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座頭市
監督:北野武
2003年9月6日(新宿ジョイシネマ1)

 過去のない男



 ゆっくりと降りてきたクレーンが長閑な宿場町の風景を広く捉える、中央には大家由祐子と橘大五郎の姉弟がいてスクリーン右手から浅野忠信と夏川結衣の浪人夫婦が歩いてくる、まるで「時代劇」のようなショットなのですが、カメラが浅野忠信に近接すると唐突にその「過去」がフラッシュバックとして挟み込まれ、流し芸者の姉弟の方にカメラが向くとやはり同様のフラッシュバックが、観客はその唐突さを以てこれが紛れもない「北野映画」であると教えられることになります。ただ、それでもやはりこれが何となく異質なのは、それに続く場面では大楠道代が登場して、フラッシュバックこそないものの、彼女に関わる「現在」の状況が簡潔に説明されている点、つまり、其処までの場面でこの映画に於ける主要な人物の殆どが登場し、まだまだ曖昧ながらもそれぞれを巡る状況が既に説明されてしまっているということ、この周到さ、親切さは今までの北野映画にはなかったものです。やはりその宿場町を訪れることになる座頭市(=ビートたけし)はどうしているのかと言うと、クレーンが降りるよりも前、映画の冒頭にジャンル映画的に配置された特権的なシークエンスを以てその「凄さ」がやはり既に説明されているのです。予め指摘しておけば、この映画には何一つの「新しさ」もありません。タップダンスや金髪が専ら「そのようなもの」として評価されてもいるようですが、例えば、物語の最後に配置されたタップダンスはこれまでに数多く作られてきたその類の時代劇や、フェリーニの映画にすら発見できる「祭り」の形式が幾分変奏されているだけ、『ソナチネ』の「紙相撲」がそうであったような映画の何かを裏切ってしまう遊戯的な試みでは決してありません(尤も、個人的には『ソナチネ』の「紙相撲」にしても、決して特別なものとは思っていなくて、あれは決闘を前にしたジョン・ウェインらが唐突に合唱したりするのと同じものだと解釈しています)。座頭市の金髪は確かに目を引くのですが、しかし、タランティーノの新作で日本刀を振り回すユマ・サーマンもやはり鮮やかな金髪ですし、目の色、髪の色の違う人間が当たり前のように剣術を振るったところで、今さら驚くほどの事態でもありません。序でに言えば、市川雷蔵のそれは随分と控目でしたが、「転び伴天連」とのハーフという設定になっている柴田錬三郎の「眠狂四郎」の髪はそれだけで十分に人目を引いてしまう赤毛に近いもの、北野武は半ば冗談で「ハーフかも知れない」と発言しているようですが、「ハーフの剣客」ですら何一つ新しくはないのです。

 これは今どき「座頭市」という偉大な固有名詞の背負って1本の映画を撮らざるを得なかった人間の逃れざる罠のようなものとでも言うべきか、既に指摘した通り、この北野武版『座頭市』も、その随所に「時代劇」に近接する身振りが確認されもし、しかし、それがむしろ、この映画を何となく「歪」なものにしてしまってもいます。物語的なことで言えば、病身の妻を抱えた浪人、圧政に苦しむ農民、復讐を誓う姉弟、町に蔓延るやくざもの、ガダルカナル・タカのそれにしても、例えば、森一生の『座頭市逆手斬り』の藤山寛美とどれほども違ってはいません。つまり、少なくとも物語的なことで言えば、これは何処までも有り触れた「時代劇」に過ぎなくて、北野武に期待されているような、刑事の物語ならその職業倫理を軽く転倒させてしまうような、予めそれを「破壊」してしまうようなものでは決してなくて、既にある一個のジャンルの中にすんなりと収まってもしまう程度のものでしかないのです。それが北野流の「節度」なら、しかし、余りにも退屈と言わざるを得ません。そして、残念ながら、何よりも「醜い」と感じてしまうのは、此処に多用されたクレーンやドリーの挙動、冒頭に指摘したそれですら決して美しくはありませんし、例えば、「的屋」の内部に初めてカメラが侵入するときの少しずつ「カウンター」に近接するドリー、座頭市が大楠道代の家に招かれた最初の夜の室内を天井から降りてくるクレーン(これは多分その直前のシークエンスでの彼らの会話に呼応して観客に怪しげな想像を働かせるという意味があるのでしょう。天井近くからの俯瞰の段階では彼らの姿が死角になって怪しげな声しか聞こえません)、大八車でやはり大楠道代の家に逃れてきた一同を捉える同じ室内の場面では、クレーンは逆に地面すれすれのところ、玄関先に脱ぎ捨てられた履物の列からゆっくりと上昇し、徐々に対象に近接していくという、何を指摘したいのかと言えば、つまり、そんな狭い場所でわざわざクレーンやドリーを使ってみせる必然性など何処にもないということで、それが北野流の「意趣返し」ならまだ救いがあるのですが、彼の発言を参照する限り、それは一個の形式なり「分かり易さ」に近接する身振りに過ぎないと判断できてもしまうわけで、しかし、それは明らかな「間違い」であると、ひたすらにその「不器用さ」を露呈しているに過ぎないとさえ指摘できます。これは彼の幾つかの近作にも同様に指摘できることなのですが、そもそも彼はお世辞にも「語り」が巧い作家ではありませんから、既に確立された形式や「分かり易さ」に近づこうとすればするほどむしろ細部の破綻(間違い)が目に付いてしまうことにもなるわけで、件のクレーンやドリーの挙動以外にも、「的屋」の場面で取り立てにきたやくざものの一団に向けられているはずの浅野忠信の視線の方向が明らかに矛盾していたり、否、そんな重箱の隅を突くような指摘はともかくとしても、例えば、物語的に重要な意味を持つ座頭市の「順手/逆手」にしても今一つ説明不足ですし、また「扇屋」へ向かう座頭市がその道すがら道端に抛置された「案山子」をわざわざ元あった場所に戻す理由にしても、その場面はむしろ「説明的」であろうしてと配置されているにも関わらず、案外分り難いものになってしまっている(むしろ「何故?」と疑問に感じてしまう人の方が多いような気がします)等々、勿論、そういった「不親切さ」こそが北野流であるとは言え、しかし、「分り易さ」を企図しているのであろう試みの中にそれを置いてしまってはさすがに単に不格好なだけ、それを「作家性」の表明とするなら、余りにも無邪気であると言わざるを得ません。また、此処に於いて圧倒的に「貧しい」と指摘せざるを得ないのは、その世界を驚くほどにも狭く見せてしまっている「視界狭窄」気味のショット群、むしろ、如何にも無愛想なロングショットが彼の映画を特徴付けるものの一つだったことからすれば、この変節は「分り易さ」への近接の身振りというよりも、彼のもう一つの活動の場面である「テレビ」に代表される「通俗さ」へのアプローチであるとさえ、既に指摘した通り、そんな中でクレーンやドリーという映画的な道具を「無駄遣い」しているのですから、やはり甚だしくも「歪」であるとしか言いようがないのです。尤も、これはこの映画に限った話ではなくて、今の時代に「時代劇」を撮るということに共通する問題を孕んでいるともまた言えるのかも知れず、それはつまり、テレビドラマの類が実際バストショットやクロースアップの連鎖という「貧しい」映像を余儀なくされている理由の一つが、そもそもがロングショットになどとても耐え得ない舞台セットの「貧しさ」にあるというそれ、この映画に許された予算がどの程度のものだったかなど私の知るところではないのですが、少なくとも、私がそれと比較して「貧しい」と指摘せざるを得ない旧シリーズが撮られたような時代と比べれば、色々な意味での「貧しさ」を予め受け容れざるを得ない状況だったのであろうことは想像に難くありません。しかし、むしろ、それだからこそ中途半端に「時代劇」に近接するような身振りは予め固く禁ずるべきではなかったのではないかとも思ってしまうわけで、その禁を犯してしまった以上、私のような人間ですら指摘できてしまう程度のことは当然ながら受け容れるべきであり、彼にしてもその用意は当然できているものと思っています。

 これがあくまでも既に26本もの劇場公開用作品とテレビ抛映向けシリーズが制作されてしまっている偉大な固有名詞を持ち出さざるを得ない映画であるという事実に基づいて言えば、此処に目撃されるのは専ら「逃避」の姿勢、表層に見出し得る勝新太郎版との差異は、それが露骨であればあるほどにも彼の逃げ足を加速させることに、「比較されたくない」という北野武自身の言葉が実際それを裏付けてもいます。金髪や赤い仕込み杖などまさにそれ、あるいは、もう少し気の利いた指摘をすれば、例えば、物語後半の大楠道代の家が炎上する場面、『風と共に去りぬ』から『8Mile』まで、今さら指摘するまでもなく、同様の場面は「スペクタクル」として、あるいは物語の転換を果たす重要な装置の一つとして幾度となくスクリーンに立ち現れてきたのであり、従って、この場面がそれらの「記憶」と無縁であろうはずもないのですが、しかし、北野武はそれを周到に用意された「笑い」によって巧みにはぐらかせてみせるわけで、つまり、私の言う「逃避」とはまさにこのような態度のこと、「新しさ」と誤解されているものの正体もやはりそれなのです。

 余談。イカサマを見破った座頭市が賭場で暴れる場面、予め蝋燭を消して暗闇を作るのは盲人の常套手段なのですが(テレンス・ヤングの『暗くなるまで待って』等々)、その場面の殺陣がそれ以外のものと明らかに異質であるのは、その殺陣が主観ショットのみによって撮られているから(従って、悪漢を斬りまくる座頭市の姿がスクリーンに捉えられることもありません)、正直に言って、盲人の主観ショットなどこの上ない悪趣味であるとも感じたのですが、しかし、今となってみれば、あれはデ・パルマ的に配置された「ヒント」だったのかも知れないと考えるに至っています。座頭市が道端に抛置された「案山子」を元々あった場所に精確に戻しているのもそう、それはそのときの彼が一人で行動していたということにも大いに関係があるのではないかと。

 もう一つ余談。この映画の殺陣には積極的に「スローモーション」が導入されているのですが、映像表現の場に於いて今どき当たり前のように用いられているその撮影技法が個人的に余り好きではないという話はさておくとして、この映画に於ける、一見して無節操であるかのようなその使用に関しては、もしかすると或る一定の規則があるのかも知れません。予め「もしかすると」と断りを入れなくてはならないのは、私の記憶が曖昧である故、何処でそれが用いられ何処でそれが用いられていないのか、精確には記憶していないのです。私が記憶している範囲で言えば、それが用いられていなかったのは、上述の主観ショットのみで撮られている賭場の場面と「扇屋」でのクライマックス以降(つまり、この映画の最大の見せ場である「扇屋」での殺陣とそれに続く3者との対決)で、逆に用いられていたのは、冒頭のシークエンスの最後、座頭市が刀を鞘に収める(今一つ格好良くなかった)ショットと座頭市が回想する雨の日の殺陣、あと、浅野忠信がやはり回想する「御前試合」の場面でも確か用いられていたはずです。つまり、冒頭のシークエンスでのそれを例外として、同時間的に起こっている場面ではそれを用いず、回想された過去、即ち、あくまでも誰かの記憶を拠所として再現されたに過ぎない場面にはそれを用いているのではないかと、冒頭の特権的なシークエンスにしても、それに続くシークエンスとの時間的連続性など甚だしくも曖昧ですし、あれ自体が(雨の日のそれと同様の)一個の「記憶」のようなものとしてしまっても映画的にどれほどの無理もありません。何れにせよ、このような「使い分け」が現実主義の観点から「正しい」と指摘できるのは、人間の主観や想起によって(脳内に)再現される映像がそもそもそういう可能性を含む、現実的な時間の流れに必ずしも従う要のないものである故、勿論、現実主義自体が「正しい」と言いたいわけではありませんし、そのような「使い分け」が為されているということ自体、あくまでも私の不確かな記憶を拠所とした推測に過ぎません。

 閑話休題。この映画に於いて最も重要なことの一つは、旧作では専ら「過去のある男」を演じてきた「ビートたけし」が、此処に於いては一転して「過去のない男」を演じているということにあります。過去を背負ってアメリカへ渡るやくざ、過去を背負って沖縄へ渡るやくざ、あるいは、刑事がそれらとの関わりを決して捨てきれない病身の妻や精神薄弱の妹、それらもやはり彼に刻印された「過去」に他なりません。この映画に於ける「過去のない男」が、敢えて誰かに似ていると指摘すれば、それは『3−4x10月』で彼が演じた「上原」という沖縄のやくざ、しかし、そのやくざはあくまでも脇役の一人に過ぎません。ともあれ、此処に登場する座頭市以外の人物は皆「過去のある」存在であり、彼らが「今・此処」に在る理由もその過去とは決して切り離せないもの、フラッシュバックによって執拗にインサートされる過去、肉親との関わりが予感させる過去、故に、雨の日に回想される座頭市の「雨の日の記憶」、その「過去ならざる過去」とでも呼ぶべきそれは観る者を圧倒的な不安に陥れもするのです。彼には「今・此処」にある理由など何処にもなくて、或る一つの状況、其処に立ちはだかるものをひたすらに斬って捨てるというそれが、時間の概念をすら無効にし得る「果てしの無さ」によって持続されているに過ぎないのです。其処に集う人間達の過去に繋がれた「今・此処」を、何一つの過去あるいは時間によって流されることなくただひたすらに浮遊する空虚な身体、此処に於ける座頭市とは、つまり、そのような存在なのです。

 誤解を恐れずに言えば、この北野武の『座頭市』は西部劇に似ています。尤も、黒澤明のそれをジョン・スタージェスが西部劇に翻訳した有名な例を挙げるまでもく、それらは予め緊密な関係にあると言えるのですが、例えば、そもそも刀と刀が触れ合うことの殆どない座頭市の「居合抜き」はむしろ西部劇に於ける拳銃の「早撃ち」に近いものであるとも言え、北野武によるこの映画では、その部分がさらに強調されているようにも思われます(所謂「チャンバラ」の殺陣は浅野忠信の幾分控目なそれや、この映画の中で実は最も魅力的な殺陣を披露していたのではないかとも思われる浅野忠信の敵役となる素浪人の見事なそれ、あるいはガダルカナル・タカの「コント」の中にパロディとして収められています)。自らがガンマンであり拳銃であり弾丸でもある座頭市、また、物語の中心的空間の一つである「的屋」のあの造り、特に、小津安二郎の映画なら会社帰りのサラリーマン達が愚痴でも並べていそうな、いつも決まって3人の客が(観客に)背を向けている「カウンター」など、むしろ西部劇の「酒場」のそれに似ていますし、何よりも其処が「出会い」や「腕試し」の場所であることが西部劇の「酒場」を大いに連想させるのです。あるいは、ネジが1本はずれて久しいハリウッド映画やジョン・ウーの映画を見慣れた観客には肩透かしを喰らわせもするあの「一瞬の決着」などまさにB級映画のそれ、マカロニウエスタンにもまた通じるものです。そして、他でもない「過去のない男」というモチーフが、その無類の強さも併せて、取り分けクリント・イーストウッドによって演じられた幾つかの西部劇を想起させもするわけで、物語終盤に於ける柄本明との対決など(さらなる誤解を恐れずに告白すれば)『ペイルライダー』に於けるジョン・ラッセルとの対決を想起させもするのです。しかし、同じく「過去のない男」を演じてみせるクリント・イーストウッドとこの映画に於ける座頭市の間には決定的な違いがあることもまた指摘しなくてはなりません。それは、蓮實重彦の表現を借りれば、クリント・イーストウッドの肉体にその過去を明示するものとして刻まれている「聖痕」が、この北野武の座頭市にはまるで見出すことができないということ、不自由な目がそれであるなど勿論誤った指摘です(此処に於いて過去を刻み付けた「傷痕」はむしろ盗賊どもの腕に掘られた刺青として現われます)。物語として語られる過去がなく、過去を通り過ぎてきた証としての傷痕すら持たない肉体、彼はやはり永遠に続く「現在」をひたすらに生きて往くしかないのです。大団円のタップダンス、もし仮にあの「祭り」の場面に何らか「新しさ」があるとすれば、それは「タップダンス」などにあるのではなく、それが日本的な「祭り」であるにも関わらず(流し芸者の姉弟が一瞬子供に戻ったりするのなどまさに象徴的です)、当たり前のように「円」を描いていないことにあるわけで、本来ならばその「円」の中心にいてもおかしくないはずの座頭市は、そもそも其処に「円」など用意されていないことに加えて、やはり当たり前のように其処からは遠く離れた何処かを、まるでその祝祭の磁場からひたすらに逃れるかのように歩き続けているのです。もはやクリント・イーストウッドになどまるで似ていないその姿が、では、一体誰に似ているのかと言えば、それは他でもない映画作家「北野武」その人なのです。彼がこれまでに撮った旧作のそれをすべて足した動員数を軽く越えてしまうのかも知れないくらいに大勢の観客を集め、旧来は縁遠かった層を巻き込んで広く支持されてもいるこの映画が、しかし、その一点をして実は最も「北野武らしい映画」であるさえ言い得てしまうのです。

 過去を持たず「聖痕」すら持たず、ひたすらに「映画史」から遠い場所を独りで歩く映画作家の、何かへの積極的な近接を試みつつもやはり積極的に遠ざかろうともする身振りを欠くことのない、そして、そのバランスなど少しも美しくないこの映画が、しかし、何かに似ているかと言えば、やはり、誰にも、どの映画にも「まるで似ていない」と、蓮實重彦が彼を評した言葉を繰り返すより他にはないのです。紛れもない一個の映画的身体である浅野忠信へのただならぬ近接、しかし、北野武は咄嗟に刀の握りを変えて無情にも彼を切り捨ててもしまうのです。「彼が『日本人である』とその属性を明らかにし、ひたすらに空虚だったはずの匿名の器を満たしてしまったとき、ついに何かが失われてしまったような気がする」、『BROTHER』を論評した梅本洋一が批判を込めてそんなことを書いていたのを何処かで読んだ記憶があります。この映画の不幸は、「過去のない男」であるはずの北野武が、曖昧な「属性」どころか、映画史と深く関わりもする一個の偉大な「過去」を背負わざるを得なかったことに、無様ですらある模倣と今にも躓きそうな逃走の身振り、それでも、彼が予め空虚なその器の充填を徹底して拒絶している以上、この映画の、あるいは北野武の「存在」は何一つも否定されたりはしないのです。そもそも、何一つにも目を瞑らず北野武の映画を観たなど、一体誰にそんな経験があるのか、と。

 公開初日の土曜日の午後、ある程度の混雑は予想していましたが、それを軽く上回る混雑ぶり、勿論、満席でした。ベネチアでの結果が明らかになった日曜日にはさらに混雑していたのではないかと想像されます。ベネチアを例外として、否、専ら日本国籍の「批評家」には恐ろしく受けが悪いであろうこの映画、それを映画館の混雑ぶりと秤に掛けて何を喜び何を憂うべきか、差し当たり私はこの映画を十分に愉しみましたし、それで十分だと思ってしまうところもあります。勿論、それは上の話とは何一つも矛盾しません。娯楽の堪能と思考の停止は必ずしも同時に起こるわけではないのですし。あと、もう一つだけ付け加えておけば、上の方で散々指摘したように、私はこの映画が(一般にそう評価されているように)「完成度が高い」などとはまるで思っていないのですが、それでも、スクリーンと対座した2時間弱のそれは得も言われぬ昂揚感を伴う体験だったわけで、あるいは、従来の論法に従えば完成度など決して高くはないはずのそれを「完成度が高い」と錯覚させてもしまうそれは一体何なのかと、何れにせよ、そのいまだ不明の「何か」が其処にあり続ける限り、北野映画は私にとって魅力的であり続けるのでしょう。


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