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10話
監督:アッバス・キアロスタミ
2003年8月2日(ユーロスペース2)

 例えばそれが止まること



 そもそも映画に於ける自動車(内部)の場面が異様なのは、其処にいる人間が皆同じ方向に身体を向けている故、複数の人間が自動車に乗り合わせれば、大抵は其処に会話が成立するのですが、しかし、特にそれが運転席と助手席の場合なら、両者が互いに向かい合うことがあり得ないのは当然として(最低限の現実性を無視せずにその場面を撮るつもりならば)互いが目を合わせることすらないはず、その割には、物語的に重要な会話が車中で為されることも決して珍しくはないわけで、映画に於けるそれはやはり何処となく異様であると、そんなことを思います。今でも続いているのかも知れませんが、何年か前に或る家族向けのワゴン車のテレビCMに「アダムス・ファミリー」の面々が起用されているのがあったと記憶しているのですが、あれは案外適役だったと言うか、実際にそれに乗り合わせるのではなく、あくまでも自動車の外からその光景を目撃する立場に限れば、皆が皆同じ方向を向いて何となく愉しそうにしているサマは、如何に健全な家族であれ、やはり「アダムス・ファミリー」がそうであるのと同じくらいに異様、あのCMに於ける彼らは、言うなれば「予め異化された他者」としての役割を見事に果たしているということになります。否、別におかしなことを言っているつもりもなくて、例えば、森田芳光の『家族ゲーム』に於けるあの有名な「食卓の場面」を(企図された通りに)異様と感じる人なら、自動車のそれに同様のことを感じて然るべき、動いている自動車(内部)の光景を目撃するのなど、実際、映画の中(もしくはテレビドラマ等のフィクション)でしかあり得ないことなわけですし。最近の映画でその自動車に於ける異様な状況を上手く利用していたと思うのは、ペドロ・アルモドバルの『トーク・トゥ・ハー』で、専ら車中での会話が切り取られていた或るカップルの「対話不全」は、そのまま自動車特有の人間の配置に還元されてもいて、つまり、何となく対話は成立していても、彼らは決して顔を向き合わせることなく、何処か上の空だったと。同様の理屈で、劇場や映画館、飛行機や地下鉄もやはり異様な場所と言えるのかも知れませんが、劇場や映画館はそもそも対話が成立するやうな場所ではありませんし、飛行機や地下鉄にしても、少なくとも映画に於けるそれらは積極的に対話が為される場所ではなくて、(特に地下鉄など)むしろ其処にいる人間の孤独が表象される場所として、互いに顔を向かい合わせることなく、それでいて対話を強迫する自動車という装置の異様さには到底及ばないのです。また、今どきの映画には余り登場しませんが、長距離移動用の列車などによく見られる4人掛けの向かい合わせのシートは、それが登場する大抵の場面がそうであるように、見知らぬ者同士にすら対話の契機を与えるという意味に於いて、非常に健全な対話の装置(それを逆手にとってむしろ不健全な状況を捏造するのがヒチコックでしょうか)、むしろそのような場所に独りでいる、例えば、アキ・カウリスマキの『過去のない男』にあったようなそれは、それ故にまた別の意味を持つことにもなります。逆に、自動車に独りでいるのは然して異様な状況でもなくて、それは自動車が単に空間移動の装置に堕しているだけ、其処にノワール的なモノローグでも被されば、それはそれでまた別の意味を持つことにもなるのですが。

 予めダッシュボードに固定された2台のデジタルビデオカメラがそれぞれ運転席と助手席に座る人間を同時に捉え続ける、その場には監督自身が居合わせることもなく、誰でも知り得る「情報」の通りならば、役者達との事前の打ち合わせもほんの僅かだったと、其処に何らかの「仕事」があったとすれば、完成したそれの10倍以上の長さがあったらしいビデオテープを編集したこと、それを「映画」と言って退けてしまうのなら、これほど楽な商売もないのかも知れません。実際、第1番目のシークエンス(第10話)など、編集と言っても鋏を入れたのは僅か2回、つまり、そのテープに「始まり」と「終わり」を作った以外何もしていなくて、1台の固定カメラが助手席で矢継ぎ早に言葉を発する少年を延々捉えているのみ、其処に(本当に)「演出」の関与すら殆どないとすれば、それは一体何なのかと、つまり、「映画なの?」と。例えば、ジョン・カサヴェテスも似たようなことをやっているのですが、しかし、彼の場合は(やはり誰でも知り得る「情報」の通りならば)アドリブのようにも思われているあの言語過剰な脚本は予め相当に練られたものですし、役者の演技自体が「即興」に拠るところが多いにしても、しかし、それはそもそもが「一流」の彼らに対する信頼の証のようなもの、役者の突然の移動にも迅速に対応できるよう予め不自然な影を作らないよう照明を明るくし、さらにパンフォーカス気味に撮っていたというのは有名な話です(実際にはとても対応できているとは言えない箇所も多いのですが)。そして、何よりも、カサヴェテス映画の場合は、案外編集に拠っている部分も多くて、つまり、これがそうであるような「単純さ」の印象からは随分と遠いものとも言えるのです。

 さて、「映画なの?」と首を傾げてみせるなら、先ずは「映画とは?」の問いに明快な答えを示してみせる必要があるのですが、しかし、残念ながら、そんなことはとてもできそうにないので、差し当たり此処に見つかるものを羅列してみれば、女性(母親、売春婦等々)、子供、老人、男性(自動車の外)、昼と夜、自動車、社会(台詞から覗けるそれと車窓から覗けるそれ)、そして物語、と、これ以上を何を続ける必要もなく、それらを以て既に十分「映画」であるのは自明のこと、決して何が足りないというわけでもありません。もしそれでも何かが足りないと感じるとするならば、それは多分それが「映画」であるかどうかとはまた別の問題、敢えて言うならば、それは「映画」の剰余的な部分に関わる問題に過ぎないのではないかと。少年の姿をひたすらに捉えているに過ぎない第1番目のシークエンスにしても、だからと言って彼が病的な独白を繰り広げていると思う人などいないはずで、カメラがその姿を捉えることはなくても、其処にもう一人の人間が間違いなく存在していること、あるいはそのもう一人の人間と少年の社会的関係や彼らを巡る現在の状況等々は観客に対して正しく伝達されているはず、さらに、少年の頭越しに流れる車窓の景色は、その自動車が間違いなく動いているという事実のみならず、其処に在る「社会」の概観を垣間見せてくれさえも、つまり、何れ捉えられることになるその女性の姿形を除けば、其処に足りないものなどやはり何一つもないのです。考えてみれば、それが単純なものであれ複雑なものであれ、ショットの連鎖以外の何ものでもないはずの「映画」を、その通りに記憶、所有できる人間など先ずいないはずで、大抵の観客は精々両手に余るくらいの印象的なショットと其処に発見された「言語」を記憶し所有するに止めるのみ、ならば、その「ショットの連鎖」がどのようなものであれ、然して重要でもないのではないかと、実際、この映画を観た後に残る「言語」は、ハリウッド製のどの社会派映画と比べても何ら遜色がないのではないかとも。

 それでも良質な物語映画であり得る、と言う「事実」以外にも、この映画に発見し得るものは幾らでもあります。そもそもこれは映画を魅力的にする装置の一つと言える「自動車」に関わる映画、示唆的でないはずがありません。例えば、冒頭でも触れたような、対話には決して相応しくない人間の配置と、それにも関わらず対話を強迫する状況の矛盾とその結果としての異様さ、この場合など特に、専ら聞き役となるその女性は終始ハンドルを握っているわけですから、追突事故を予め覚悟していない限りは、語られる内容の深刻さに反して、其処を往来する言葉だけがひたすらに上滑りしているかのような印象を何となくも受けてもしまいます。逆に言えば、キアロスタミは何故そのような会話を他でもない自動車の中でさせたのかと、むしろ(深刻な)言葉を上滑りさせるためにそうしたと考えるのは些か軽率であるにしても、少なくとも、本来的にそれが為されるに相応しいそれ以外の場所ではなく、それが自動車であるということには何らかの理由があるはず、肝要なのは、それが上滑りしようが宙を彷徨おうが、其処に間違いなく「言葉」があるという事実なのであり、私にすら容易に想像できてしまうイラン女性の社会的立場、状況を考え合わせてみれば、彼女等は其処が自動車の中であるからこそ重い口を開いてみせたと理解することができるわけで、つまり、自動車が「対話を強迫する装置」であるということにこそ意味があると、そして、終始ハンドルを握る運転席の女性が仮に上の空であったにしても、しかし、此処に於ける真の聞き役とでも言うべき、追突事故を恐れる必要など何処にもない我々は決して上の空であったりはしないわけで、それらの言葉が意味を失することもまた決してないのです。その意味に於いて、その手法が「ドキュメンタリー的」であるということとはまるで関係なく、この映画にはある種の「リアリスム」が徹底されているとも言えるのかも知れません。否、そもそも「演出」の不在と無表情な固定カメラが何であれ現実的な効果をもたらすと考える方が間違っているわけで、その「疑似ドキュメンタリー的」な隠し撮り(風)の明らかな嘘は、演技慣れしない助手席の少年が何度かその禁を犯してしまうことから図らずも露呈してしまう事実、その狭い自動車の中に彼らが決して視線を送ってはならない場所があるというそれ、其処に間違いなくありながらも、誰もその存在を認めてはならない、しかし、むしろそれ故にこそその存在が明らかとなってもしまう抑圧の装置(の存在)を以て、「現実」は遥かに遠くなってしまうのです。ともあれ、此処に発見し得るそれ以外の幾つかのこと、自動車を巡る物語は其処に誰かが乗り込みそれが動き出すことによって始まり、そして、それが停止して誰かがいなくなることによって終わるとか、現実の夜が如何に暗くて大抵の「映画」は間違いなく嘘をついているとか、あるいは、終わりから2番目のシークエンス(第2話)の後半部分がそうであるやうな、ひたすらに動いていることにのみ意味を見出し得ると思われていた自動車が、しかし、ただ「止まっている」というそれだけでまた新しい意味、効果を獲得し得るという事実等々、此処に差し出された自動車を巡る「固定された状況」は、むしろその不自由さの故に、その(既に発見されているのであろう)可能性、自動車が「映画」を魅力的ならしめる装置である所以を再認識させてくれるものなのではないかと。

 公開初日の土曜日の午後、そもそもが小さい箱は半分強と言ったところでしょうか、それを巡る言説には事欠かないわりに、斯様な状況が直截に示してもいるように、実際には案外不人気なのかも知れないのがキアロスタミの映画のようです。あるいは一頃の「ブーム」も既に過ぎ去ったということでしょうか。一番前の真中の席で観ていた私の右側、幾つか間を置いて座っていた男性が始まって早々にも寝息を立てていました。やはり、第1番のシークエンスに於けるアレが相当に堪えたということでしょうか、確かに、同様のことを自動車以外の場所でやられてしまうと私とて余り自信がなかったりもします。とは言え、「自動車だから退屈しない」というそれは、多分「映画好き」の多くに共有された事実に違いありませんから、やはりキアロスタミは正しく且つ狡猾であると、そんなことを思ったりもしました。


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