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ベアーズ・キス
監督:セルゲイ・ボドロフ
2003年8月3日(シネセゾン渋谷)

 仰ぎ見る孤独



 例えばこんなところ。冒頭のシベリアの森のシークエンスで1頭の熊がハンターに撃たれて絶命するのですが、仰向けに倒れる熊を捉えたショットに続くのは木々の隙間に覗く薄曇りの空を真直ぐに捉えたショット、つまり、その熊が最期に見たこの世の景色が捉えられているわけです。場面が転換してロシアのシークエンス、物語的には其処で主人公のレベッカ・リリエベリがシベリアで撃たれたその熊の遺児と思しき子熊と出会うことになるのですが、それよりも少し前の川を下る小舟でそのマーケットへ向かうレベッカ・リリエベリとその家族を映した場面、小舟が通り抜けようとする小さな橋とその向こう側にある空、そして、それに前後するレベッカ・リリエベリのショット、彼女もやはり空を見ているのです。この絶望的に孤独な人達を描いた物語に於いて、その「孤独」は如何に表象されているのか、あるいは、此処に於ける「孤独」とはどのような状態を指摘するものなのか、引用した一連のシークエンスが教えるのは、つまり、こんなことではないでしょうか、孤独な人達は空をのみ共有し得る、と。文字通りの天涯孤独、むしろ不満の方が多いこの映画がそれでも私を魅了する所以です。

 やはり冒頭のシークエンス。熊を追い掛けるハンターを先導する数匹の犬、其処ではその駆ける様がスローモーションで捉えられています。そのショットに何となく違和感を覚えたのは、私がそもそも「スローモーション嫌い」だからというだけではなくて、それがフィルムが回り始めて早々の場面に、しかも、「不在の視線」を以て為されていたからです。私がスローモーションを余り好まないのは、大抵の場合、それが「映画的時間」を無駄に引き延ばすことにのみ奉仕していると思うからで、ハワード・ホークスの「私ならあと5人殺している」という発言もやはり同じことを指摘しているに違いありません。それでも、例えば、ペキンパーのそれがそうであるような心象を外在化するかのようなスローモーションや、其処にいる誰かの視線を借りた、やはりその人間の心象が切り取られているそれら、即ち「感情表現」の一種としてのスローモーションは、(ジョン・ウーのように)過剰にさえならなければ、そんなに悪くもないと思うのですが(『マトリックス』の超人的動体視力を相対化したそれにはまた別の意味で好感を持っています)、しかし、此処にあるのは、決して誰の心象が切り取られたわけでもないそれであり、敢えて言うならば、映画それ自体が或る一つの感情を持って、そのフィルターを介して観客に状況を差し出していると、そんな挙動には押し付けがましさ、煩わしさすら感じてしまいます。同様のスローモーションはサーカスの空中ブランコを捉えたショットにもまた現われます。それがもし息を飲んでそれを見つめる(サーカスの)観客の視線を代行するものであるのならば、明らかに「間違って」いるとも言えるのですが、ほぼ真下から見上げるそれはやはり「駆ける犬」のそれと同じく不在の視線、我々の視線と感情を強迫するものでしかありません。勿論、それが「ドラマチック」な効果をもたらすと感じる人もいるのかも知れませんから(映画文法的には多分そういうことなのでしょう)一概に否定はしませんが、しかし、少なくとも私にとってはひたすらに煩わしいものでしかありません。

 例えばこんなところ。ドイツのシークエンスで既に成長した先の子熊が始めて人間に姿を変えることになるのですが、まさにその出会いの場面、夜中に何ものかの気配を感じてベッドでふと目を覚ますレベッカ・リリエベリのその大人びて美しい表情には目を見張るものがあります。それはそれまでのどの場面にも決して見出すことができなかった魅力的な表情で、その変化は勿論、彼女が可愛がっていたその熊が彼女の前に人間として初めて現われるという直後の事件に呼応するものであり、それはまた彼女が初めて体験することになるのであろうある種の感情を大いに予感させるものでもあります。無粋を承知で言えば、その場面はつまり、それまではすることのなかった化粧を、彼女は何故か寝ている間もしていたというそれだけの「演出」に過ぎないのですが、しかし、不意に大人びて見えた彼女のその表情は、次に起こるべき事態をすら容易に想像させる、彼女に予感されたのと丁度同じものを観客にもまた予感させるという意味で優れていると言えますし、否、それよりも何よりも、見てはならないものを見てしまったかのような驚きを以て観客の感情を不意に刳るそれは、ただそれだけで圧倒的に美しいと素直に認めるべきなのかも知れません。続くスペインのシークエンス、見世物として熊とダンスを踊るレベッカ・リリエベリの満ち足りた表情、あるいは人間としての彼を相手に(スペイン風に)情熱的なダンスを踊って見せるその肢体、ただ、其処に顕れる表情や仕草が、少女が初めて体験する恋愛のそれ、あるいは空以外の何かを共有し得ているという幸福なそれが表明されたものであるにせよ、其処に於ける彼女は「ハリウッド的」に明るく目を輝かせたりは決してしないわけで、眼差しはあくまでも暗く、その輝きは刺すような冷たさを決して失うことはありません。絶望的に暗く冷たい、しかし、紛れもない幸福をも発見し得るそのレベッカ・リリエベリの眼差しを前にしては、例えば、『レオン』のナタリー・ポートマンなど、ひたすらに商業主義のコードに埋没した醜怪な何ものかに忽ち堕してしまうのです。

 熊が人間に変身すると言っても、別に今どき流行のCG処理が為されているわけでもなくて、例えば、レベッカ・リリエベリに近づいていく熊のショットがあって、それに気が付く彼女のクロースアップを挟んで、その次のショットではもう人間に変わっているという、全編を通して大凡そんな感じ、カラクリは至って単純です。それが現実感を欠いた何処か滑稽なものに見えてしまう人、CG等の特殊撮影を駆使してその変身の様子をつぶさに見せることが現実主義の要請だと考える人は、性行為のすべてを見せる、現実には単なるポルノグラフィーに堕しているに過ぎないそれをして現実主義的だと納得してみせる人に同じ、現実と比べて圧倒的に何かが「足りない」のが映画であるという事実をただ知らないだけなのです。

 上の方でも少し触れた通り、この映画のサーカスの場面は残念ながら余り美しくはありません。サーカスや大道芸人を扱った映画が観る者の心を躍らせるのは、サーカスの舞台のみならず、舞台袖や夜を過ごす野営の場面に於いてすら、彼らは決して手を休めることなくその芸に勤しみ、カメラもやはりその姿を(物語的な)風景の一つとしてそれを捉えるから、その例に漏れないこの映画は故に、それにも関わらず、その魅力を損なうことは決してないのです。彼らが(映画館の観客以外)誰一人としてそれを見ていないにも関わらず、しかし、憑かれたようにひたすら芸に勤しむのは、彼らがそれを以てしか世俗との関わりを持ち得ない、其処に持続された芸は、レベッカ・リリエベリの暗い眼差しに体現され彼らすべてにもまたあり得る孤独を、ひたすらに遠ざけるための彼らなりの意匠と言えるのかも知れません。空をのみ共有し得る絶望的孤独、金網を突き破って荒野を疾走する赤いトレーラーの行き着く果て、私のような世俗に埋没した人間にはまるで「ハッピーエンド」に見えないそれは、唯々物悲しくあるばかりです。

 公開二日目の日曜日の午後、ガラガラでした。世紀が明けて久しい今どきは「ロシアの熊」でもないのでしょうか、現実は映画以上にも厳しいようです。尚、本文で絶賛していいる(この文章はそのためだけにあると言っても間違いではないのですが)レベッカ・リリエベリはこの映画の撮影当時で19歳か20歳、とてもそうは見えないのですが、それどころか、それから2年が過ぎた現在は既に「一児の母」なのだとか(結婚しているのかどうかは不明)、現実は映画以上にも厳しいようです。


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