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息子のまなざし
監督:L&J=P ダルデンヌ
2003年12月13日(ユーロスペース2)

 息子のまなざし



 この映画の中には一つ、何となく不思議な印象を持ってしまう場面があります。此処で言う「不思議」とは、私のこれまでのフィルム体験に於いて「見慣れない」に同義、もしかすると、そんな場面など初めて観たのかも知れません。それは、それがどのような物語の流れの中で現われたのかは既に記憶が曖昧なのですが、自動車を停止させたオリヴィエが自動車を降りる場面。一旦、運転席から降りた彼は、後部座席に置いてあった何かを取るために(後部座席の)ドアを開いて、閉じる。そして、ドアにしっかりと鍵を掛けた彼は、その後部座席から取り出したものを抱えて自動車から離れていく、と、否、そのような状況自体は別にどうと言うこともないのですが、問題はその一連の動作を捉えるカメラにあります。この映画に何度も現われる自動車の場面では、カメラは決まって後部座席から運転席あるいは助手席にいる人間を、それ以外の大抵の場面がそうであるように、非常に近い距離から捉えるのですが、この場面では運転席にいたオリヴィエが其処から離れても尚後部座席に居残り、車外での彼の一連の動作を捉え続けることに、オリヴィエはドアを閉じて鍵を掛け自動車から離れていく、つまり、カメラは最終的に自動車の中に閉じ込められてしまうのです。無人であるはずの自動車の内部から(自動車特有の)あの「キーロックが降りる」のを捉えた映画などこれまでにあったでしょうか?

 その場面が一つ間違えば実に「間抜け」なのは、そのようなカメラの挙動が観客にカメラの存在を大いに意識させてしまうから、誰もそのような撮り方をしないのも、映画に於いては本来的にカメラの存在は否定されるべきもの、あらゆる「詐術」を駆使してその存在を「隠す」のが映画であるから、明らかに「無人」であるはずの場所から、その視線を大いに意識させつつ対象を捉えるなど、やはり「普通」ではあり得ないことなのです。勿論、この映画は「ドキュメンタリー風」に撮られているのであり、それ以外の場面でもカメラの存在は大いに意識させれらる、だからこそ「ドキュメンタリー風」と評されてもいるのですが、その場面の「異様さ」は、しかし、それだけはまるで説明が付かないと言うか、そもそも純然たる「ドキュメンタリー」に於いてすら、そんなこと、カメラマンを車中に閉じ込めてしまうことなど先ずあり得ないはずです。似たような場面は同監督のパルムドール受賞作でもある『ロゼッタ』にもあって、「ドアを閉める」ということなら、映画冒頭でカメラが執拗にロゼッタを追い掛け回す場面、ロゼッタが乱暴にドアを閉める度にカットが中断されるというそれです。単に「ドキュメンタリー風」に詐術を凝らした映画なら、ロゼッタは決してドアを閉めないはず、一々カットを割る必要がないように、つまりは「ドキュメンタリーらしく」見せるために、ドアは開け抛たれ、何の労苦もなくカメラは彼女の追跡を続行してしまうに違いありません。当時、私はそれを「節度」と理解したのですが、その理解が正しいかどうかはともかく、此処に於ける「異様さ」は、しかし、それともやはり違うもののように思われるわけで、キーロックが降りるときに感じた背筋が凍るような「残酷さ」の印象も相俟って、理由などまるで分からないにせよ、とにかく、物語の比較的始めの方に出てきたはずのその場面は、終始私の頭から離れることはありませんでした。

 閉じた空間の中でカメラが対象に近接するという特殊な状況からすれば致し方がないところもあるのですが、この映画に於いて明らかに重要な意味を持つ幾つかの「自動車の場面」では、上述のそれほどではないにしても、やはり些か「異様」な場面があります。例えば、オリヴィエが自動車をバックさせる場面、この映画の中に何度か現われるその場面に於ける彼の異常なほどに殺気立った表情は忘れ難いものがあります。確かに、自動車を運転した経験のある人間なら分かるはず、あれほど鬱陶しい操作もないのですが、それにしてもしかし、オリヴィエのあの表情は異常、そして、その異常さをさらに際立たせるのは、上にも書いたように自動車の場面に於いて常に「定位置」に構えられたカメラ、自動車をバックさせるときの運転手の体勢は丁度そのカメラと正面から向き合う形になるわけで、実際、自動車をバックさせるときのオリヴィエは、他でもない、その視線をカメラに向けているのです。実際にはカメラを見ているにも関わらず、恰も(それが存在せず)その向こう側を見ているかのように演技する、それはまさにこの映画が単なる「ドキュメンタリー風」でない所以、観客にカメラ(の存在)を執拗に意識させつつも、スクリーン上の人物はその存在を言わば「普通の映画」のように否定する、それは(基本的に全編がそうである)この映画に於いて、そんな両者な奇妙な鬩ぎ合いが頂点に達する場面の一つであり、『ロゼッタ』にも指摘した独自の「緊張感」を生み出しているとも言えます。そして、もう一つ奇妙で且つ重要な自動車に関わる場面があるとすれば、それは、睡魔に襲われた少年が後部座席に移動する場面、既に指摘しているように、オリヴィエの自動車の後部座席はカメラの「定位置」、外側から鍵を掛けられてすら譲らなかったその場所を、この場面では少年の我侭に譲ることになるのです。技術的なことで言えば、この場面では多分、少年が後部座席に移動するのと同時にカメラマンがそれまで少年が座っていた助手席に移動しているのだと思うのですが、それにしても、後部座席に寝転がる少年を如何にも忌々しげに捉えたショット、印象として、それはもはやオリヴィエの視線を代行するものなどではなく、少年に「定位置」を奪われたカメラ、それ自身の視線であるかのようにすら、否、そもそもこの映画に於いては、一見してカメラ(の視線)がスクリーン上の誰かの視線を代行するありがちな「第一人称風」のようで、しかし、実際には誰の視線をも代行などしてはいないのです。

 さて、自動車の話は一先ず措くとして、この映画に用いられている「ダルデンヌ風」とでも呼ぶべき独自の「視線」について、これが何よりも特異なのは、物語的な第一人称の主体に常に近接しつつも、しかし、決して(積極的には)その視線を代行しようとはしないことにあります。この物語は明らかにオリヴィエの第一人称によって語られているのですが、しかし、カメラがその視線、彼の知覚認知を「映画的」に代行しない、つまり「先回り」をしないので、(物語的な)第一人称の主体にカメラが常に近接しているにも関わらず、そのことが観客の物語理解に殆ど貢献していないという「不経済」を引き起こしています。オリヴィエが何かを知覚して行動に移る、しかし、それでも観客はまだ一体何が起こったのかを理解し得ない、この映画にはそんな場面が何度も現われます。例えば、その知覚認知の「ずれ」をして、カメラ(の視線)が代行するのがオリヴィエの視線ではなく、彼そのもの、彼の「意識」を代行していると考えることも可能、つまり、観客が体験する「時間差」は、そのまま(実際には人間の脳内で一瞬のうちに処理される)「知覚認知」と「状況理解」の僅かな「ずれ」が相当に引き延ばされたものであると、それは、それが彼自身の視線ではないにも関わらず、彼の顔を正面から捉えたクロースアップショットが殆どないこととも符合します。数少ない例外の一つが彼が鏡を覗き込む場面にあるというのもまた象徴的、其処に映し出された、彼自身ですら疑いたくなるような殺気にすら満ちたその表情は、まさに(映画的な配慮にもまた足りる)彼の内面、意識の表出と言えるのかも知れません。否、仮にそう言う意味が其処にあるにせよ、しかし、この「ダルデンヌ風」の視線がそう単純でもないのは、例えば、何度か現われる「電話の場面」を想起してみれば容易に知れること、此処に於ける(電話の)受話器は決して相手の声を外に漏らしたりはしないのですが、もし仮にそれが単なる意識の代行者であるのならば、その受話器からは正しく相手の声が漏れてくるはず、しかし、決してそうではない、その動作に於いて常に「疎外」されている(視線の主体としての)カメラは、やはり何処までも「他者」であるに過ぎないのです。しかも、その場面に於いてますます奇妙なのは、その「他者」が受話器を握るオリヴィエに(例によって)近接しているにも関わらず、その距離を考えれば、通常ならば十分に拾えるはずの受話器からの声をまるで拾っていないこと、それはつまり、其処に実現されているはずの「距離」ですら、その目撃されたままの理解を拒絶しているということであり、つまり、何よりもそれによって彼らの「関係」が測られるべく差し出されている(ようにしか見えない)その「距離」すらも、その実、疑わしき「虚構」に過ぎないと、其処に差し出された「距離感」を拠所に何かの理解を試みていた観客は見事にその足場を失ってしまうのです。

 余談ですが、映画に於ける「受話器からの声」の扱いは、その映画の何か(例えば「リアリスム」等)を測るのに案外有効なのではないかと思われます。要は受話器から声が漏れているか漏れていないか、観客がその受話器越しの「対話」に参加し得ているのかいないのか、勿論、「リアリスム」の観点から言えば、それが聞えていない方が(それを捉える視線の客観性と言う意味に於いて)より「現実的」であるとも考えられます。尤も、視座の客観性のみが「リアリスム」を決定付けるわけでもなくて(客観的な視座の存在自体が既に「現実」を裏切っているとも言えますし)、カメラの視座が主体の意識を代行するのもまた「リアリスム追及」の方法一つなのですから、その扱いの違いだけで一概に判断したりなどできないはしないのですが。「受話器からの声」と言えば、最近観た映画の中で特に印象に残ったのはジョエル・シューマカーの『フォーン・ブース』でのそれ、あるいは上映環境にも拠るのかも知れませんが、あの観客の神経を直接的に刺激する、ともすれば不愉快ですらある意外な「音源」には正直驚かされました。これもやはり「リアリスム」の観点から論じるならば、それこそ「如何わしさ」の極地とも言えるのかも知れませんが、しかし、それもやはり「映画」であると、何であれ「驚き」は肝要です。

 閑話休題。この映画に於ける「距離」を巡る問題は、カメラとその視線の対象(主にオリヴィエ)の間のそれに止まるものでは勿論ありません。物語的に重要なのは、むしろオリヴィエと少年の間のそれ、オリヴィエが少年に最初に命じたのがメジャーにオイルを塗ることだったり、あるいは「夜食の場面」に於ける幾分にも露骨な「距離」を巡る遣り取り、端的に言えば、これはオリヴィエが(あくまでも彼の側から)如何にして少年に歩み寄り、其処に横たわる「距離」を克服するかという物語、その単純な物語に書き加えられた「ダルデンヌ風」の妙味は、其処にやはり「距離」を大いに意識させる匿名の何者か、即ち「存在者」としてのカメラを介在させることによって、それをより際立たせることにあると言えるのでしょう。カメラが対象に近接することによって生じる「視野狭窄」が少年の存在を遠ざけ、逆に、カメラが対象から少し離れて其処に「ミドルショット」を映すと、むしろオリヴィエと少年の「距離」が克服されるという映像論的パラドクス、否、それだけのことで言えば、それは在り来たりな「技法」に過ぎないのですが、「ダルデンヌ風」がそんな在り来たりな場所に決して止まらないのは、その「距離」を操るカメラが其処に一個の「存在者」として間違いなく立っているから、我々が此処に目撃するのは、つまり、各々の辺が自在に伸縮し、絶えずそのカタチを変化させる一個の「三角形」なのです。そして、さらに言えば、この映画が其処に美しい「正三角形」を映して終わるという事実と、これが「和解」に至る物語であることは、決して無関係ではないのです。

 何れにせよ、「ダルデンヌ風」の特異な視線を一義的に解釈することなど不可能、むしろその多義性がもたらす「豊かさ」をこそ堪能すべきなのでしょう。では、その「視線の多義性」にもまた関わること、この冒頭で言及した不思議な場面、カメラが後部座席に取り残されてしまうというそれに話を戻しますが、其処に於ける視線とその主体の「意味」は、その時点ではまるで分からなくとも、物語が進行し、様々な状況が明らかになるに連れ誰の目にも明らかなものとなります。後部座席に寝転がる少年に向けられた忌々しげな眼差も然り、「自動車の場面」が殊更に重要なのもやはりそうです。それは、この映画の中に於いて最も「物語」に近接した視線であるという意味で、あるいはそれ以外の場面に於けるそれらとは分けて考えるべきものなのかも知れません。其処に取り残されたものが投げ掛ける視線、カメラは何ものとして其処に「在る」のか、此処に目撃されるのは、ひたすらに「詐術」の一形式でしかない有象無象の「ドキュメンタリー風」とは明らかに一線を画する、見事なまでの「映画」なのです。

 公開初日の土曜日の午後、ユーロスペースの狭い箱はほぼ満席でした。映画が始まって早々「無音」の黒いタイトルバックに白の文字列、「あ、これこれ」と『ロゼッタ』を観たときのことを思い出しました。『ロゼッタ』と言えば、この文章を書くに当たって、参考のつもりで自身が以前書いた『ロゼッタ』に関する文章を読み返してみたのですが、驚いたのは、特にカメラの挙動に対する大枠の印象が今回感じたのと殆ど同じであったということ、否、同じ監督の映画ですから大いにあり得る話ですし、私も私で、自身が以前書いたことなどまるで忘れてしまっているというのが如何にも情けないのですが、それにしても、これほど印象が似通うと言うのは私としては相当に珍しいことです。『ロゼッタ』と比べて「豊かさ」の印象がさらに増しているのは、あるいは単に私の理解力の問題に過ぎないのかも知れませんが。ところで、この季節の映画館(特にユーロスペースのような小さな箱)は、暖房が効き過ぎて少し暑過ぎますね。


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