対象であっても別に構わないと思うのですが、しかし、社会的な映画、其処に社会にとって有用なのかも知れないメッセージ(言語情報)を内包したそれらが冷遇されてしまう世の中が健全であるともまた思えません。世にありがちな誤解は社会的な映画の方が、取り立てて社会的でもない所謂「娯楽映画」より価値があるのではないかというそれで、それが間違いなく「誤解」であるのは、映画の価値は其処に予め内包された言語情報の質によってのみ判断されるものではないから、その予め内包された言語情報が如何にして伝達されるか、仮に「映画」を言語情報の伝達媒体に過ぎないと安く見積もるにしても、重要なのはむしろ媒体としての機能の方、中身より箱なのです。しかし、だからと言って、それを介して定期的に発信される言語情報を等閑にしてしまっても良いということでもなくて、何故なら、社会的(なのかも知れない)情報を発信するという行為は間違いなく「社会的」である故、それを受け取る側、つまり「観客」もやはり同様に「社会的」な身振りとしてそれを受け取るべき、新聞など読まずとも生きて往けるとは言え、誰一人として新聞を読まず、社会について何も考えない、社会的な身振りを怠ってしまう世の中が健全であるとはとても言えないはずです。其処に実現される言語情報の往来はもはや「映画」とはまるで無縁の何ものかに過ぎないにせよ、しかし、それはそれで十分に意味のあること、誰しもがしかつめらしく「映画」について考える必要こそむしろ無いのです。改めてそんなことを思うのもこの「映画」としての価値がそれほどあるとも思えない「死刑制度」を巡る「社会的」な映画が何故か冷遇されている(都内では準単館上映の扱い)故、それを受け容れるべき世の中が甚だしくも不健全なのか、あるいは、クリント・イーストウッドの『トゥルー・クライム』がやはり同様に冷遇された事実と併せて、むしろ健全過ぎる故の冷遇なのか、何れにせよ、何かが「間違っている」ような気がしてなりません。

 人気のない田舎の一本道を一台の自動車が走り抜け、どう考えても中途半端な場所に停車したその自動車から誰かが降りて走り出す、スクリーンに向かって右から左へのその自動車の移動と停止、やはり左方向に走り出す人間の移動はロングのワンショットで捉えられているのですが、それに続くのは何処かを目指して必死に走るケイト・ウィンスレットを正面から捉えたミドルショット(ミドルショットに切り替わった故にそれが彼女と判るわけですが)、それがこの映画の冒頭に(錯時的に)配置されたシークエンスです。状況説明の仕方としては在り来たりで、別に何が「間違っている」というわけでもないのですが、私が覚えた違和感は、そのロングからミドルへの切り替わりのタイミング、「早過ぎる」と言うか、「(ロングショットを)もう少し見ていたいのになあ」と感じました。以前、ロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』に関する文章でも似たようなことを書いたのですが、斯様な「感覚」が万人に共有されているなどとはとても断言できませんから、あくまでも私の個人的なものと留保しておきますが、しかし、少なくとも私に関して言えば、その映画の良し悪しが判断されるのは斯様な感覚に於いて、しかも、この映画がそうであったように、大抵の場合、冒頭から既にそれに出会してしまうことにもなるわけで、それに続く120分は専らその感覚の「正しさ」を証明するためにだけあるかのような、否、別に私が何かを「分かっている」という話がしたいのでは勿論なくて、何らかの映画に対して誰しもが一度は感じたことがあるであろう「何となくつまらない映画」という全体の印象に於けるその「何となく」の正体は案外そんな些細なショットの連鎖にあるのかも知れないということ、実際、我々が其処に目撃しているのは正しく「ショットの連鎖」だけなのですから。

 それはさておき、本来的には物語の終わりの方にあるべきそのシークエンスが錯時的に冒頭に配置され、本来の「場所」に至って反復されることになるのは何故か、これが「死刑囚に関する物語である」という程度の予備知識は持ち合わせている(に違いない)大抵の観客は、自動車が中途半端に停止してしまう理由まではさすがに分からないにしても、ケイト・ウィンスレットが必死に走る理由は容易に「読め」てしまうはず、パトカーに追われながらも「デッドメンズ・カーブ」を巧みに曲がり切ったクリント・イーストウッドを引き合いに出すまでもなく、その類の映画に於いて「冤罪の証拠」を掴んだ人間は往々にして走り出すもの、走り出す人間とそれを強迫する「時間」が物語を「物語」ならしめるとでも言うか、何れにせよ、それが(錯時的に)冒頭に置かれているのは、つまり、誰しもが容易に想像できてしまうその物語的結論を予め差し出しすことによって、物語を其処に完全に従属させてしまうため、物語はひたすらにその零度の地点を目指して進むことになるわけですから、その結論との関係もより強固なものとなるのです。勿論、此処に於けるそれが、そんな「効果」を逆手に取った「トリック」であることは物語を最後まで確認すれば誰にでも分かること、残念ながら、必ずしも「効果的」だったとは言えないのですが。

 さて、ケイト・ウィンスレットがとても美しいとは言えない身体を揺らしてスクリーンを駆け回る理由は上述の通り、それは彼女が「冤罪の証拠」を掴んだからに他ならず、そして、そのシークエンスが錯時的に配置されている理由もやはり上に書いた通りなのだと思います。しかし、実はそんなことなど別にどうでもよくて、私がこの映画、取り分けその「奔るケイト・ウィンスレット」に感銘を受けたことがあるとすればそれはもっと別のところに、彼女が走らなくてはならない理由はもう一つ、此処に於いてそれを促す「強迫する時間」は然るべき方法によって捏造されているのです。例えば、素人の自然な演技が単なる下手糞に見えてしまうことはあっても現実的に見えることは余りない、と言う経験則からも明らかなように、「現実的」な映画は必ずしも現実を正しく模倣しているわけでもなくて、むしろ「映画的」に加工されたそれの方が余程「現実的」に見えたりも、この映画を「現実的」としてしまうのは些か無理がありますから、それ例を正しく当て嵌めることはできないのですが、ただ、或る部分に関して、現実の模倣を意図的に止めることによって極めて「映画的」な効果を得ているのは確か、映画が現実の模倣を止めたからこそケイト・ウィンスレットは如何にも「映画的」な身振りとしてスクリーンを駆け回らざるを得なくなったのです。この映画(の現実)が現実の模倣を止めたのは「携帯電話」の欠落、排除に於いて、精確には、この映画にも「現在」が模倣されるに相応しく携帯電話が登場するのですが、しかし、物語の早々にも「圏外で使い物にならない」と冷たく宣告され、以降それが登場することは二度とありません。より速いスピードを実現する乗物がそうであるように、世の中を便利にする新たな発明品の多くは専ら我々の「時間を稼ぐ」ことに貢献するわけで、携帯電話も勿論例外ではなくて、移動しながらでも通話ができてしまいますし、映画の中によくあるような、知らない場所で公衆電話を見つける「時間」も省略できてしまいます。そもそもが限られた時間の中で、ひたすら時間に強迫され続けるのが「映画」あるいは「物語」の経済であるとするならば、無駄に時間を稼いでしまう道具がそれに相容れないのも道理、実際、其処に携帯電話があれば、彼女はおそらく「間に合っていた」に相違なく、つまり、物語の経済は其処に破綻してしまうのです。ただ、此処に於いて肝要なのは「間に合う/間に合わない」という物語に直接関わりもする二者択一ではなくて、むしろ物語とは然して関係のない彼女の余りにも「映画的」な身振り、身体を揺らして「奔る」というそれが実現されていること、其処から携帯電話が排除されているのは、彼女を(物語的に)「間に合わせない」ための方便などでは多分なくて、偏に時間に強迫された「映画的」な身体をスクリーンに捉えるため、そのシークエンスが冒頭に配置され反復されているのすら、むしろそんな理由を第一に置いているからなのかも知れないと。願わくば、「圏外」などという言訳がましい予防線など張らずに、もっと涼しい顔で、そんな道具などこの世の中に存在していないかのような態度で物語を遣り過ごしてもらいたかったところ、心ある観客は、そんなふうに持ち込まれる「非日常」を責めたりは決してしないはずです。

 電話機を介することなく容易に対話ができてしまう面接室のそれが、やはり映画が現実を模倣することを止めた結果なのかどうかということは一先ず考えないことにして、其処に於いて為されるケビン・スペイシーの告白を疑わせる意匠は様々に、聞き手が予め1人に限られていることや、録音が許可されていないこと等々、そのような状況はその告白された「物語」が(刑務所の外で)改めて思考されることを巧妙に回避しているとも言えます。しかし、一番のそれは、現実(の場面)から「フラッシュバック」への移行のプロセスにあって、此処に於けるそれは一般的なプロセス(例えば「暗転」とか)を経るのではなく、如何にも意味あり気な映像と文字の素早いコラージュや画面の回転を経て場面転換が為されるのですが、その見慣れない、おそらく映画史上に初めて現われたのであろうプロセスは、それが「初めて」である故に、実は観客に対して何一つを約束する必要もなくて、つまり、ケビン・スペイシーによって為される告白の信憑性を保証する義務すらも負わないと、それが作法として「フェア」なのかどうかは知りませんが、しかし、ユニークな試みであるのは間違いありません。ただ、この映画が余りにも「無邪気」なのは、斯様な意匠によって巧妙に物語的事実を曇らせているわりには、何のことはない、人為的に作成されたに過ぎないビデオテープに「真実」を委ねてしまっていることに、観客の視線を曇らせているはずのものが同時に物語的真実を明かにしてしまうなど、そんな構造は間違いなく欠陥を抱えていると言わざるを得ません。

 蛇足ながら、ほんの少しくらい物語内容にも言及しておけば、大学で学生相手に講義をするケビン・スペイシーがジャック・ラカンを分かり易く引用して「夢は実現されてしまうと途端に退屈なものに思われてしまう。故に、持つべき夢はできる限り実現不可能そうなものの方が良い」というようなことを言うのですが、彼にとっての「実現不可能な夢」が「死刑制度の廃止」にあると考えるのはおそらくは間違いで、此処から「読む」ことができる彼の夢はあくまでも「冤罪の実例を突き付ける」という極めて低次元なそれ、従って、彼の物語的な「死」は正しくその「退屈」に対して支払われた代価であり、だからこそ其処に「死」の選択があり得たとも。そんな彼の俗物ぶりはテレビ討論のシークエンスにもまた端的に顕れてもおり、ローラ・リニーから「アナタは単に相手をやり込めたいだけなのよ」と詰られてしまうそれが正しく彼の問題点を指摘してもいます。そして、どうしても「勝者」でありたい彼の些か低俗な意思は、何よりも最後の「ビデオテープ」の存在に明らか、それは「物語」に奉仕すると同時に、彼の欲望をもまた満たすことに、この映画のラストショットはつまり、廃止されることなどあり得ないのであろう「死刑制度」とはまるで無関係に、彼の「夢」が実現された瞬間でもあるのです。そう考えてみれば、この物語は哀れな俗物の細やかな成功譚に過ぎないとも、自己犠牲の向く先が自己に過ぎないのなら、少なくともケビン・スペイシーに関して言えば、此処には「犠牲」など何一つなかったと。

 公開初日の土曜日の午後、この映画が(都内に於いて)「準単館上映」なのは、日比谷シャンテの他にもう1館、新宿の50席程度の小さな箱でも上映されているから、私が観たのはその新宿の方です。それが世の中が必ずしも不健全ではない証左と言えるのかどうかは分かりませんが、その小さな箱は立見の出る盛況ぶり、上映30分前に映画館に着いた私もやはり立見でした。それにしてもしかし、繰り返しになりますが、この映画の酷い扱われ方は一体、これもブレヒトの言う「英雄のいない世の中」の相対的幸福として、むしろ安堵すべきなのでしょうか?


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