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エデンより彼方に
監督:トッド・ヘインズ
2003年8月17日(シネマライズ1)

 監獄の解体



 さて、如何にも「表層批評的」な言辞を弄してみれば、これは「クレーンがゆるやかに下降してゆるやかに上昇するまでの映画」と言うことになります。スクリーンに目撃されたものをそれなりに正しく指摘したその言辞が、しかし、些か間の抜けた同語反復でもあるのは、他でもない「クレーンがゆるやかに下降してゆるやかに上昇するまで」というそれが既に「映画」を指摘してしまっているから、別に「メタ映画」の話をしているわけでもないのですから、「映画の映画」は即ち「映画」、その言辞はつまり「これは映画である」という当たり前の指摘をしているに過ぎないのです。それでも多分、そのような言辞がそれなりに有効であり得るのは、これが現代、誰しもがそんな「制度」などもはや存在していないかのような顔で遣り過ごしてしまっている時代に撮られた映画であるから、それは単なる「映画」をわざわざ「映画的な映画」と言い直さなくてはならない所以でもあります。此処で言う「制度」とはつまり、映画がある一定の時間、其処に恰も現実に存在しているかのように振る舞ってみせる人物群の人生の或る断片を切り取ったに過ぎないものであるというそれ、クレーンがゆるやかに下降する、あるいは、俯瞰ショットから少しずつ対象に近接していくその挙動は「物語」の始まり、切り取られた人生の断片への「映画」の(控目な)侵入を我々に教えるものでもあります。カメラ、あるいは映画は誰かの人生の前に静かに降り立って、差し当たり訪れたその要の消滅(物語的問題の解決)と同時にその場から静かに離れていく、其処に切り取られた断片が即ち「物語」であると、そのような「映画」の挙動は、しかし、一見して非常に優しいものであるようにも思われるのですが、必ずしもそうとばかりは言えません。それがむしろ無責任極まりないものであるとさえ言い得てしまうのは、それがひたすらに傍観者であることを止めず、其処から明示的に立ち去ってしまうことを以て、その断片の後にも先にも、何一つの責任を負うつもりのないことを宣言しているにも等しいから、恰もその人間の一生に責任を負っているかのような身振りだけは欠かさない「脱=制度」的な映画の方が、むしろ余程「優しい」と言えるのかも知れません。此処に於ける傍観者的な(控目にして冷徹な)身振りは、例えば、カメラが其処にいる人物の視線に成り代わろうとなど決してしないことにもまた顕れており、クロースアップで捉えられることすらない男女の「切り返し」は、終始肩越しか背中越し、最後の最後、クライマックスの場面まで大事に「取り置き」され満を持して導入されるクロースアップにしても、対象の眼差しが其処に「居る」はずのカメラを見つめることなど勿論なくて、僅かに逸らされたそれはあくまでも愛する女(男)をのみ其処に捉える、それは文字通り「透明な存在」として誰かの人生を覗き見るに止まる「映画」の正しいあり様を(今さらながらに)教えるものでもあるのです。

 ともすれば「わざとらしく」も感じられてしまうその挙動が、しかし、相変わらず「正しい」と断言できてしまうのは、如何に映画のあり様が変化しようとも、その「制度」自体が消滅したりは決してしないから、残念ながら、既に世紀を跨いでしまった現在も、映画は相変わらず誰かの人生の断片を或る特定の時間的、空間的フレームの中にひたすらに切り取ってみせるくらいしか能がないのです。従って、クレーンの上下運動がその始まりと終わりを明示するでもなく、あるいは誰かの視線ですらあり得てしまう映画が差し当たり成し得ているのは、その「制度」の遥かな忘却、嘘を嘘で塗り固めてみせる往生際の悪さでしかないのです。尤も、此処で肝要なのは、その「脱=制度」的な映画の傾向が世の中の流れにもまた呼応しているということ、世の中の流れとは、つまり、決して偶然ではなくこの物語の中に多く目撃される、同性愛者が一先ず精神科医のドアを叩いてみなくてはならないような、有産階級の良識の眼差しが脱落者を包囲するような「監獄」をひたすらに解体しようとするそれ、同性愛者もジェンダーも有色人種もベルリンの壁も、差し当たり「監獄」を構築して其処に抛り込んでおけば然るべき秩序が維持されるであろうと妄想したのが「近代」なら、反省的視座に立ってその解体を試みた(試みる)のが現在にも繋がるのであろう「それ以降」、巧妙に制度化された監獄、「映画」もやはり例外ではなかったのです。映画の「監獄」が現実の比ではなかったのは知れたこと、蓮實重彦も指摘しているように、当時を正しく模倣するなら寝室のそれは「ツイン」でなくてはならない等々、確かに、世の中の流れに同調してその抑圧からの解放を何よりも望むのも道理なのかも知れません。僅かならも「監獄」が解体されつつあるこの世の中が、しかし、単にまた別の「監獄」を生み出しているに過ぎないのか、あるいは、迂闊に顕在化してしまうことなど到底ないのであろう「制度」の呪縛を、とは言え、決して逃れ得るものではないのか、と、否、そんな「世の中」に関する話はさて措くとしても、此処で積極的に語られるべき「映画」がしかし、相変わらず然るべき「制度」の呪縛を決して免れ得てなどいないことだけは確か、性が解放され暴力が解放され恥ずべき社会の暗部が曝されようとも、それが其処にむざむざと切り取られた一個の断片に過ぎなくて、時間的空間的「現実性」をまるで欠いた、現実と比べて圧倒的に何かが足りない「虚構」であることを止めたりは決してしないのです。映画に於ける「監獄」の解体とは、例えば、嘗てゴダールがやってみせたような、グルグルと輪転するクレーンを指して「これが映画なの?」と疑問符を突き付けてもみるその程度の、精々「制度」をまた別のカタチで顕在化してみせるに止まる無邪気な試みでしかないのです。

 例えば、此処に多用されるディゾルブ、それは如何にも「映画的」な意匠であり、上の話で言うならば「監獄の壁」のようなものともまた言えるのかも知れません。クレーンやドリーの余りにも(余りにも)滑らな運動や、あくまでも「透明な存在」であることに徹するカメラにしてもそう、デニス・クエイドが(「ツイン」ではないにせよ)他でもない夫婦の寝室で「これはプライベートな問題だ!」と怒鳴ってみせるときに生じてもしまうおそらくは意図的なのであろう「亀裂」は稀にあるにせよ、しかし、やはり上の話で言えば、此処にあるのはほぼ完璧な「監獄」なのです。誰しもが「監獄」を忌み嫌うのは、其処に自由がなく、ひたすらに真実を覆い隠すための場所であると信じる故、しかし、余りにも酷い喩えであることは予め容赦してもらうとして、「監獄」の存在は、其処に間違いなく男性がいて女性がいて白人がいて黒人がいて健常者がいて異常者がいて自由経済主義者がいて共産主義者がいる、しかも、そのそれぞれの間に少なからずの軋轢が存在しているという事実を分かり易く教えてくれる、即ち其処に横たわる「制度」を(ある程度)顕在化してくれるものであるともまた言えるわけで(「監獄」が排除されつつある現在、差別が潜在化しているに過ぎないという話はやはり措くとして)、話を戻せば、映画の「監獄」とは、つまり、それがあくまでも現実とは別の、事によってはそれを模倣するのですらない「虚構」であるという事実を正しく教えるものであり、従って、その解体への意志とは、予め現実ではないそれを差し当たり「より現実らしく」装ってみせるに過ぎない虚しい試みに同じなのです。勿論、それを「虚しい」などと言い切ってしまうのが些か無責任でもあるのは、世の中の誰しもが自身が「監獄」の中にいることにすら気が付いていなかった時代が既に遠くなりつつあるように、もはや誰の目にも明らかな、あるいは積極的に暴かれもした映画の「監獄」を今さら誰も許容したりはしないから、「嘘っぽい嘘」に甘んじて騙される人などいないのです。嘘はより巧妙になり「制度」は潜在化する、廃墟然とした「監獄」は看守の姿すら見えず鍵すらも掛かっていない、しかし、其処から脱走する(できる)ものなど誰一人としていない、それが「変化」を体験した「映画」の姿なのかも知れません。確かに、今さらその「監獄」、完璧に制御され其処に見事なまでに物語を閉じ込めていた、眼前に屹立するその様が美しくすらあったそれを賛美してみせるのなど単なる懐古趣味に過ぎず、そもそもそれが美しくも見えてしまうのは、おそらくはそれが既に失われてしまっているからこそ、とは言え、仮初の「自由」と引き換えに失ったものは、しかし、余りにも大きいような気がしてなりません。この映画の、あるいは「映画」の敗北は、其処に入子状に「監獄」を閉じ込めることでしかもはや「監獄」の成立があり得ないことを図らずも証明してしまったことに、ラカン派マルクス主義者の言う「他者」の視線、その成立を辛うじて支えもする「我々のために、我々の代わりに『映画を信じている』人々の視線」は、「監獄」を「監獄」に閉じ込めることでしかもはや生まれ得ないのです。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、東京ではこれが最後の週末となるようなので慌てて駆け付けました。それまでの週末がどうだったのかは知りませんが、最後の週末に相応しく客席はガラガラ、客席からいつ失笑が漏れるのかと身構えてもいたのですが、そのような不幸な事態に至ることはありませんでした。しかし、だからと言って、このような映画のあり様がまだまだ通用するというわけでもなさそうなのは本文にも書いた通り、あくまでも「そういうもの」として観られているのでしょう。勿論、私もやはり「そういうもの」として観ました。尚、余談ですが、久しぶりに行った「シネマライズ」のフロアからは「喫煙所」が排除されていました。それが世の流れというヤツですからそれ自体は別に構わないと思うのですが、「健康増進法」をその理由に掲げるのだけは止めてもらいたいところ、そもそも映画館など間違っても「健康的」な場所ではないのですから。


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