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シェフと素顔と、おいしい時間
監督:ダニエル・トンプソン
2003年8月31日(ヴァージンシネマズ六本木ヒルズ)

 非凡な単純さ



 例えば、01年にアメリカで起きた「同時多発テロ」のあの映像、それを垂れ流した日本のメディアは口を揃えてこう言いました、「まるでハリウッド映画のようだ」と。その言説に於ける比喩としての「ハリウッド映画」とは、おそらく「現実にはとてもあり得そうもないこと、凡庸な人間の空想力の範囲を越えた事象を映像として差し出すもの」もしくは「現実に起こってはならないことを(最新鋭の技術を駆使して)恰も現実に起こっているかのように見せるもの」という意味が込められていたのではないかと思われます。肝要なのはそれが事象そのもの、テロリストが旅客機を乗っ取って巨大なビルに体当たりを敢行してしまったという事実に対して向けられたものではなくて、あくまでも偶然にもそれを捉えてしまった幾つかの映像に対して向けられたものであるということ、あるいは何のトリックもなしにそんな映像がこの世の中に存在してしまっているという事実に向けられた、ある種の倫理観に裏付けられた「畏れ」のようなものとも、それは、今どきならインターネットを介して苦もなく手に入れることができてしまうおよそ反=倫理的と見做されている幾つかの種類の映像(例えば、現実の殺人の現場を捉えた映像であるとか)に向けられる感情にもまた似ている、つまり「あんな悲惨(で且つ爽快)な映像など映画館以外の場所にあってはならない」と。ならば、あのような、其処で現実に多数の人間の死が起こっている映像など流さなければ良いだけの話だと思うのですが、しかし、メディアはそれどころか、それを執拗に反復しては、本当は「だから許される」とでも言葉を続けたいのか、阿房のように「まるでハリウッド映画のようだ」と繰り返していた、その数日後には「自主規制」の名の下に不自然な情報の欠落を体験することになるにせよ、それは誰しもが知っている事実です。

 さて、メディアの倫理道徳を巡る曖昧な批判は一先ず措くとして、その衝撃的な映像が二つの理由からそもそもまるで「ハリウッド映画のよう」ではないことを指摘しておきます。先ず、物語的なことで言えば、ハリウッドはあのような、善意の人達が全滅してしまうような物語は、それこそ倫理道徳の問題として、先ず作りません。仮にそのような状況を持ち込むにしてもそれを捉える仕方はもっと控目に、例えば、『ファイナル・デスティネーション』の旅客機は、恰も人間の死を曖昧に抽象化してみせるかのように、あくまでも観客の視点から遥かに遠い場所で爆発するに止まるのです。「ハリウッド的」ということで言えば、むしろペンタゴンを目指す途中で墜落した(ことになっている)旅客機の中で起こった(ことになっている)あの捏造された(と私が信じて疑わない)物語の方、最後までテロに屈することのなく勇気を奮って闘い抜いた善意のアメリカ国民、現実に最悪の事態を回避した(ことになっている)のですから、其処にはハリウッド映画にありがちな「勝利」すら用意されています。逆に言えば、その物語が如何にも胡散臭いのは、それが余りにも「ハリウッド映画のよう」であったから、その「ハリウッド的」な物語を受けて、実際「アフガン空爆」や「イラク戦争」という、やはり如何にも「ハリウッド的」にその「続編」まで制作されてしまったのは既に知るところ、客の入りが散々だったところまでハリウッド映画に似ています。ともあれ、ハリウッド映画にはあのような映像を要請する物語などそもそもあり得ない(故に映像もあり得ない)ということです。そして、指摘すべきもう一つの理由は、それを純粋に映像の観点から捉えた場合のそれ、素人や偶然其処に居合わせたテレビ局のクルーが撮影した「ビデオ映像」は、それ自体としては相当に「貧しい」もの、ブラッカイマーと組んだマイケル・ベイが撮ってしまったあの落下する焼夷弾の視点を借りたような、逆の意味でむしろ「貧しい」そんな映像こそが今どきなら「ハリウッド映画のよう」と呼ばれるべきなのであり、この場合なら、その衝突を以て断絶する迫り来る旅客機をビルの内部から捉えたショットのような、コックピットからビルの壁面を捉えた待ち受ける無数の窓が不気味に眼差を返すショットのような、あるいはそれらの切り返しが加速度を増し状況を圧迫するような…、ハリウッド映画を「現実にはありそうもないこと」の比喩として用いるのなら、その視座の非現実性を無視することなど到底できないのです。それでもしかし、その一連の映像が「ハリウッド映画のよう」に見えてしまうとするならば、問題はまた別のところに、否、それこそが一番の問題であると指摘できるのかも知れません。つまり、その貧しい映像の「反復」こそが、それを「ハリウッド映画のよう」に見せてしまったと、当初は与えられた情報の貧しさからその同じ映像を執拗に反復するより他に術がなくて、それだけでも既に「ハリウッド映画化」が促されていたと言うのに、程なくして情報と映像が幾分豊かになってくると、今度は複数見つかった映像群を巧妙にモンタージュ(あるいはトリミング)して「シークエンス」としてやはり執拗な反復を、其処に文字情報(テロップ)と俗悪な音楽が追加されたとき、その「非=ハリウッド的」に貧しかったはずの映像が遂には「ハリウッド映画(のようなもの)」に堕してしまったと、一連の「改竄」を行ったのはアルカイダでもウサマ・ビンラディンでも勿論なくて、それを垂れ流した日本のテレビ局、「まるでハリウッド映画のようだ」と無責任な言辞を繰り返していた張本人なのです。貧しい映像の意味のない反復によって効果を試すのがハリウッド、同じような映像、同じような物語の反復によってひたすらに現実を弛緩させるのがハリウッド、尤も、日本のテレビ局によるその改竄はおそらくは意図的なものでも何でもなくて、その意味に於いて何を責められるものでもないと言えるのですが、しかし、だからこそ、与えられた映像をそのように見せる、つまり、「ハリウッド映画のよう」に見せるのが当たり前であるかのよう予め思考回路に組み込まれてしまっていることが何よりも恐ろしいのであって、「まるでハリウッド映画のようだ」という言説がその無自覚にして無邪気な構造の中から生まれたものであるとするならば、これはもはやテレビに期待し得るものなど何もないと、今さらながらにそう言わざるを得ないのです。自らが現実を「脱=現実化」しておきながら「虚構のようだ」と評価してみせる恐るべき無邪気さ、本国アメリカでは同様の言説が殆どみられなかった(らしい)ことをしてみれば、これはむしろ「ハリウッド映画」を積極的に擁護すべき事態であるようにすら、「現実はハリウッド映画を模倣する」、他国のことはともかく、我が国に関して言えば、冗談であるとばかりは言っていられないのかも知れません。

 ダニエル・トンプソンの監督第2作目となるこの映画の撮影が件の「同時多発テロ」の影響を受けて厳戒態勢が敷かれていた当時のドゴール空港で行われたという事実と、上記の話は然して関係がありません。関係があるとすれば、この映画の始まりを告げるジュリエット・ビノシュによるモノローグの一節、「人生はハリウッド映画のように××ではない」というそれです。肝心の部分が「××」となっているのは単に私の記憶力の問題、具体的に挙げられていたのが『ローマの休日』や『プリティ・ウーマン』(実際には「娼婦が富豪と結ばれる」としか言っていませんが、多分その映画のことを指摘しているものと思われます)ですから、「身分や立場を超えた(都合の良い)出会い」や「ある日突然人生が(良い方向に)激変してしまうような事態」は現実には到底起こり得ないものであると、大凡そんな話であると理解して差し支えないと思います。何れにせよ、仰けからそんな宣言が為されているのですから、このフランス映画は当然「ハリウッド映画のよう」であってはならないはずなのですが、しかし、実際には驚くほど「ハリウッド映画のよう」であり、そもそもこの映画が「ロマンティック・コメディ」というジャンルに間違いなく属しているという事実をして既に「ハリウッド映画のよう」であると、この余りにも無邪気な矛盾は、勿論、単なる「無自覚」が要請したわけではないはず、とは言え、「確信犯的」なものであるともまた思えないところがあります。実際この映画の何処が「ハリウッド映画のよう」であるかと言えば、一番のそれは主演の二人がジュリエット・ビノシュとジャン・レノというフランス映画界きっての超有名俳優であるということや、その共演自体が既に「話題性」をもたらし作品に貢献しているということ、また、物語的なことで言えば、その二人が演じるのが予め「社会的成功者」に属する人物であり、むしろそれ故の欠落、欠乏感に悩まされているということ、それ自体は何処にでもありそうな「普通の悩み」に過ぎないにしても、そもそもの前提がまるで「普通」ではないのです。

 必ずしも此処で指摘されているそれとは一致しないのかも知れませんが、「ハリウッド映画のよう」な嘘の一つは、登場人物の「職業」にあって、別に皆が皆特別な職に就いているというわけではないのですが、しかし、大抵の場合、映画が始まってから終わるまでの間、十二分にその「物語」に貢献できてしまうくらいには時間的な余裕を持っているわけで、冷静に考えれば、それは相当に非現実的なことです。ジャーナリストや弁護士、あるいは警官や犯罪者の類は、その職業(立場)自体が既に物語に関わり合いを持っている場合が多いので特に違和感もないと言うか、むしろ、そういう職種だからこそ其処にいるわけで、その意味では、映画に於いては予め特権的な存在であるとも、それ以外だと、特に就業する必要もない有産階級や逆に職に溢れた失業者や社会的落伍者、あるいは差し当たりその必要のない子供、普通の会社員の類であってもバカンス中の身であったり、場合によっては、一体どうやって生活しているのかと甚だしくも疑問に感じてしまうような人物だったり、あるいは「物語」に貢献する余り本来為すべきはずの仕事をまるで抛置していて観ている方が心配になってしまうような人物だったり、従って、少なくともその点に関して「ハリウッド映画のよう」でない人物というのは、例えば、ケン・ローチの映画に出てくるような、一日の始まりと同時に仕事場に出掛け、物語的には然して意味のない例えば「工事現場」の場面が、その人物がそれに実際に関わっているのと同程度の時間的比率、頻度で登場するようなそれ、映画的、物語的な「良し悪し」の話とは関係なく、少なくとも現実的、より嘘の少ない人物、物語状況であるとは言えます。尤も、この映画の場合は、「ストライキ」という「非=ハリウッド的」な状況を借りて時間を止めてしまっていますから、彼らの職業は余り関係がないのですが、物語の前提として予め時間を捏造しているという意味では、大差がないともまた言えます。

 此処にあるような「成功者である故の悩み」が甚だしくも「危険」であるのは、其処からその「悩み」だけを抜き出してしまうと、案外誰にでもあり得そうな「普通」のものにも感じられてしまい、それ故に、それを観る冴えないOLや就職の当てのない大学生のような、とても「成功者」などとは呼べない普通の人達が迂闊にも「共感」してしまったりもするから、しかし、映画館を離れていざ現実の「社会」に向き合ってみれば、重要なのはその共感された「悩み」などではなく、むしろ社会的に与えられた立場の方であると誰しもが気が付くはず、つまり、人生は「ハリウッド映画のよう」ではまるでないのです。

 勿論、物語の細部に目を向けてみれば、「ハリウッド映画のよう」でない部分も幾つかあって、特に目を引くのはやはり「携帯電話」でしょうか。今どきは経済的にそれなりに豊かな国を舞台としていれば携帯電話など当たり前の道具なのですが、しかし、その驚異的な利便性は映画あるいは物語との親和性をいまだ獲得し得ていないようにもまた思われます。物語、特に男女の恋愛に関するそれに於いては「擦れ違い」や「対話不全」が物語的に大きな意味を持つわけで、携帯電話という現代的な対話の道具は、人間と人間の隙間を、少なくとも表面的にはほぼ完璧に埋めてしまうものであり、故に健全な物語の成立を危うくさえしてしまうのです。比較的最近の映画だと、恋愛映画ではありませんが、アラン・パーカーの『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』など、携帯電話が繋がらないという状況(物語の舞台となる場所が「圏外」になります)を予め捏造することによって、漸く物語を成立させたり、あるいは、現代の若者の物語でありながら当たり前のように携帯電話が登場しなかったり、いざと言うときになると皆が皆突然健忘症に掛かっかのようにその存在を忘れてしまう不誠実な映画も少なからず、今どきはケン・ローチの映画にすらそれが登場することをしてみれば、ハリウッドが好む物語は案外「古典的」なのかも知れないと、そんなことを思ったりもします。映画は必ずしも現実を模倣しない、携帯電話という道具はその典型的な一つと言えるのかも知れません。ともあれ、この映画の「非=ハリウッド的」な点を指摘するに於いて「携帯電話」を挙げたのは、つまり、この映画ではそれが本来の通りに大いに活用されてもいる故、「着信履歴」を参照して相手が架け返してきたり「伝言機能」が物語的に重要な役割を果たしたり、あるいはもう少し古典的な活用の仕方として、移動しながらも遠隔者との対話を成立させることによって物語を効率的に進行させるとか、逆に言えば、その日初めて会ったばかりの見ず知らずの男女を、その道具の存在を前提として予め「繋げて」しまうことによって、その「操作」をむしろ容易にしているとも、例えば、如何にも映画的な「偶然」は一番最初の出会いの場面にだけ捏造すればそれで済んでしまうわけで、以降は何を躊躇うことなく男女の「付かず離れず」を延々繰り返すことが可能になるのです。また、そもそも此処に於ける彼らの出会いはジュリエット・ビノシュが携帯電話をトイレに流してしまうことによって生じるわけで、つまり、如何にも現代的(非=ハリウッド的)な対話不全の状況が映画的(ハリウッド的)な対話を呼び込んでいると、これが「ハリウッド映画のよう」でありつつも、必ずしもそうでない部分もまたあり得ているとするならば、その指摘はそんな部分にこそできるのかも知れません。尤も、今のところはそうであっても、「携帯電話」がハリウッド的な道具に転じるのなど遠からずでしょうし、私の現状認識が甚だしくも不足しているだけで、既に十分ハリウッドに取り込まれてしまっているのかも知れません。

 序でに指摘しておけば、この映画に於いては「化粧室」もまた特徴的に用いられているものの一つと言えるのかも知れません。上述のジュリエット・ビノシュが携帯電話を流してしまう場面を初めとして、とにかく、化粧室の場面が多い映画で、その場面が物語的にそれなりに重要な意味を持つことにもなります。「ハリウッド映画のよう」なものとの比較で言えば、ハリウッド映画に於ける化粧室は、暴力やセックス、奸計や盗聴、あるいは噂話の場所であるというイメージがあって、それはその場所が外界から閉ざされた特別な空間であるという構造上の事実が物語的に活用された結果だと思うのですが、この映画の場合もその理屈は同じなのですが、しかし、此処に於ける彼らはあくまでも一人で其処にいて、むしろ他者との関係から解放される場所、より自分らしくある場所として其処を活用しています。故に、一方が化粧室にいるときはもう一方もまた解放される、孤独を得るために現実的な空間の隔たりを必要とせざるを得ないそれは、この映画に携帯電話、人間と人間の隙間をほぼ完璧に埋めてしまう道具が積極的に用いられていることと決して無関係ではないでしょう。

 よくよく考えてみれば、「人生はハリウッド映画とはまるで似ていない」と嘯いてみせるハリウッド映画など枚挙に遑がないわけで、つまり、ハリウッド映画を否定する身振りでハリウッド映画を模倣してみせるという「歪んだ自己否定」自体が既に「ハリウッド映画のよう」であるともまた言い得てしまうのです。アメリカナイズされたフランス人をフランス的な場所に回帰させる物語的結論や其処に持ち込まれた露骨なトリコロール(青色のアイマスクに始まる物語が白い空間で男女を巡り合わせ真っ赤なカーテンに恋愛の成就を託す)によって「小さな自己主張」が試みられはするものの、しかし、これはやはり何処までも「ハリウッド映画のよう」なフランス映画、嘗て脚本家として『ラ・ブーム』という、やはりハリウッドのそれを模倣した青春映画を世界的にヒットさせたダニエル・トンプソンの映画ならそれも頷ける話、その『ラ・ブーム』が約束した未来をあっさりと抛棄してみせたソフィー・マルソーの「凡庸な複雑さ」が懐かしくはあるものの、とどのつまりが「市場」への速やかな流入を果たすために「ハリウッド映画のよう」であらねばならなかったのであろうこの映画の「非凡な単純さ」の方が、案外「真実」に近いのかも知れません。今どきは報道映像の類ですら「ハリウッド映画のよう」でなくてはその流通が妨げられてしまうと信じられている貧しい国もあるわけですから。

 公開2日目の日曜日の午後、「全席指定」の客席はほぼ満席に近い状態、ロマンティック・コメディの常として観客の殆どが20代前半と思しき若い女性(と仕方なく付いてきたという感じの若い男性)でした。ダニエル・トンプソンの前作、彼女の監督第1作目でもある『ブッシュ・ド・ノエル』という映画が個人的に非常に気に入っているので、観たい映画が他にも色々とある中、公開週の週末に駆け付けたのですが、脚本家出身の監督のわりにむしろ映像に惹かれるところあった前作と比べると、今作は如何にも脚本家出身監督の映画という感じで、その点に関して言えば、幾分期待外れなところもありました。いつになるのかは分かりませんが、次回作に期待を繋げておくことにしましょう。尚、この比較的新しい「シネコン」は既述の通り全席指定なのですが、私のようなインターネット利用者にとって有り難いのは、オンラインで席を予約しておくことができてしまう点、勿論、予約と同時にカード決済で入場料が発生してしまいますから、予約した日時に観に行けないとその分を無駄にしてしまうことにもなるのですが、そのあたりの不自由さを割引いてみても、これはなかなか便利なシステムだと思います、「背凭れに青いカバーの掛けられた席」になど羞ずかしくてとても座れない私のような人間には特に。


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