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労働者たち、農民たち
監督:ストローブ=ユイレ
2003年8月9日(アテネ・フランセ)

 逞しき体躯、あるいは物語映画



 戦後間もないイタリアの寒村に訪れた冬。冬の間は仕事をしない農民達とそれを快く思わない労働者達の間に生じる小さな軋轢、しかし、貴重な牝山羊を殺してそれを食糧にすることを考えなくてはならないくらい農民達の暮らしは貧しく、労働者達もまた過酷な労働に追われる日々だった。そんな貧しい冬の村を逃げ出そうとする人達は後を絶たず、一人、また一人と、しかし、大半は行き場を失いまた村に戻ってくる、衰弱した彼らを看護し食糧を与える農民達と、彼らを「離脱者」と呼び決して許そうとしない労働者達の間にはさらなる軋轢が。そんなある日、戦前は医学生で、衰弱して村に戻ってきた労働者達の面倒を見ているトーマと農民達が、彼らの間で「不細工」と呼ばれている、皆からの信頼が最も篤い労働者の家で関係修復のための話し合いを持つ。しかし、其処で「不細工」は同棲する恋人シラクーサを巡って普段から女グセの悪いトーマに平手打ちを喰らわせてしまう。女性を巡って揉事を繰り返すトーマ、戦争中ファシストだった「不細工」を変えていったシラクーサ、そして、2月が訪れたある日の村に一人の男が帰ってくる。その夏、二輪荷車とその荷台に乗せた2頭の牡騾馬と共に行方知れずとなっていた「イバラ」である。彼が「持ち逃げ」をしたと疑わなかった労働者達は戻ってきた「イバラ」に容赦ない制裁を加える、中でも嘗て彼と共に旅を続けていた村長の「口笛」は裏切られたという強い思いから殺さんばかりの勢いで彼を痛め付けるのだが…。

 上記がつまりこの映画の物語(粗筋)です。私にしては珍しく「親切心」を発揮してみせたりするのには、勿論、特別な意味があるわけで、簡単に言えば、それ以外の映画、所謂「普通の映画」なら当たり前のように上記のようなことを書いてみせる(親切な)人が多くいるにも関わらず、しかし、この映画で同様の親切心を発揮するような人などおそらく殆どいないであろうと考えたから、誰も書かないことを書くというのは、それが何であれ、それなりに意味があるわけで、この場合など、この映画の「物語」を記しているのですから、それが無意味であるはずなどあり得ないのです。では、この映画の物語は何故書かれないのか、否、その前に、何であれ映画を論じようという欲求に駆られる人の多くが何故何をおいても先ずその物語に言及するのか、それは多分、それを「読む」ことが「映画を観る」という動作に於いて最も重要なことの一つであると考えられているからで、勿論、何一つも間違ってはいません。しかし、物語を「読む」とは言っても、スクリーンに予め然るべき言語が羅列されているわけでもないというのは誰しもが知っていること、つまり、この場合の「読む」はあくまでも比喩的な表現に過ぎなくて、実際には「視て」いるわけで、ならば、「読む」より前に「視た」ものに付いてこそ言及すべき、映画を論じる場合の考え方の一つです。その考え方が「正しい」かどうかはともかくとして、その当たり前のことが実際どれほども為されていないのは、これは無理からぬ話、視たもの(シニフィアン)と読むもの(シニフィエ)の関係が、大抵の場合、予め強固である故、「泣いている演技」を視て(其処に何らの意識が介在する間もなく)「泣いていること」を読むのは極く当たり前なことで、映画であれ舞台演劇であれ、主に人間の身体運動、身振りによって何らかが表現される媒体とはそういうもの、それらを分けて考える、「泣いている演技」を「泣いていること」という意味内容とまるで結びつけずに、それ自体、あるいはそれ以前の何かとして何らか考を巡らす方がむしろ「間違っている」と言えるのかも知れません。ともあれ、映画が論じられる場面に於いて、当たり前のようにその物語が「書かれる」のは、つまり、そういうこと、読まれる(書かれる)べきものとして予め其処に在る(に等しい)からなのです。

 では、この映画の物語は何故「書かれない」のか、実際、私が上の方に不正確ながら書いているわけですから、それが「無い」からではないでしょう。要するに、此処に間違いなく「在る」それは、シニフィアン、つまり、其処に「視る」ことのできる、例えば、人間の身体運動や身振りに、少なくとも我々が日常生活から得る経験則に拠る理解の範囲内では、まるで従属していないわけで、故に、既に十分慣れ親しんだ仕方では「読む」ことなど到底能わず、「書く」こともまた、この映画が厄介なのは、それでもやはり物語が其処に「在る」からに他なりません。然るべき身体運動、俳優の演技によって表象されるわけでもないそれは、ならば、どのようなカタチで其処に在り、我々に差し出されているのか、それはこの映画を観た誰しもが実は既に諒解していること、つまり、スクリーン上の人物群が朗読もしくは暗誦(実際には「カンペ」を読んでいるのだと思いますが)するその「言葉」の中に、彼らによって語られるそれら言語の総体、もしくは(私がそうしたような)相応しく間引きされたそれがつまりこの映画の物語なのです。上の方で一般的な映画のあり様をして「スクリーンに予め然るべき言語が羅列されているわけでもない」と書いたのですが、この映画の場合は、しかし、まさにその通り、然るべき言語が予め羅列されてしまっているわけで、それらを「聴く」こと(イタリア語の素養のない人間は残念ながらそれらを「読む」ことになるのですが)が同時に(この映画の)物語を「読む」ことになる、彼らは他でもない物語小説を朗読(暗誦)しているのですから、当たり前と言えば当たり前の話です。何れにせよ、それはスクリーン上に目撃されるシニフィアンには差し当たり従属していないものの、しかし、其処に立つ人物群によって発せられた言語に内在し我々に確実に伝達されている、故に、それを「書く」こともまたできると。

 さて、問題は此処にもう一つの「物語」が存在してしまっているという事実です。例えば、誰かがこの映画を評して「ある谷間で複数の男女がしかつめらしくカクカクという内容の本を朗読もしくは暗誦しているだけの映画」と言ったとして、そのままでは幾分不正確だとは言え、しかし、それもやはりこの映画の「物語」を指摘していることに間違いはないのです。それはつまり、従来の演劇的な「制度」に則って此処に在るものを「読ん」だ結果として現われた物語であり、その意味に於いて、やはり、何が間違っているわけでもないのです。しかし、それだけがこの映画なら、これはひたすらに欠伸を発生させるためだけにあるかのような退屈極まりない映画であり、否、実際退屈に感じた人は、程度の差こそあれ、あるいはそのようにのみ「読ん」だのかも知れません。ならば、一体どのようにこの映画を「読め」ば退屈しない、123分もの間欠伸一つせずにこれと付き合うことができるのか、「そんなことが私に分ったりするはずもない」というのが正直なところですが、しかし、少なくとも「退屈」だけはしなかった立場として指摘できることが一つだけあるとすれば、それは、此処に於けるシニフィエとシニフィアンは決して分裂などしていないということ、つまり、ひたすらに朗読され暗誦されるに止まる言語によって発見される「物語」と「谷間で朗読する身振り」あるいは「谷の自然」は然るべき関係を構築し、質量を伴う一個のカタマリ、即ち「映画」として其処に在るということ、それは疑いようのない事実です。

 其処に「関係」が成立しているのなら「制度」もまた、従来のそれとはまた別の、差し当たり我々には馴染の薄い「制度」が其処に横たわっているのか、「此処にはそんなものなど無い!」と軽く言い抛ってしまえる「度胸」が私にないのが甚だしくも口惜しいのですが、差し当たり私が発見し得た限りのことで言えば、此処に於ける「関係」とは、例えば、スクリーンに「5:5」の、既にある何かに慣れ過ぎている人間には如何にも不自然に見えてしまう構図によって捉えられるビリオッティ未亡人のバストショットとその残余としての風景、其処から人物を排除する、あるいは或る程度カメラを引いて人物を捉えれば圧倒的に美しいその谷の風景も、カメラがクロースアップで人物を捉えようとすると忽ち其処に辛うじて色彩のみを残す何かに堕してしまう、しかしその反面、人物の顔は深く刻まれたその皺の1本1本までもが鮮明に捉えられることになる、あるいは、其処に聞こえる美し自然の声、鳥のさえずりや川のせせらぎに耳を傾ければ、一方で間断なく発せられている「言語=物語」は必然として遠くなり、逆に、ひたすら「言語=物語」をのみ追い掛けていると、其処に自然の声のあることにすら気が付かない、序でに言えば、字幕にばかり集中していると肝心の映像が遠くなり、建物の外で荒れ狂う颱風の音に気を取られていると、映画そのものが遠くなってしまう、等々、つまり、然るべき「制度」によってその主従が発かれるそれではなく、漫然と共存しつつもしかし或る視点に於いては激しく鬩ぎ合いもする、あるいは人間と自然のそれに似ているのかも知れない「関係」とでも言うべきか、何れにせよ、此処に目撃し得るのは、あらゆる「制度」を排除したところで、しかし、相変わらず其処に在り続ける「映画」という逞しき体躯であり、そして、紛れもない1本の「物語映画」なのです。

 公開(という表現には何となく違和感を覚えますが)から既に何週か経った土曜日の午後、西の方に上陸した颱風の影響もあってか、アテネフランセに駆け付けたのは僅かに十人強、悪天候を考えればそれでも集まった方なのかも知れません。アテネフラセで映画を観たのは随分と久しぶり、一番最後に観たのもやはりストローブ=ユイレの映画、『シチリア!』でした。激しい風と横殴りの雨の中、アテネフランセに辿り着くまでに既に体力を使い果たしてしまったのか、始まって早々にもぐるんぐるんと頭を揺らしている人が数名、そんな日にわざわざ駆け付けたわりにそのザマでは、他人事ながら何となく「勿体ない」という気にもなってしまうのですが、しかし、それが「眠りを誘う映画」であると分かっただけでも、そもそも其処に来なかった人よりは余程得るものがあったのではないかと、否、知りませんが。


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