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ロボコン
監督:古厩智之
2003年9月15日(新宿文化シネマ3)

 アニーとボンボン



 この映画、特に物語の前半が専ら長澤まさみの「眼差」によって語られている、物語がそれに託されているのはそれなりに正しい選択だったと言えるのかも知れません。口数の少ない内気な少女が「黄泉がえり少年」に向けたあの眼差、彼女は塩田明彦の『黄泉がえり』に於いても、やはり同様にその眼差を以て一個の物語を語り尽くしてしまっているのです。勿論、古厩智之が実際それを踏まえているのかどうかなど知るところではないのですが、しかし、然して演技が巧いとも思えない彼女のその眼差の雄弁さだけは、既に確かなものとして我々の記憶に止められているのです。では、彼女のその雄弁な眼差は一体何を語るのか、それが彼女の内面に生起した「感情」に止まるものでないことは間違いがありません。映画冒頭の保健室のベッドに寝転がる彼女を捉えたショット、あらゆる感情とはまるで無縁であり得る焦点の定まらないその眼差は、其処に映すべき「世界」がいまだ存在していないことを正しく教えています。彼女の眼差はつまり、其処に映された世界の鏡として、時には笑い、時には曇らせるその眼差と表情は、彼女を取り巻く状況、其処に映された世界のあり様を我々に正しく教え、一個の、此処に於いて唯一つ正常な説話機能を備えた装置としての役割を果たしているのです。予め書いてしまえば、この映画にあるのは正しく二つのみ、其処に世界を映す長澤まさみの眼差と、その長澤まさみに向けられた偏愛的眼差、それだけなのです。

 この、少なくとも表層としてはそのようにもみえる「ロボコン」を巡る何人かの高専生の成長の物語はそもそも何故あり得ているのか、それが「わたしがやる気になったのだから、キミ達もやる気になりなさい」という長澤まさみの独断的な「命令」に端を発しているのは言うまでもないこと、彼女は唐突にリモコンを手渡され戸惑う素振りをみせたりはするものの、しかし、実際には物語を正しく起動させるべく間違いのない命令を発し、周囲の人間をその命令に付き従わせているのです。長澤まさみの手に握られたリモコンとあらゆる男性の暗喩としてのロボット、此処に於ける彼女が「ファム・ファタール」に類するものであるのはもはや疑いようのない事実です。それぞれが予め抱えた人間的欠陥を合宿生活や「ロボコン」を通して発見し、互いに補完、成長を果たす物語、それらは一見して彼ら自身の問題であるかのようにも見えるのですが、あくまでもファム・ファタールの命令によって発動されたこの物語が、しかし、そんな在り来たりな地点に着地するはずもありません。そもそもが「60パーセントの出来」でしかなく、また、確たる理由もなしに幾度となく、しかも唐突に故障してみせるロボット、ある時は携帯電話が、またある時はプライドが「捧げられる」ことによってその露呈された欠陥が見事に補完され差し当たり滞りなく動作してみせるそれは、なるほど、その自己犠牲を捧げた男どもの発見と成長の暗喩とも取れるのですが、しかし、忘れてはならないのは、そのロボットを操縦するリモコンが誰の手に握られているのかということ、男どものその涙ぐましい自己犠牲は、つまり「長澤まさみがそのロボットを完璧に動作させること」あるいは「ロボットが彼女の命令を忠実に実行し得ること」にこそ捧げられているのです。長澤まさみがその眼差を曇らせることなく、何一つの不自由もなくその機械仕掛けの玩具と戯れる、此処に於ける男ども、相変わらずロボットにその挙動を代行されてしまう彼らは、彼女の気紛れな「やる気」にひたすら奉仕しているに過ぎないのです。

 長澤まさみが旋盤と格闘してロボットの部品を作る場面、斯くも破廉恥な場面を映画に目撃したのなど久しくなかったような気がします。オスを削りメスに嵌める、しかも、旋盤を巧みに操り、それを正しく嵌めてみせるのが、このメンバーの中で唯一「オトナ」でありそうな塚本高史であるというのがその猥雑さに輪をかけてもいます。その特権を濫用する古厩智之が一体どんな顔でその場面を演出したのかという捨て難い「興味」はさておくとして、そんな「悪戯」が試みられもするこの映画は、それが「長澤まさみ」という特定の個人に向けられたものなのかどうかは分からないにせよ、斯様に偏愛的(変態的)眼差に溢れたものであることは間違いありません。それは、例えばゴダールが『はなればなれに』でアンナ・カリーナに向けたそれにもまた似たもの、彼女が「工場の裏」に辿り着くまでの、彼女を小舟にすら乗せるあの無駄に長いシークエンス、古厩智之がその特権を濫用するこの映画は、そのゴダールによる偏愛的シークエンスが執拗に引き延ばされたに等しいものと言っても決して過言ではありません。長澤まさみは無意味にソファに寝転がり(まるで分析医と対話するかのように)、無意味に自転車で坂を下り(嘗てアンナ・カリーナが、ベルナデット・ラフォンがそうしたように)、そして、トラックの荷台でやはり無意味に歌を口遊む(しかも今どき山口百恵)、予めスクリーンの中心に置かれた空洞はその偏愛的眼差によって充填され、一個の「世界」を完成させることになるのです。そもそも長澤まさみは何故、他の誰もが決してそうしないにも関わらず、ロボットにぴったりと寄り添うように、まるでアイドル歌手か何かのようにステージの上に屹立してみせるのか、重要なのは彼女がステージから慌ただしく駆け降りるその姿、いつも同じ場所に構えられた俯瞰気味のカメラ、古厩智之の偏愛的眼差はひたすらにその瞬間を待っているのです。

 此処に持ち込まれた偏愛的眼差はその過剰さ故に物語を破綻させもします。その世界の中心に不可触の存在として屹立するファム・ファタールがあらゆる恋愛の物語から遠くあるのは今さら言うまでもないこと、通俗な男女にありがちな三角関係の物語は、その完璧な人物配置にも関わらず、しかし、此処に於いては決してあり得ないのです。物語が進行するに連れ、男どもは漸く彼女に眼差を返すことになるのですが、しかし、予め中心を欠いた、世界の表象でさえある長澤まさみの眼差と対峙し得るのは、やはり、其処に置かれた空洞をひたすらに埋めるためのそれ、つまり、あくまでも古厩智之の偏愛的眼差が代行されるに止まるのです。象徴的なのは「ロボコン」で優勝を決める場面、差し当たり「最上位」に配置されている小栗旬が思わず長澤まさみに抱きついてみせるのですが、其処から少し離れた場所でやはり歓喜の抱擁を交わす伊藤淳史と塚本高史は、しかし、その物語的な何かを決定づけるはずの男女の抱擁に一目すらくれないという、これは明らかに異常な事態です。もし仮にこれが複数の男女による恋愛に関する物語であるのならば、其処に一個の諦念もしくは受容としての眼差があって然るべき、その不可解な眼差の不在は、つまり、此処に於ける「物語そのもの」の不在を教えているにも等しいのです。その中心にあって世界を表象する一個の眼差=空洞とその空洞を満たすべくの眼差、既述の通り、此処にあるのはやはりその二つだけなのです。部室はあるが学校はない、父親はいるが家庭はない、あるいは、其処に配置された現実の高専生達の徹底したフリークスぶりが否が応にも世界を切り分けてしまうそれ、些か暴走気味のこの偏愛譚に歯止めをかけるものがあるとすれば、それは予め縮小されたその世界にこそ、それが古厩智之なりの「節度」なのでしょう、長澤まさみをその中心に置く世界は、案外「小さい」のです。

 蛇足ながら、此処に於ける長澤まさみの見事なファム・ファタールぶりについてもう少しだけ書き加えておくことにしましょう。「ロボコン」も無事終わって暫くが過ぎた或る日、唐突に鈴木一真の自宅アパートを訪れた長澤まさみはまた新たな「命令」を発することになります。その同じ彼女が「ロボコン」本番を翌日に控えた夜に「ずっと今日が続けばいいのに」と感傷的な言辞を弄していたこと、その舌の根も乾かぬうちの豹変ぶりに今さら驚いても仕方がありません。此処で我々は彼女が前回発した命令、「わたしがやる気になったのだから…」というそれにさらに先んじる一つの重要な「命令」のあったことを先ず思い出さなくてはなりません。それは鈴木一真が彼女に対して発したロボット部への参加を促すそれ、彼女をその世界に抛ったのは他でもない鈴木一真なのです。従って、長澤まさみのその新たな命令、「ロボット部に正式に入部する」というそれに鈴木一真が何を動じるでもないのは十分に説明の付く事態なのですが、肝要なのは、其処で鈴木一真が間髪を入れずに返した新たな命令、その挑発的な命令の応酬に彼女がもはや何一つも動じなくなっているということ、ロボット部への参加を命じた第一の命令にみせた戸惑いなどもはや何処にも見当たらないのです。何の必然性もなくわざわざ玄関先に顔を出す須藤理彩、それはこの映画の中で二番目に破廉恥な場面であるとも言えるのですが、其処に顔を並べた二人の姿がそのまま一つの命令であり得てしまうのは、続く場面で長澤まさみが其処に暗示されたそれを忠実に、しかも事も無げに再現してみせるからに他なりません。何れにせよ、長澤まさみはまるで予期していなかったはずのその破廉恥な事態に顔色一つ変えることなく、むしろ晴れやかな笑顔を返すその眼差は彼女の新たな命令が予定する「次の世界」を既に映してさえいるのです。最後に試みられた実験にもついに「極限的恥ずかし変異」を起こすことのなかった長澤まさみのその恐るべき怪物ぶり、今後その活躍から目が離せない女優の一人と言えるのでしょう。

 公開三日目の祝日の午後、60人強の狭い箱は満席でした。尤も、入場時に立見の可能性を強く指摘されていたわりには、最前列中央とは言え、私自身キチンと席を確保することができたのに加えて、最終的にも立見はゼロ、入場時のそれはどうやら「脅し」に過ぎなかったようです。消防法を初めとした煩わしい問題が色々とあるにせよ、そのようなカタチで不当に「入場制限」をしてしまうのも、しかし、どうなのかと、実際、立見と言われて入場を諦めてしまった人も少なからずいたわけですし(立見を覚悟するほどの熱意を持ち合わせていなかった私の同行者もそう)、大した違いでもないにせよ、それはこの映画の興行成績にもまた関わってくることではないかと。ともあれ、右隣に小学生男子と思しき集団を並べて終始スクリーンを見上げていた私、件の「ロボット部品」の場面では思わず彼らの顔を横目に見てしまったのですが、しかし、何らの反応を示すでもなく、むしろ私にはまるで面白くない場面でケタケタと笑い転げていたりもしました。オトナであることの不自由さが身に滲みた午後です。


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