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着信アリ
監督:三池祟史
2004年1月17日(新宿コマ東宝劇場)

 >>幽霊、必死だなw



 私も一応は「現代人」の一人として日常的に携帯電話を活用しているのですが、それを出掛けに上着のポケットに抛り込むのが習慣となって以来、私の身辺から知らずと排除されてしまったものがあるとすれば、それは腕時計、携帯電話に当たり前のように付属する時計機能が、私のような、それを「時を報せる道具」としか考えていなかった人間から遠ざけてしまうのは道理というものです。携帯電話という現代的な道具に「恐怖」の多くを託すこのホラー映画が案外ユニークなのは、それがもはや「電話」ではない、空間を隔てた他者との対話を実現する道具などではなくて、それ以外の、例えば「時を刻むもの」として其処に存在し、その機能を以て「恐怖」に貢献しているということ、勿論、この映画の中でも携帯電話が当たり前な「対話の道具」として用いられることはあるのですが、しかし、そのように(普通に)用いられたそれは、此処に於いてはおよそ「恐怖」とは無縁のものに堕している、助けを求めるとか所在を確認して安心するとか、むしろ「恐怖」を遠ざける道具に転じてもいるわけで、此処に於ける携帯電話を巡る「恐怖」はつまり、それが「対話の道具」であることを止めたときに生起すると。しかし、そのわりには、其処に「対話不全」の状況が生まれて、それもまた「恐怖」に貢献するのかと言えば、必ずしもそうではなくて、従って、此処に何らかの「現代性」を求めるなら、あるいはそんなことが先ず第一に指摘できるのかも知れません。

 そもそも携帯電話という道具はそれ自体として、スクリーンに映し出される一個の「モノ」としてはどれほども「怖い」ものではありません。形状、色、大きさ、どれを取ってみてもそれ自体としての怖さは見出し得ず、それが小さければ小さいほど、それを使う人間の頭蓋の大きさとの比較から、むしろ滑稽なものにさえ見えてしまいます。「モノ」としての怖さと言えば、今どき時代遅れな存在であるとは言え、やはり黒電話、特に、古びたホテルの一室にあるような着電と同時に内線ランプの一つが白く点灯するあれ、「ジリジリジリ」と鳴るあの不快な金属音もその怖さを引き立てます。これは折りに触れて書いていることでもあるのですが、ウェス・クレイヴンの『スクリーム』がおよそ「恐怖」とは無縁な映画で、むしろ滑稽にすら感じてしまう原因は、偏にあの電話機、当時一般家庭に広く普及したコードレスホンにあるのではないかと。ツノ(アンテナ)が生えた縦長の長方形、それを耳に当てた人間は居間とキッチンを落ち着きなく移動しながら其処にはいない誰かに言葉を発する、例えば『裏窓』のジェイムス・スチュワート、電話線に繋がれた旧来の「固定電話」は、それを使う人間もまた其処に「固定」し身体的不自由を余儀なくさせてしまうわけで、その不自由さ、無防備さが状況としてサスペンスを生むと、受話器を握りしめながら走り回ってさえしてしまう其処に足りないのはそれです。携帯電話など言わずもがな、今どき空間を隔てた他者との対話は、空間はおろか、もはや時間すら止めることがないのです。映画が模倣すべきは「現実」ではなく「映画」、ホラー映画はまだまだ「黒電話」を欲しているのではないでしょうか?

 実際、この映画に於ける携帯電話は「道具」として如何に機能しているのか。既に指摘したように、一番のそれは「時を刻むもの」として、「予告」や「制限時間」はホラーやサスペンスの常套、其処に表示された「日時=数字列」は、その意味を超えてそれ自体として見る者の恐怖、不安を煽ります。「時間」の不可逆性すら裏切られてしまう荒唐無稽さがそのままこの映画の、延いては所謂「Jホラー」全般に指摘できる荒唐無稽さ(出鱈目さ)に繋がっているという話はさておくとして、此処に於ける携帯電話は、つまり、それが「時を刻むもの」であるが故に、ある日突然「時限爆弾」の如きに転じてしまうわけで、『スクリーム』のコードレスホン、『リング』のビデオテープと比べて明らかに「高性能」な道具、媒体であると、この類の映画が所詮は「アイディア勝負」であるなら、差し当たりその点に関しては「勝利」を得たと言えるのかも知れません。また、それ以外にも、此処に於ける携帯電話は音声の「録音/再生」の道具として機能、時間の不可逆性と同様に体験の一回性もまた裏切られ、特定の誰かに対して発せられたはずの「予告」は映画的詭弁を弄するまでもなく「反復/共有」されてしまうという、否、実際には音声どころか映像までもが其処に記録され、しかも、御誂え向きに現われる「大衆メディア」を介してより規模の大きな「反復/共有」が実現されもするわけで、本来的には小さな世界の出来事に止まるはずのホラー映画(其処で通用するコードの汎用化が困難であるため)の概念すら裏切られてしまうことになるのです(尤も、その拡大された規模が物語的に何一つとして機能していないところがこの映画の荒唐無稽さに拍車を掛けることにもなるわけですが)。あとは、在り来たりですが「着メロ」によって発信者を特定する機能もまたそれなりに物語に貢献、その音楽が不気味であるということよりも、特定の着信音が流れただけで一瞬にしてすべての状況が明らかになるそれは、少なくとも物語を効率良く進行させる手助けにはなっています。ただ、この類の映画に於ける電話の音というのは、受話器を上げてみるまで発信者が誰なのか分からないからこそ不気味なのであり、つまり、暗闇に延々と鳴り響く不快な金属音がそれを聴くものを不安がらせるのは、その「発信者」ではなく「状況」にこそ由来すると、後者のあり様がより「映画的」であるのなど言うまでもないことです。「着信表示」や「着信履歴」も然り、取るや取らざるや、鳴り続ける電話機を前に逡巡する場面など、もはやスクリーンにはあり得ないのかも知れません。ともあれ、斯様に今どきの携帯電話に付属した様々な機能が総動員されているにも関わらず、肝心のメール機能がまるで活用されていないのは、それが本来的な対話機能の変種に過ぎないことからすれば至極納得のいくこと、此処に於いては、言語を介した「対話」は頑なに拒絶されているのです。

 今どきの携帯電話を「必死だな」と揶揄するテレビCMがありましたが、此処に現われる幽霊(と呼ぶべきなのかどうかは知りませんが、此処では便宜的にそう呼ぶことにします)もまた必死、まさにその「必死だな」と揶揄された様々な(携帯電話の)機能を駆使し、あの手この手で相手を苦しめる、そもそも、身代金目的の誘拐犯や立て籠りの銀行強盗でもないのですから、わざわざ「予告」して「制限時間」を設けること自体が(本来的に不条理な存在の為すべき態度として)些か生真面目過ぎるわけで、否、それは言わないにしても、しかし、どうしても「予告」がしたいのなら、電話本来の機能、つまり、それを対話の道具として活用する、電話口で「オマエヲコロス」とほんの一言発すれば十分に用が足りてしまうわけで、その誰が考えても一番簡単そうな動作は頑なに拒絶して、とにかくもう「必死」になって携帯電話機の最新機能を駆使し捲る、今どきの携帯電話は「子供の玩具」とも揶揄されますが、此処に於けるそれはまさに(あるいは文字通り)そんな感じです。間違っても「恐怖」の装置としては機能しない、むしろ滑稽ですらあるその対話不全の状況に「現代」を発見するというのがそんなに悪い発想でもないと思うのは、此処に於いて被害者達を繋いでいるやはり携帯電話の機能の一つであるそれに象徴される漠然とした、必ずしも其処に(言語による)対話を要請しない「連鎖の感覚」の如きがこの映画全体を繋いでもいるから、ひたすらに「剰余」が突出し、その遠い残響音が辛うじて物語を繋ぐ、幽霊の無駄に遠回りな必死さも、やはり「今どき」なのです。

 さて、此処で指摘したその漠然とした「連鎖の感覚」が仮に「現代(=現実)」であるとして、ならば、この「映画」はその「現実」を忠実に模倣してゐるのかと言えば、しかし、残念ながらそうではありません。携帯電話のメモリデータからランダムに「次」を選んでいるはずの幽霊も、ことスクリーンにあってはそんな気紛れさなど抛棄、物語的に予め仲が良かった三人、スクリーンに何度も「スリーショット」を映したその三人を順番に襲うという「律義さ」を余儀無くされるわけで、つまり、必死に「現実」を模倣しているつもりのこの映画に於いてすら、やはり「映画」は「映画」を模倣している(そうせざるを得ない)と、「現実」など所詮は「剰余」に過ぎないのです。

 公開初日の土曜日の夜、オールナイト上映の第一回目、観客は疎らでした。女子高生が多いという情報に期待を膨らませて足を運んだのですが、さすがに午後9時過ぎからの回ではそのような人種に出会すことはありませんでした。客は少ないながらも、特に音響効果に反応して「ワッ」とか「キャッ」とか、ホラー映画にありがちな客席の妙な連帯感が何となく私の居心地を悪くさせてもいました。ところで、上の文章、私がひたすらに並べているのは、あくまでも其処に何が「在った」のかということであって、何を「見た」のかということに関しては何一つも記述してはいません。つまり、明らかな手落ちなのですが、この映画に関しては、しかし、そういう作業は差し当たり他の誰かに譲ることにします、戦略的に。


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