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さよなら、クロ
監督:松岡錠司
2003年8月10日(シネマミラノ)

 視られるものとして



 乱暴にパンした手持ちカメラが地を這うような低い視線を維持したまま駆け足で前進する、誰しもがそれを「犬の主観ショットに違いない」と確信した刹那、しかし、その確信は見事に裏切られることになります。スクリーンの端から現われた仔犬はその「地を這う視線」を軽快に追い越し、その視線を従えながら険しい山道の奥にある古びた一軒家に辿り着く、それがこの映画のオープニングです。この一連のショットが何となく不可解なのは、その視線の主体が不明であることに加え、同様の視線ショットが以降2度と現われないことに、私の記憶に間違いがなければ、この場面以外、手持ちカメラが使用されることすらありませんでした。

 その昔、ハイセイコーという非常に人気のあった競走馬を父に持つカツラノハイセイコという競走馬がいて、順調に勝ち進んだその馬は晴れて「日本ダービー」に出走することに、ハイセイコーが嘗てその同じレースで3着に敗れたこともあって、マスコミは「父の無念を晴らせ!」と連日騒ぎ立てたようです。そのマスコミの莫迦騒ぎに当時異を唱えたのが彼の寺山修司、曰く「馬に父の無念など分かるはずもない。そもそも誰が父親であるかすら知らないはずだ」と。今さらそんな指摘をしてみせるのが滑稽に思われてしまうくらい当たり前の指摘に過ぎないのですが、彼にしてみれば、物言わぬ競走馬に人間が勝手な「物語」を押し付けて悦に入っているのが余程我慢ならなかったのでしょう。案外誤解されているのは、寺山その人こそが「父の無念を晴らせ!」といった類の言説に象徴される、言わば「馬の擬人化」を推進した張本人ではないかというそれ、確かに、彼は競走馬を巡る多くの物語(9割方フィクションであるというのが「定説」です)を残しているのですが、しかし、馬を擬人化するような文章を書いたことなど一度もなくて、それどころか「馬の物語」すら実際には殆ど書いていません。彼が書いたのはあくまでも競走馬を巡る「人間の物語」であり、敢えて言うならば、彼が為したのはむしろ人間の「擬馬化」とでも呼ぶべきこと、それは「競馬は人生の比喩ではない、人生が競馬の比喩である」という彼の残した有名な言葉にも通底する思想と言えるのでしょう。何れにせよ、「父の無念を晴らせ!」といった言説が捏造する「馬の物語」とは等しく馬に押し付けられた(人間の)願望の物語なのであり、その限りに於いては、馬はあくまでも人間に従属した、人間と同程度に卑俗な存在でしかあり得ないのです。詩人の苛立ちも分かります。

 上の「余談」はつまり、この映画が「犬の映画」ではなく「人間の映画」、あくまでも犬を巡る「人間の物語」であることを先ず以て指摘したいがためのものです。例えば、妻夫木聡がクロに語りかける場面、人間同士の会話の場合と同様にカメラは両者の姿を交互に「切り返す」のですが、しかし、クロを真正面から捉えるショット(つまり妻夫木聡の視線ショット)はあっても、その逆の、妻夫木聡を真正面から捉えるショットは決してなく、其処に徹底される「角度」は、それがあくまでも映画的な「不在の視線」であることを常に意識させることになります。戸口の物音(クロが爪を立てる音)に気付いて引戸を開ける井川比佐志が一旦真直ぐ前を見てから視線を落とすという幾分わざとらしくもある「演出」にしてもそう、此処に於ける犬はあくまでも「犬」として、人間の視線に捉えられる存在ではあっても、決してその視線を以て人間を捉える存在では、莫迦げた「想像」によって「人間並」に堕することもまたないのです。物語的にもやはり同様で、クロはそもそも食べ物を恵んでくれた人間の後に付いて行っただけ、彼女(雌犬です)がコミュニティの一員として受容されいく過程が非常に丁寧に描かれているのも、言うなれば、彼女があくまでも「視られる」だけの存在である必然、此処には「相互理解」の幻想など微塵もないのです。確かに、彼女が先ず以て権力者(校長)に取り入ることによってその立場を確立するのなど悪しき「擬人化」が為されているようにも見えてしまうわけで、あるいは当初「犬に話しかけても無駄だ」と冷たく言い放っていたはずの井川比佐志が最後にはその亡骸に切々と語りかけたりしてしまうのは、他でもない「物語化」の誘惑に抗し切れていない証左のようでもあるのですが、しかし、そのくらいは物語を成立させるための便宜として目をつむるべき、別に何を「押し付けて」いるわけでもないのですし、否、そもそも「人間の物語」として何一つも間違ってはいないのけですから。

 此処に於ける1匹の犬を巡る、あるいはクロをその「風景」の一つとして据えた「人間の物語」は、専ら若い男女の「三角関係」を巡って展開することになります。妻夫木聡の帰りを伊藤歩が暗くなった校舎で独り待ち受けるシークエンスが我々に教えるその三角関係の隠されたアンバランス、『俺たちに明日はない』を上映する映画館の前で捉えられる新井浩文と伊藤歩の長い「2ショット」とその後に訪れる映画的不在、そして、それに続く省略に省略を重ねたその「不在」に関わる繊細なシークエンス、あるいは、唐突に訪れる「十年後」と引き続き其処に横たわる「不在」の影、等々、確かに、物語的にはもはや使い古された感もある、何一つの「新しさ」すら発見し得ないものであるに過ぎないにしても、しかし、執拗に反復され差し出されるそれは相変わらず我々を惹きつけて止まないわけで、そもそも、その「在り来たりな物語」はそれ自体として漫然と其処に在ったのではなく、あくまでも我々によって「発見」されたもの、暗闇に潜む視線が追い掛けていたのは、決して「在り来たりな何か」などではなかったはずなのです。

 葬儀の場面。渡辺美佐子によって読み上げられる些か扇情的な「弔辞」が観客の涙を誘うことはあっても、しかし、例えば、涙を流す生徒の顔が次々にクロースアップで捉えられたり、あるいは、カメラが反転して祭壇やクロの「遺影」を捉えたりは決して、観る者の感情を不必要に逆立てることのないその「抑制」は、この映画が安易は「お涙頂戴」であることを巧みに回避することに貢献してもいます。確かに、人気のない廊下の真中に呆然と立ち尽くす塩見三省を捉えた幾分長めのロングショットが、それが後頭部であるとは言え、切り替わりと同時に余りにも近くに寄り過ぎてしまうその挙動に一つの「敗北」を認めざるを得ないような気もするのですが、しかし、それもやはり、そもそもこれは私のような捻くれた大人のためにだけある映画でもないのですから。それはさておき、その葬儀の場面が何となく不思議な感じでもあるのは、それを終始捉えている視線、祭壇から生徒達を見下ろすかのようなそれがその主体の存在を大いに予感させているからに他なりません。その視線の主体とは勿論、カメラが祭壇下からの視線を決して許さない故に、其処にどのような「カタチ」であるのかすら知れないクロのこと、肝要なのはこの視線もまた一方通行であるということです。此処で思い出すべきは、冒頭で引用したこの映画冒頭の一連のショット、あれはやはり「クロの主観ショット」だったのかも知れません。しかしそれは、仔犬がカメラを追い越す、それが我々の目に触れることになるまでのほんの短い時間に限られたものです。それが我々、つまり人間によって「視られる存在」となった瞬間からクロは我々にその視線を明け渡し、言うなれば、甘んじて「視られる(だけの)存在」に堕したのです。クロがその視線を再び取り戻すのは、彼女がその死によって「視られる存在」であることを止めたとき、決して「視られる」ことのない祭壇からのショットがつまりはそれなのですが、そう考えてみると、冒頭のそれ、仔犬がカメラを追い越す映画的な出会いは紛れもない「誕生」の暗喩であり、此処にあるのは、つまり、一つの生命がその「本来」とはまた別にただひたすらに「視られる(だけの)存在」であったときの物語、それは、例えば「この映画では一匹の動物も殺していません」と高らかに宣言する類の「偽善」とはまるで無関係な、一つの生命、人間によってひたすら「視られる」ためだけに生を受けているかのような近しい存在に対する、極めて真摯な「解釈」であるともまた言えるのです。

 公開から既に何週か経っている日曜日の午後、この後はまた別の劇場に場所を映して上映が続くようですが、新宿ではこれが最後の週末、にも関わらず、ほぼ満席だったのには驚かされました。夏休みですし、子供が多いのかと予想していたのですが、実際に多かったのは「おばちゃん」でした。本文でも触れた通り、これは映画館を出て5分もすれば忘れてしまうような「安い感動」を強迫する類の映画ではありませんから、物語の終盤でも嗚咽が劇場に充満することもなく、比較的淡々と事が運んでいたようにも、中にはそれを期待してきてガッカリして帰った人もいたのかも知れませんが、とは言え、それぞれに得るものが多くあった映画だったのではないかと思います。


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