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10億分の1の男
監督:フアン・カルロス・フレスナディージョ
2003年9月20日(シネセゾン渋谷)

 四辺形、あるいは超越的他者



 球形の小さな玉を勢い良く弾きながらルーレットの円盤が回転する、そして、その円盤がまさに「円」であるべく真上からの俯瞰ショットによって切り取られる、これが人間の「運」に関する物語であるならば、これ以上妥当なオープニングショットもないのかも知れません。人間の「運」や「運命」あるいは「偶然」に纏る物語が、その表層に円形もしくは球状の何かを多く出現させるのは別に珍しいことでもありません。比較的最近の映画だとブライアン・デ・パルマの『ファム・ファタール』などがそう、カメラのレンズや俯瞰から切り取られる通風口、壁掛けの時計、水晶玉、坂を転がり落ちるゴム鞠や太陽光を反射するガラス玉、等々、それらが文字通り「運命」に関するその物語の表層にそれなりの意味、作用を伴って現われるのは決して偶然ではないのです。やはり「運命=予測された未来」の物語であったスティーブン・スピルバーグの『マイノリティ・リポート』にしてもそう、「予測された未来」として転がり落ちてくる木製の球や網膜探知に反応する目玉、あるいはスキンヘッドの女性の丸みを帯びた頭、等々、永劫回帰、輪廻転生、生々流転、言葉は何であれ、超越的な他者の類、例えば「神」によって予め決定され支配されているものとしての「運命」は、其処からの逸脱が能わない不滅の円環運動としてイメージされ、そして、それがそのまま円形や球状の物体を借りてスクリーンに立ち現れることになるのです。

 さて、話をこの映画に戻すと、そのルーレットの円盤を捉えた俯瞰ショットに続く場面で、しかし、我々は其処に「意外なもの」を目撃することになります。ルーレットで「偶然」に勝ち続けている或る紳士が引き続き盤面にチップを張るのですが、そのチップの形状が見慣れた円形ではなく何故か「正方形」なのです。盤面を見渡してみると、その紳士が張ったチップ以外はすべて円形のそれ、状況からして、つまり、正方形のそれは「高額チップ」の類であると分かるのですが、しかし、時既に遅し、スクリーンに現われたその異物としての正方形は其処に不気味な影を落としてしまっています。この紳士がその後どのような運命を辿るのかは物語の知るところ、明らかなのは、迂闊にも「正方形」に触れてしまったことが彼の蹉跌だったということです。何れにせよ、型通り「円」のイメージに始まるこの物語は、そのオープニングショットを例外として、むしろ「四辺形」や「立方体」のイメージによって展開されることに、札束や保険証券、トランプ、ポラロイド写真、エレベーターの箱、固く閉じられた複数の扉、そして、女性の場合とは逆に角を帯びることになるレオナルド・スバラグリアの短く刈られた頭、等々、「HOSTEL」の看板の「O」の文字のみが消え掛かっているのもやはり偶然などではないのでしょう。これは我々にとって偶然であると信じられている、即ち超越的な他者による必然としての「運命」もしくは「運」をそれに成り代わって支配し操る人間の物語、此処に現われる複数の四辺形もしくは立方体は、つまり、不滅の円環運動に抗う意志、その表象とでも言えるのかも知れません。似たような状況は、この映画と比べれば随分と控目ではあるものの、やはり超越的な他者による支配からの逸脱が試みられる『ファム・ファタール』や『マイノリティ・リポート』にもまた確認できるわけで、それらに於いては専らその逸脱を企てる人間による直線、主に垂直方向の運動が運命の円環を貫くものとして示されています。そして、所詮は超越的な他者に支配されるに過ぎない通俗な人間はその直線の運動すら果たし得ない、と言うのがこの映画(幾つかの場面に於いて、衝突によって阻碍される直線運動の停止が即ち「敗北」を意味します)、表層に現われる四辺形や立方体のイメージが既にそうであるように、此処に於いてはあらゆる表現が幾分露骨でもあるのは、例えば、身体の接触が何らかの意味を持つような、運を操る人間がそのまま超越的な他者の一般化されたイメージを模倣しているからなのでしょう。尤も、此処に於いては通俗な愛情の類が人間を運命の円環運動に引き寄せる一個の「罠」として持ち込まれ、それを拒絶することが即ちその円環運動からの離脱にもまた繋がるという構造や、あるいは、そもそも彼らが他者から何かを「奪う」ものであることをして、その存在はキリスト教的な神とは一線を画するものともなっています。それはマックス・フォン・シドーによって語られるユダヤ人としての逸話ともまた無関係ではないはず、その「人類の汚点」をして所謂「神」の不在は既に明らかなのです。その意味に於いて、此処に於けるマックス・フォン・シドーやレオナルド・スバラグリアは、例えば「神」がそうであるような或る特定の(絶対的)他者に「成り代わる」のではなく、その不在を前提として、予め交換可能な一個の主体概念であるそれに「成る」と言った方がむしろ適当なのかも知れません。人里離れた砂漠の地でひたすらに時を待つマックス・フォン・シドー、果てしの無い砂漠を当て所なく駆けるレオナルド・スバラグリア、不可触な存在としての彼らが、それ故の孤独を引き受けなくてはならないその姿が、相変わらず「神」に似ているとは言え。

 囚われの身となったフィリップ・シーモア・ホフマンがレイフ・ファインズに幾ら促されても決して目を開けない、ブレッド・ラトナーの『レッド・ドラゴン』の中の印象的な一場面です。彼が決して目を開けないのは、いまだ不明である殺人鬼(レイフ・ファインズ)の姿を目撃することが即ち死を意味してしまうから、その場面に代表されるその映画に於ける視線を巡るモチーフは、レイフ・ファインズが変身を渇望した「神」のイメージにもまた繋がることになります。この映画にも似たような場面があります。ゲームを勝ち抜いたアントニオ・デチェンドとマックス・フォン・シドーによるロシアン・ルーレットの場面がそれ、一部の人間以外には決して顔を見せないマックス・フォン・シドーは、その対決にもやはり黒い頭巾を被って臨むことになるのですが、アントニオ・デチェンドの引いた引鉄が虚しく空を叩くことを受けて、彼は早々にもその頭巾を頭から取り払ってしまうのです。勿論、勝負はまだ終わっていません。次はマックス・フォン・シドーが引鉄を引く番なのですが、しかし、此処に於いては、彼が頭巾を取り払う、その顔を相手に晒すという動作を以て来るべき未来、その勝負の結果は確実に予感されてしまうのです。彼に向けた眼差が即ち死を意味する、此処に於けるマックス・フォン・シドーが「神」にも似た存在であることをすれば、当然のことと言えるのかも知れません。頭を覆う黒い頭巾や目隠しのための黒布、超越的他者を巡る物語に相応しく、此処にもやはり「視線」を巡るモチーフが持ち込まれています。

 尚、「運」を視覚化してみせるこの奇抜な物語も、その枠組みに於いては案外古典的なのですが、それがむしろそのプロットの奇抜さを際立たせているという意味では、正しい選択だったと言えるのかも知れません。

 公開初日の土曜日の午後、客席は半分くらいが漸く埋まっていた程度でした。この同じ日に渋谷でもう1本別の映画(フランス映画)を観ているのですが、このスペイン映画もフランス映画も何となく退屈に感じられてしまったのは、此処のところ立て続けに日本映画を観たこととも関係があるのかも知れません。尤も、最近の日本映画の秀作の多くはありふれた日常を切り取った「ミニマル」なものが殆ど、ハリウッド映画のような天文学的な予算からは程遠いところで映画制作がなされているとは言え、しかし、この映画のような奇抜な発想さえあれば、低予算でも十分に面白い映画が作れるはず、脚本家の不在が言われて久しい日本映画界ですが、その状況は相変わらずのような気がします。


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