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パンチドランク・ラブ
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
2003年7月27日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 オルガンは存在しない



 映画のスクリーンサイズがそもそもテレビの標準と同じ「4:3」で、今現在当たり前となっているそれよりもさらに横に長い幾つかのサイズが出現したのはあくまでもテレビの出現以降、その「脅威」に対抗するために発明されたというのはよく知れた話です。しかし、そのスクリーンサイズに関して、テレビあるいは(さらなる脅威としての)ビデオの呪縛は今現在も相変わらず続いており、それは幾つかの映画作品に於いては、あくまでも「二次利用」に過ぎないはずのビデオ化の段階をむしろ最優先して、予め「4:3」にトリミングして丁度良い「画面作り」が為されている(らしい)ことにも明らか、然るべき後にハサミを入れられる部分は文字通り「剰余」に過ぎなくて、つまり、決して安くはない入場料で我々はその「剰余込み」のむしろ不完全な映像を見せられているということです。序でに、単なる聞き齧りで確度をまるで保証できない話を付け加えておけば、映画によっては予め「4:3」のスタンダードサイズで撮影してスクリーン向けには上下をトリミング、つまり、横長サイズを捏造してしまうわけで、勿論、ビデオ化に際してはトリミングなしの本来の映像が使われるという、恐るべき逆転現象と言わざるを得ません。尤も、後に書いた話はともかくとしても、今どきのすべての映画がビデオに「最適化」されているわけでもないのは言うまでもないことで、この『パンチドランク・ラブ』にしてもそう、この映画はファーストショットからして既にその事実、我々が映画館の暗闇でひたすらに向き合うそれが横長の長方形、非日常的なフレームであることを再認識させてくれるのです。

 仮に「4:3」のそれがフレームとして最適のものであるとするならば、所謂「シネスコ」や「ヴィスタサイズ」のような「不自然」なそれは其処に何を捉えるべきなのか、この映画のファーストショット、一人で机に向かうアダム・サンドラーを左隅に置いて、スクリーンの大半は何もない殺風景な空間を、しかも、そのショットは固定され暫くの間切り替わることすら、観客は意味を把握できないアダム・サンドラーの電話の遣り取りに付き合わされることになります。その事務所が殺風景であるとか「何もない」という状況を説明するだけなら、そのようなショットは数秒もあれば十分、後は電話を架ける彼ののクロースアップか彼を中心に置いたミドルショットに切り替えれば良いわけで、その方がむしろ「自然」であるとも、それをしないということは、つまり、その「不自然さ」にこそ意味が隠されているということです。また別の場面、夜になって自室に戻ったアダム・サンドラーが何気なく「セックスダイヤル」に電話を架けるのですが、受話器を握る彼は一方を壁に付けたダイニングテーブルの(スクリーン向かって)左側の椅子に座っているのですが、やはり少し離れた位置からその姿を捉えるカメラは、その向かい側の、其処に誰も座っていない椅子をもまた同時に捉えています。何れの場面に於いても彼が電話を架けているというのは決して偶然ではなくて、そのフレームにはつまり他者の存在と不在が同時に、あるいは(其処にいない)他者の「在るべき場所」が捉えられているとも、その自室のシークエンス、「対話」即ち他者を其処に手繰り寄せる行為を諦めたアダム・サンドラーは致し方なく(本来のそれに相応しく)自慰行為に耽ることになるのですが、受話器を握りながら落ち着きなく部屋を歩き回った彼は不在を其処に置いたダイニングテーブルではなく、スクリーン左奥の、やはり一方を壁に付けた一人掛けの事務机に向かってそれを(彼は観客に対して背を向けることになります)、其処にはもはや他者の「在るべき場所」など何処にもなくて、それが即ち、その場面に於ける彼の「対話」への諦念を示唆しているともまた言えるわけです。この不自然に横に拡がったフレームにはつまり「不在が在る」と、「何もない」のではなく、言うなれば「未だない」と、他者の存在は常に予感され、動作の主体に従属する他者の「在るべき場所」として、要はアダム・サンドラーの身体の欠かせない一部分として、それはスクリーンに収められているのです。さらにまた別の場面、アダム・サンドラーとエミリー・ワトソンが自動車の中で会話をする場面があるのですが、其処ではその会話に応じた「切り返し」が用いられています。そのクロースアップによる「切り返し」は、自動車の中というただでさえ狭い空間をより一層、息苦しさを感じてしまうくらいにも狭く感じさせることになるのですが、しかし、其処に両者の距離の「緊密さ」をもまた感じ取ることができます。これはあくまでも極端な解釈に過ぎないのですが、スタンダードサイズに於ける、互いに向き合う男女をミドルショットで捉えた所謂「2ショット」というのは、其処に実現される物理的な距離の故にそれだけで既にある種の「緊密さ」を約束することにもなるのですが、それよりもさらに横に長いスクリーンサイズに於いては、其処に両者をバランス良く配置しようとすれば必然的に或る一定の物理的な距離が生じてもしまい、それだけでは決して「緊密さ」を約束したりは、むしろ文字通り「距離」を感じさせるものにもなってしまうのかも知れません。勿論、バランスになど拘らなければそのような事態を回避することもまた容易なのですが、何れにせよ、此処に試みられているような「切り返し」、意図的に空間の連続性を否定してみせる動作が、むしろ「空間」そのものを消滅させ其処に「2ショット」では実現し得ない「緊密さ」を実現することもまたあるわけで、そして、それが「不在の不在」であるという意味に於いて、あるいは先に引用した二つの場面を丁度裏返したものであるとも、その自動車の場面がこの映画の全体を通して何となく「異質」である理由もおそらくは其処に、但し、その空間の消滅はあくまでも「切り返し」という映画的な意匠が捏造した疑似的なものに過ぎなくて、決して本来的な、先の二つの場面に目撃されたような「不在」が埋められたわけではありません。正しい問題の解決を目撃するためには、我々はこの映画の一番最後のショットを待たなくてはならないのです。

 さて、此処にあるのが恋愛に関する物語のようで、しかし、案外そうでもないようにも思われるのは、それが一方的に与えられているものであるから、エミリー・ワトソンはアダム・サンドラーに実際に会うより以前に彼の写真を見て「一目惚れ」をしてしまっているわけで、物語冒頭の「出会い」が偶然ではなかったことも含めて、つまり、此処に於けるそれ、アダム・サンドラーにとってのエミリー・ワトソンという存在やその感情は、その「出会い」とほぼ時を同じくして彼の前に突然出現したオルガン(此処では取り敢えずそう呼ぶことにします)と同じ、差し当たり彼に「与えられた」ものなのです。では、エミリー・ワトソンの話は一先ず措くとして、誰かが彼の前に置いていったその足踏み式のオルガン、彼がそれを自身の事務所に運び込んだのには別に大した理由もなくて、誰かが捨てた使えそうなものをもらってしまえば差し当たり「得」であると、多分、その程度の動機だったに相違なく、決してオルガンそのものに興味があったわけでは、その意味に於いて、事務所の机の上に如何にも不自然な恰好で置かれたそれは「オルガン」ではなく単なる「物」に過ぎないということになります。それを端的に示しているのが、それに触ろうともせず、それを「ピアノ」と呼ぶ彼の姉や同僚の存在、彼らがそれを「ピアノ」と呼ぶ以上、そもそもそれが何ものであるのかということとはまるで無関係に、彼らにとってそれはやはり「ピアノ」でしかなくて、本来的に「物」とそれを認識する主体の関係とはそういうもの、その何ものかが「オルガン」であり得るのは、それを認識する主体がそれを「オルガン」と認識するからであって、その「物」が物自体として予め絶対的に「オルガン」であるということではないのです。それが「ピアノ」でないことだけは何となく分かっていても、しかし、それに与えるべき名前(シニフィアン)を知らないアダム・サンドラーにとってもやはり同様、妙な誤解をしていない分、むしろそれは単なる「物」であり続けるのです。エミリー・ワトソンからそれが「ハーモニウム」と呼ぶべきものであると教えられることによって状況が転換するのは非常に示唆的で、それは単にシニフィアンの問題に止まらず、例えば、彼がその「空気漏れ」を塞いだり、あるいは、終始机の上に置かれていたそれが物語の最後になって漸く普通に床の上に置かれ、正しい姿勢でそれと向き合うようになる、つまり、その何ものかは「道具」としての正しい有り様を獲得することになるわけで、此処にあるのは即ちそれ、正しく「物」が「道具」となる過程なのです。同様のことは「プリン」にもまた言えます。アダム・サンドラーにとってのそれは決して「喰べる」ものではなくて、その本来の価値と比べて遥かに高価な「マイル」を獲得するためのもの、しかも、その獲得するはずの「マイル」にしても、別に旅行が好きなわけでもない彼はただひたすらにそれを蓄積するのみ、何となく「得」だと自身で納得しているに過ぎません。これもやはり物語が進むに連れて正しく「道具」としての有り様を獲得するわけで、その獲得した「マイル」を実際に使うことは物語的に能わなかったのですが、エミリー・ワトソンを追い掛けてハワイへ行ったり、悪漢を退治しにユタまで出向くのがそう、正しく「使われる」ことによって、それは単なる「物」であることを止めるのです。同様のことを、エミリー・ワトソンの存在によって予め「与えられた」ものに対しても当て嵌めれば、それが即ちこの物語の本筋となるわけで、それは恋愛に関わる他者との関係に止まらず、彼自身が抱えた「性格」の問題にもまた、肝要なのは、其処に変化があり得るのは、あくまでも対象を認識する主体の認識の仕方なのであって、決してその物自体が変化するのではないということ、此処に於いて、アダム・サンドラーはガラス窓を蹴破る代わりに(エミリー・ワトソンに対する愛情表現の一種として)悪漢どもを勇ましく殴り飛ばすという「進歩」を遂げることになるのですが、しかし、それは彼のその「癇癪持ち」な性格が治った(変わった)ということでは勿論なくて、彼はあくまでもその些か厄介な性格を抱えたまま、そのエネルギーの向く先がほんの少し変化したというだけのこと、他者あるいは「世界」を如何に認識し、そして、それらと如何に関わりを持つ(受け容れる)かによって「私」を巡る状況は如何様にも変化し得ると、其処に横たわる「不在」を埋めるのもやはりその変化なのです。さらに言えば、その「認識」と「関係」あるいは「受容」を巡る物語論的主題は、この映画とそれを観る人間の間にもまた当て嵌めることができてしまうとも、この映画の表題がすべての映像情報が出揃った後に漸く現われるのは、つまりそういうこと、我々は予め『パンチドランク・ラブ』としてそれを認識するのではなく、その映像の連鎖の結果として、漸くそれを『パンチドランク・ラブ』と認識する、否、あらゆる「フィルム体験」は本来そうあるべき、即ち「確認」ではなく「発見」であると。

 公開二日目の日曜日の午後、ほぼ満席でした。それはともかく、この映画館で何らか映画を観る度に書いているような気もするのですが、この映画館独特の、無駄に意匠を凝らしたパンフレットだけはやはりどうにもいただけません。なるほど、在り来たりなパンフレットが予め解体された映画を然るべき言語情報と幾つかのスチール写真によって再構築するものであるとするならば、この映画館の一見して奇怪にも見えてしまうそれは予め解体などせずに「カタチ」としてそのままその映画を差し出すものであると、私などとても付いて行けそうにない高邁さです。


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