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ミスティック・リバー
監督:クリント・イーストウッド
2004年1月10日(ジョイシネマ2)

 星条旗よ永遠なれ



 一昔前に流行ったゲームに「ウォーリーを探せ!」と言うのがありましたが、イーストウッドの映画を観るなら差詰め「星条旗を探せ!」でしょうか、この映画にもやはり、私が記憶する限り、それが三度スクリーンにはためいていました。物語の序盤に一回と終盤に二回、終盤の二回は「パレードの場面」とその一つ前の場面、「パレードの日」の早朝の(因縁の)路上、夜通し痛飲していたのであろうショーン・ペンと彼を訪ねてきたケビン・ベーコンが事件の真相を巡る会話を交わす場面でそれを見つけることができます。重要なのは残りの一回、物語の序盤に何となく、「白い空」へと緩やかに頚を擡げていくカメラがその途中でそれとなく撫でるそれ、それが何処に、あるいは「誰の元」にあったのかに考を巡らせることは、決して無意味な試みではないはずです。

 そもそもイーストウッド映画に於ける「星条旗」とは何か、彼のよく知られた政治信条を持ち出せば、あるいは実に明快な答えが得られるのかも知れませんが、しかし、そんな話など然して面白くもありませんし、実際そう単純な話でもないはずです。「正義」という言葉が如何にも胡散臭いのは、それがあくまでも相対的な一個の価値、あるいは信念を指摘するものに過ぎないから、リチャード・ニクソンの正義、ジョージ・ブッシュの正義がいとも簡単に転倒してしまう様を我々は既に目撃してもいます。専らクリント・イーストウッドの側にある「星条旗」は一見してその「正義」の所在を明らかにするものであるようにも見え、また、彼の「連戦連勝」をして「正義」あるいは「信念」の勝利を其処に見出す人もいるのかも知れません。確かに、我々はハリー・キャラハンの「正義」に惜しみない拍手を送り続けてきたのですが、しかし、その「正義」が所詮はスクリーンの中でしか通用しないものであることもまた当たり前のこととして諒解していたわけで、否、それこそがまさに「正義」が相対的である所以、フィクションの中でなら「正義」など幾らでも捏造できてしまうのです。だからと言って、其処に「正義」を量産してみせる厚顔無恥、ニューシネマ以降のハリウッドがその「巧妙さ」にますます磨きをかけつつ銀行強盗や詐欺師に「二時間の夢」を託してみせるそれらとクリント・イーストウッドの映画がまるで関係がないのなど言うまでもないこと、事実、この映画や『許されざる者』に目撃された甚だしくも歪んだ「正義」に拍手を送るものなど何処にもいないはずです。肝要なのは、まともな人間にはとても「正義」には見えないそれらも、しかし、やはり「正義」には相違ないということ、もし仮に「正義」が予めそれに共感する立場を要求する、その視座に於いて漸く「正義」であり得るとするならば、此処には「或る一方向」からの、「厚顔無恥」の量産体制が何よりも重要視するその方向からの共感が抜け落ちているに過ぎなくて、スクリーンを敢えて「六面体」に喩えてしまえば、残り五方向、否、もう少し控目に言っても、少なくともローラ・リニーの視座に於いてそれは圧倒的な「正義」に相違ないと、此処に於いて我々はその「六面体」をまさにその「裏側」から目撃することになるのです。

 それが「観客にとって何であるのか」など然して重要だとも思わないのですが、差し当たり「裏側」から目撃されてしまったそれがその相対性をしてもはや「正義」と呼ぶに相応しくないとするならば、では、それを何と呼ぶべきか、「正義」の対義語などまるで浮かばないのですが、仮に何か「そのようなもの」を其処に当て嵌めるにせよ、しかし、それは相変わらず相対的な一個の価値を弄んでいるに過ぎなくて、ただひたすらに、クリント・イーストウッドとはまるで関係のない「私」と「世界」の関係を其処に暴き出すに止まるのみ、然して有意でないのも同じです。ならば、ハリー・キャラハンは何故敗けないのか? 彼が「正義」を行使するからでないのは言うまでもなくて、彼が決して敗けないのは、つまり、彼自身がそのゲームの「ルール」を決めているから、言うなれば、親が決して損をしないイカサマ賭博の胴元のようなもの、幾つかのトランプゲームや麻雀がそうであるように、親は勝ち続ける限りは親なのであり、しかも、この場合はその都度自身に都合が良いように「ルール」を改変しさえするのですから、これはもうどう考えても彼が敗けるなどあり得ないことなのです。さて、其処で話を「星条旗」に戻せば、つまり、彼の映画に於ける「星条旗」は専ら其処に展開されるゲームの「ルール」を決める者の近くにあるということ、それが殆ど「正義」に同義なのは、大抵の場合「ルール」を決める人間が「正義」をその口実にするからに相違なく、最近の話なら、ジョージ・ブッシュというその「最悪の例」を知らない人はいないはずです。ともあれ、この映画に於いて「ゲーム」を司る人間とは、つまり、河に沈めた死体を決して浮き上がらせない人間のことであり、その限りに於いていつまでも「親」であり続ける人間のこと、このスクリーンに初めて目撃された「星条旗の所在」がそれを教えてくれるのです。

 この物語が些か「難解」なのは、此処に「ジョン・キューザック」がいないから、その名前を出すのは、勿論、同監督の『真夜中のサバナ』との比較に於いて、閉じた共同体の異常、「暗黙のルール」ということで言えば、これら両者(の物語)には似ているところがあります。『真夜中のサバナ』に於けるジョン・キューザックはその共同体の外部の人間、その「余所者」が閉じた共同体の「異常」を暴いていくわけですが、この場合の「余所者」の視座がそのまま観客の視座となるのが(親切な)映画の常、「正常/異常」というのもやはり相対的な概念に過ぎませんから、その「異常」を「異常ならしめる」ためにも、そういう視座は往々にして要請されるのです。尤も、『真夜中のサバナ』の余所者は単なるジャーナリスト、殺人が絡むその「異常」を暴くにはまだまだ「ニュートラル」な存在ですから、その意味に於いては些か不親切、そう言う場合の親切さとは、例えば「法の番人」にその視座を与えること、「法=ルール=正義」の視座をそのまま観客に委ねてしまうのですから、これほど分かり易いものはありません。この映画にも確かに「法の番人」は登場するのですが、しかし、彼はあくまでも共同体内部の存在であり、彼が初めてスクリーンに登場するのが共同体からの遠景として常に其処に捉えられる、共同体をその外部から見渡せる「橋の上」だったにも関わらず、彼が遵守する「法=ルール」が国家なり州が決めたそれではなくて、どうやらその共同体の「親」が決めた「ルール」であるらしいこともそれとなく暗示されています。従って、此処に何らか「親切」な視座があり得ているとするならば、それは同じく「橋の上」から登場するローレンス・フィッシュバーンの方、この映画に登場する唯一の有色人種、文字通り「異色」な存在である彼は余所者の無神経さで共同体の禁忌に踏み込んで行きます。とは言え、彼も所詮は「脇役」に過ぎませんから、時折後ろを振り返ってみせる必要から物語を上手く先に進められない人達の間に割って入ってそれを効率良く進める手助けをするだけ、「星条旗」がはためく場面に一度も姿を見せない彼は此処に於ける「ルール」からはひたすらに遠い存在なのです。

 幾つかの「演出」に関わる部分を私ながらに指摘しておけば、この映画の中で個人的に最も印象に残っているのは、マーシャ・ゲイ・ハーデンがティム・ロビンスに「不信」を突き付ける階段の場面、ティム・ロビンスが下でマーシャ・ゲイ・ハーデンが上、その段差がもたらす不安定な構図と言い、薄暗い照明と言い、ヒチコックやトリュフォーを持ち出すまでもなく、映画に於ける「階段」が伽椰子が這いずり降りてくるだけの場所ではないことを改めて確認しました。この場面に漂う「ただならないさ」は、そのままこの映画のそれに、演出が云々と言うより、他の場所では多分まるで違った雰囲気になっていたに違いありません。また、夫に対する「性的なアプローチ」ということだと、専ら件の刺青の場面から繋がるローラ・リニーのそれが取り沙汰されているようなのですが、個人的にはむしろマーシャ・ゲイ・ハーデンのそれ、血塗れになって帰宅したティム・ロビンスを迎えた入れた彼女が彼に対してした場違いなほどにも濃厚なキスの方が印象に残っています。その過剰なまでに性的な彼女の態度が、そのまま物語終盤でのローラ・リニーのそれの伏線になっているのは言うまでもないこと、面白いのは、この映画に於いては、妻から夫への「信頼」の証が専らそのような性的接触によって表現されていること、まるで何かを「授ける」かのようなその「儀式」は、取り分け近年のイーストウッドの映画では、女性もまた「庇護者」として其処にあるという事実を思い出させてくれます。気になることは他に幾らでも、『トゥルー・クライム』を想起させもする(部屋の壁を埋め尽くす)子供の描いた絵であるとか、その間に重要な「暗闇」を挟む事件当夜のバーの場面が子供の寝姿に(カットが)繋がっていること、あるいは、嘗て見上げたベランダから今度は見下ろしていること、排水溝に蓄積されたボールの暗喩、スクリーンに二度現われる真黒な夜の河を低く渡るヘリコプターの空撮映像、ショーン・ペンの家の住所が「111」であること、サベージ兄弟の車に後部座席に乗り込むティム・ロビンスがその「過去」を反復していること、ショーン・ペンの娘の車が矢鱈に汚くて何故かタイヤのホイールが1個外れていること、等々、考えてもキリがないとは言え、色々と考えたくなる映画であることに間違いがありません。

 閑話休題。イーストウッドの映画ほど「心的外傷」が無力なのものもないのかも知れません。蓮實重彦の指摘する「聖痕」はその身体に(可視のシルシとして)刻まれ、衆目に晒されてこそ、長年連れ添った妻にすら心のうちが明かされず、その身体はおろか、生乾きのセメントにすら満足に「痕」を残せなかったティム・ロビンスが「ルール」によって排除されてしまうのも或る意味道理と言えるのでしょう(人々の疑惑を増幅させるに過ぎない拳の傷は、むしろ『ブラッド・ワーク』のジェフ・ダニエルズのそれに似ているのではないでしょうか?)。身体に「痕」を残した人間がそれに呪われつつ生き延びていくのがイーストウッド映画を縦断する一つの主題なら、此処に於いてそれをより積極的に引き受けるのはショーン・ペンの身体に書き込まれた刺青、と言っても、それはあの此見よがしな、車中の「指輪」に始まる「十字架」の主題を遠く受け継ぐカタチで観客に晒される背中のそれではなく、むしろTシャツの袖から喰み出してしまう二の腕の刺青の方、これはあくまでも個人的な印象の話に過ぎないのですが、それを最初に目撃したとき、それが彼の「素性」を説明する一個の記号である以上の得も言われぬ衝撃を受けました。そもそも此処に於ける「十字架」の主題(車中の指輪、教会、ティム・ロビンスの家のそれ以外何もない壁、墓石選び、吸血鬼、刺青等々)を何となく軽視したくなるのは、其処に相変わらず「聖痕」と「星条旗」があるから、正直に言って、此処に於ける「十字架」など言わば「サービス精神」の顕れに過ぎないのではないのかとさえ、ショーン・ペンがその背中に負った「十字架」を晒す場面からその後の「星条旗」がはためくパレードの場面への流れを「読め」ば、なるほど、前者が人間の「弱さ」を、後者がそれに抗う「強さ」をそれぞれ象徴しているようにも思われるのですが、しかし、この映画に於いては、その「十字架」に表象される「何ものか」が在るべきとされる場所は悉くも厚い雲に覆われ、「不在」とまでは言わないにしても、少なくとも「不介入」の状況が示されているのではないかと、この映画で唯一空が青かったのが「聖体拝領の朝」なのも、決して偶然ではないでしょう。この映画はその「白い空」からのパンダウンに始まったり、あるいは其処に至るパンアップに終わる場面が幾度となくあったのですが、その幾つかの場面、最後の銃声に続くそれは言わずもがな、死体発見の場面の終わりの「取り乱すショーン・ペン→娘の死体→河→白い空(そのほんの少し前、ショーン・ペンが教会の外に出たときには間違いなく空が青かったにも関わらず!)」であるとか、其処に「十字架」が捉えられる墓石選びの場面でのショーン・ペンの気のない遣り取りから「白い空」への移動、等々を目撃する限りに於いて、少なくとも其処に「救い」や「希望」などはまるで託されていないことがよく分かります。此処にあるのは、「白い空」と「黒い河」に閉ざされた(有限の)其処で自らの「ルール」に生きる人達の物語、もし仮に彼らを庇護するものがあるとするならば、それはやはり「星条旗」なのではないかと。パレードの日の早朝、因縁の路上に座り込むショーン・ペンと彼を訪ねたケビン・ベーコンによる(物語的に非常に重要な)対話が為される場面、その背後で何ともなしに揺れている「星条旗」は、そんな彼らを静かに見守っているのです。何れにせよ、その身体に刻み付けた「聖痕」と「星条旗」の庇護によって、彼が其処に何を沈めようとも決して浮かび上がったりはしない、それが此処に於ける「ルール」、その意味に於いて、少なくともイーストウッドの「ルール」が支配するこのスクリーンに於いて、神秘的なのは「河」ではなく、むしろ「星条旗」であると、そんなことにもまた思いが至ります。

 公開初日の土曜日の午後、ほぼ満席でした。個人的な話になりますが、当初は新宿でのもう一館、ピカデリーの方で観るつもでいたのですが、上映が「1」ではなく「3」、要は同じピカデリーでも狭い方のハコだったので、席数も大差のない歌舞伎町のジョイシネマで観ることになったと、否、別に何が言いたいというわけでもないのですが…。それはさておき、散々「星条旗」を持ち出したわりには話を何一つ「映画の外」に拡げなかったことには然したる意味もなくて、上の方では「面白くもない」と書いていますが、しかし「酒の肴」程度には面白いのではないかと、何と言ってもイーストウッドは「シュワちゃん」のお仲間なわけですし、民主党支持者として知られるティム・ロビンスが散々な目に遭うのは御愛嬌、否、あくまでも「映画の外」の話として。


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