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ファム・ファタール
監督:ブライアン・デ・パルマ
2003年8月23日(新宿武蔵野館)

 運命は串団子状に



 ブライアン・デ・パルマの映画に言及するに際して今さらアルフレッド・ヒチコックの名前を出すのなど然して面白いことでもありませんし、もはや意味すらもないことのような気がしているのですが、それでも、誰しもが辟易しているのであろうところに敢えてその名前を出してみれば、この(例によってヒチコックを多く引いた)映画に於いて、ヒチコックとの関連で個人的にそれなりに面白いと感じたのは、やはり「人違い」に関するモチーフ、ヒチコックの幾つかの映画に於いて主人公を偶然襲う「人違い」が専ら「運の悪い」出来事であるのに対して、この映画ではむしろ「運の良い」出来事として、従って、交換された身体をひたすらに拒絶し、物語のすべてをその奪還に捧げるヒチコック的な主人公とは対照的に、この映画の主人公はその交換をむしろ積極的に受け容れ、変身を企てようとさえする、それは、例えば『間違えられた男』ではなく、むしろ『めまい』が(この映画を巡って)より多く言及される所以とも言えるのかも知れません。但し、ヒチコックの映画の中にこの映画に於けるレベッカ・ローミン=ステイモスのような、「人違い」を巡って「運の良い」立場を享受した人物がいなかったかと言えば、しかし、決してそうではなくて、それは『間違えられた男』ならその真犯人のような人物がそう、つまり、この映画は「人違い」を巡ってヒチコックのそれを丁度反転させた場所から語られた物語とも言えるのであり、その観点から言えば、此処に於いて真にヒチコック映画的な立場にある「運の悪い」人物は「リリー」ということになります。尤も、此処に於ける「リリー」はその失われた身体を求めてヒチコック映画的に奔走するどころか、「真犯人」にその身体をみすみす明け渡しすことにさえなってしまうわけなのですが、それでもしかし、これが「変身」の物語ではなく、あくまでも「交換」の物語であると言い得てしまうのは、その「運の良い」はずのレベッカ・ローミン=ステイモスが辿ることになる「運命」が、依然としてヒチコック的説話構造の呪縛を免れ得ていないからに他ならず、それは、此処に反転されているのがあくまでも物語を見据える「視点」に過ぎないことをしてみれば、道理でさえあるのです。故に、レベッカ・ローミン=ステイモスはその「交換」の拒絶を以てそれとは別の「運命」を模索することに、瓜二つの人物を二人其処に並べながらもしかし「交換」は回避するという、つまり、ヒチコック映画では先ずあり得ない選択肢を見出すことによってヒチコック的説話構造からも(序でにノワール的説話構造からも)鮮やかに逸脱してみせる、この映画のユニークさは其処にあるのではないかと。尤も、だからと言って、それがデ・パルマの訣別宣言であったりするはずもないのは、それ自体がやはり単なる「反転」に過ぎないから、彼は相変わらず「ヒチコキアン」なのでしょう。

 運良く柔らかいウレタンマットの上に落下したレベッカ・ローミン=ステイモスが近接するカメラに向かってパッと目を見開く、これは勿論彼女が「死んでいない」という状況を説明する(等々の)ためのショットなのですが、それに続くのはやはり運良く人違いされた彼女が或る屋敷の一室で目を覚ます場面、その場面は彼女が目を覚ますのと同時に始まる彼女の主観ショットによって切り取られています。そして、時間にして比較的長い彼女の視線を代行する(切れ目のない)そのショットが終わる(切れる)のは、或る「切り返し」によって、それは宙を彷徨う彼女の視線が辿り着いた1枚の写真、彼女に瓜二つの「リリー」と呼ばれている女性のスナップ写真からの「切り返し」なのです。恰も写真の中の女性が彼女を見つめ返しているかのような不思議な切り返しショット、物語的に非常に重要な意味を持つこの「リリーの家」のシークエンスには同様の「切り返し」が実は何度となく出てきます。ダイニングで偶々発見した「リリー」のパスポート、「リリー」によって殴り書きされ壁に貼り付けられた「遺書」、それらもやはりスナップ写真同様にレベッカ・ローミン=ステイモスを見つめ返します。此処に於いて肝要なのは、彼女を見つめ返す「物」がすべて「リリー」に関わる何かであり、スナップ写真やパスポート写真に発見されるのが他でもない「カメラを見つめ返す眼差」であることからも明らかなようにそれらが「リリーの視線」を代行するものであるということ、それはそのシークエンスに於いて、現実の「リリー」とレベッカの視線が交差することが一度もないという事実とも大いに関わりがあるはずです。また、スナップ写真やパスポートを捉えるレベッカのそれがあくまでも彼女の視線が代行された主観ショット、即ち「カメラの視線」に過ぎず、その逆もまた同様であることに思い当たれば、其処に交わさているのが現実的にはカメラとカメラのそれであることが知れもするわけで、「それが映画である」とは言い条、しかし余りにも空虚、それは空間の概念をすら危うくさせる「何も無さ」なのです。実体すら伴わない空虚な視線によって繋がれた綱渡りのようなシークエンス、映画的空間を縦横無尽に、如何にも「デ・パルマ的」にカメラがその自在な挙動を以て「特権的視線」であることを決して止めないなそれ以外のシークエンスと比べると、ウレタンマットの上に倒れたレベッカ・ローミン=ステイモスの眼差から引き継がれたそれは明らかに異質なものであると言えるでしょう。このシークエンスが「物語的に重要な意味を持つ」理由に付いては敢えて言及を避けるとして(実際にこの映画を観た人なら既に諒解済みのことですし)、その空虚な視線による綱渡りは、つまり、そのシークエンスの「物語的な意味」との関係を無視しては語れないものであり、その空虚さの故に其処に捉えられた何一つをも保証するものではないと、あるいはそんなところなのかも知れません。『スネーク・アイズ』の冒頭に配置された長い(主観ショット気味の)ワンショットが観客の視覚狭窄を促し、観客の視線から積極的に何かを「隠す」ことに貢献していたとするならば、この空虚なシークエンスはその空虚さを以て物語的事実を隠蔽する、「見せない」ことを以て「隠す」のではなく、確実なものを何一つも保証しないと予め宣言されているにも等しい映像(そもそもカメラが「神の視座」を抛棄する主観ショットにはそういう性質があります)を「見せる」ことによってより巧妙に(且つ「フェア」に)観客の視線から何かを遠ざけているわけです。それは確実な視線の交換が果たされ其処に現実的な空間が保証されもする「2度目」のそれと比較されることによってより明らかになることでもあります。序でに言えば、この映画に於いては監視カメラによって捉えられたモニター映像やカメラのファインダー越しの視線によって切り取られたもの(あるいは録音されたもの)が「より確実な何か」であるというのもまた象徴的なことと言えるのかも知れません。

 幾度となく正面から捉えられるアントニオ・バンデラスやレベッカ・ローミン=ステイモスの持つカメラのレンズ、美しい曲線を描く「蛇女」の衣装、エデュアルド・モントートが侵入し俯瞰から捉えられる通風口、拳銃のリボルバー、坂道を転がり落ちていくゴム鞠、(動かない)取調室の時計、水晶玉、トラックに吊るされたガラス玉、そしてモーリス・ラベル風のあの「ボレロ」等々、『マイノリティ・リポート』でもそうでしたが、此処に於いてもやはり「運命」は円形もしくは球形の物体によって安易に表象されてもしまう「閉じた円環運動」と信じられているのかも知れません。この物語がその「閉じた円環運動」からの逸脱を企てるものであることからすれば何となく矛盾しているようにも思われてしまうのですが、つまり、レベッカ・ローミン=ステイモスのあの2度の落下、空間を垂直に切り裂くそれが運命の無限循環をも貫いてしまうと、否、それならばむしろ彼女の身体そのもの、あの不必要にも縦に長く、髪が堅く撫で付けられたその「先端」が鋭くすらあるそれが既に何かを予感させているとでもした方が「収まりが良い」のかも知れません。既に運命を切り開いた後の、あの「女性的」に丸みを帯びた頭髪と呆気なく道端に腰を落とし柔らかな曲線を描いてみせさえする身体、円環運動を貫いた先にはまた別の円環運動が、差し当たり「運命」は「串団子状」にパラレルを実現しているとでも理解しておきましょうか。

 公開初日の土曜日の午後、客席はその半分が漸く埋まっていた程度でした。こういう状況を目撃するにつけ、今どきは一体何が「娯楽」として世間一般に受け容れられているのかと頭を悩ませてもしまいます。あるいは、今どきは「大衆娯楽」の観点から映画を考えること自体が既に間違っているのかも、ならば、単純に「面白い物語」が受け容れられるわけでもないということにも容易に理解が及びます。そう言えば、エンドクレジットが流れ始めて早々、カメラがまだ「結合写真」の中心からゆっくりと引いている最中にも席を立ってしまう人が大勢いたのですが、この場合は結果的に何もありませんでしたが、『スネーク・アイズ』などがまさにそうであったように、これが他でもないデ・パルマの映画であることをすれば、ゆっくりと引いていくカメラがその全景を捉えた瞬間に何かが「見える」かも知れないという予感にまるで駆られない人達というのは一体何なのかと、映画が「娯楽」であるのを止めたのではなく、映画に「娯楽」を見出す術が忘れられているに過ぎないと、そんなことを思いもしました、何となく。


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