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この世の外へ クラブ進駐軍
監督:阪本順治
2004年2月7日(新宿ピカデリー3)

 国家を生きる人達を



 シェー・ウィガムが夜ごと魘される「ジャップ」を殺す夢、映像化された其処に現われる「ジャップ」どもは皆ヘルメットを目深に被り目元に影を作っている所為でよく顔が見えない、彼らはひたすらに匿名の「ジャップ」としてシェー・ウィガムが握るサバイバルナイフに屈することになる、と。対象が曖昧なのはこれが夢だからでは勿論なくて、おそらくはそういう状況、遠い大義に約束された国家間、民族間の終わりの知れない争いの中で「私」を喪失するのが「戦争」というものだからなのでしょう(復員直後の萩原聖人が発した「オレ、生きてますか?」という言葉が実に印象的です)。テレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』でもそう、顔のない日本人はただ日本語という「異音」を発するだけの不気味な存在として、『戦場のピアニスト』で累々積み上げられていく屍はその圧倒的「数」によって、戦場に於いてはもはや「名前」など何の意味もなさないことを示唆してもいました。ともあれ、自我なり肉親なり親しい友人なり、あるはい片足なり財産なりを失うのが「戦争」なら、その失われたものを取り戻すのが「戦後」という状況、不本意にも其処に穴が開いてしまったのなら、それを必死に埋めようともがくのが人間、あるいは人間が「生きる」ということ、確かに、匿名の復員兵が焼夷弾の穴に落ちて観客の笑いを誘いもする「戦後」という状況は些か極端なのですが、しかし、人生には多分オダギリジョーの言う「ラッキーでストライク」もしくは「エンタツでアチャコ」な状況など滅多にはなくて、大抵は何処かに「穴」を抱えてそれを埋めるべくいつも何かを心掛けている、其処にぽっかりと開いた「穴」をひたすらに埋め続け、そして、その終わりには自らが「穴」に埋められる、然して長くないも人間の営みなど、あるいはそんなものともまた言えるのではないでしょうか。

 此処に於ける「喪失」の主題の一つは非常に分かり易いカタチで示されています。この物語は戦後を生きる5人の若者によって結成された「ラッキー・ストライカーズ」というジャズバンドの活動を中心に展開されているのですが、そのバンドに訪れる幾つかの「喪失」がおよそこの物語を動かしていると、そもそもが酒癖が悪くてクビになったらしい前任者の「喪失」を埋めべく其処にオダギリジョーが参加することで始まる物語でもあるのです。その後の物語的転換も悉く何らかの「喪失」によって、クラブを独り抜け出してしまったオダギリジョーがバンドの危機と再生を手助けし、待ち合わせ場所に現れなかった村上淳がバンドを解散に追い込む、そして、唐突に訪れたMITCHの永遠の不在が再びメンバーを一つ場所に集める、と。このバンドにもやはり「ラッキーでストライク」な時間は短くて、常に何らかの「喪失」を抱え、むしろそれ故にこそバンド活動の持続が約束されている(生きている)わけで、そして、それはまた同時に此処にこの「物語」が生きている理由でも、物語それ自体もまた繰り返される「喪失」によってその持続を約束されている、換言すれば「生きる」ことを教える物語が其処に必然として「喪失」を要請していると、各々の人生にでも照し合せてみれば、此処に何一つの矛盾もないことなど容易に知れるはずです。勿論、バンドに関わること以外にも「喪失」あるいは「不在」は至るところに、母親の不在(萩原聖人)、父親の不在(松岡俊介)、弟の不在(シェー・ウィガム、村上淳)、息子の不在(ピーター・ムラン)、故郷の喪失(オダギリジョー)等々、否、肉親どころか自身の肉体の一部を喪失してしまった者の姿すら其処にはあります。しかし、其処にはその「穴」を埋めるべく現実と向き合う、即ち「生きて」いる人達の姿もまた同時に、靴を奪われた少年はそれを取り返し、「女手がない」と愚痴をこぼす大杉蓮は通り掛かりの女性にリヤカーを支えてもらう、あるいは、当初「バチ」しか持っていなかったオダギリジョーはもはや一人では運びきれないドラムセットを所有するに至り、バンドの解散で悶々と日々を過ごす萩原聖人は「もっと音楽をくれ!」と訴える、その戦争体験から外界を恐怖する片足の復員兵にしても、何れは「穴」からの脱出を決意するに違いありません。ただ、戦争という恐るべき「喪失の装置」によって奪われたものがそう簡単に取り戻せたりしないのもまた現実であり、ピーター・ムランが指摘するように、彼らはジャズを演奏することで「戦争=喪失」を忘れようとしている、音楽という或る意味実体など何もない「偽物」を其処に流し込むことによって精神の安定を辛うじて維持しているに過ぎないとも、レッドパージという紛れもない「現実」から逃避するかのようにラジオの音量を上げる松岡俊介の姿は、そんな彼らの状況を正しく指摘しているのかも知れません。

 幾つかの覚書。平坦な表面に現われた裂け目、嘗てロラン・バルトは日本人の「目」をそんなふうに表現したのですが、萩原聖人の目はまさにそれ、その意味に於いて彼がこの映画の主役であるのは実に正しい選択だったと指摘できるのかも知れません。
 前田亜季がオダギリジョーに唐突に抱きつくカットに続くオダギリジョーが独り窓辺で故郷の歌を口遊みながら短くなった煙草を燻らせる場面は実に美しいと思いました。そもそもそのカットの繋がりが意外でしたし、短くなった(フィルターのない)紙巻き煙草の危うげな様がもう何とも、この映画では他にも「パンパン」が煙草の吸口で火を点ける場面であるとか、煙草を回し喫みする場面であるとか、幾つかの場面で何気なくスクリーンに置かれた「ラッキーストライク」であるとか、とにかく、煙草が色々な機能、取り分け人と人とを繋げるものとして機能しているのが印象的、そして何よりも、アメリカ煙草に描かれた図像に日本国固有の何かを発見してしまうそれは、「星条旗」はあっても「日の丸」はないこの映画に於いては取り分け意義深いものに感じられました。
 トイレに入っているはずのオダギリジョーの視線から遊離してクラブの客席に侵入する主観ショットや、幾つかの場面で(目に見えて)意図的に用いられている手持ちカメラの映像は実に効果的、特に、クラブでのトラブルの場面に決まって用いられるそれにはカサヴェテス映画のカメラを想起しさえ。
 主にクラブの楽屋を照らす白熱灯の「白い光線」が印象に残っています。

 閑話休題。「戦争=喪失」の忘却、その消極的な「穴埋め」を指摘したピーター・ムラン自身に関わる「喪失」の主題が取り分け重要なのは、そう指摘した彼自らが再生へ向けた「その次」を示唆するからに他なりません。彼はまさに息子の「喪失」を思い出さない(忘れる)ために「ダニー・ボーイ」の演奏を禁じるのですが、しかし、自らその禁を破り、その「喪失」を積極的に引き受けることによって其処に生じた新たな困難と向き合う覚悟を得ると、彼の背中を見つめながら「失われた人達」に捧げる演奏を続ける敗戦国の若者達がその態度に何かを学習しないはずはありません。嘗て「父」を殺したその場所に帰還して「父」を殺したその同じ武器で「父」との和解を果たす、失われたものは取り戻され、勝者も敗者も等しく「喪失」する人類の愚行をその和解によって癒す…、が、まさに「父」にあるべき態度として誰にも先んじて「その次」を示してみせたピーター・ムランの、その覚悟の先に生み出すものが、しかし、また新たな「喪失」に過ぎないという此処に訪れる恐るべき事態は、ステージを隔てて彼を真正面に見据える米兵達と、その背中を見つめる敗戦国の若者達の間に、果たされたはずの和解とはまるで裏腹な決定的乖離をもたらすことにもまたなるという、我々はその狭いクラブに他でもない「国境」を見出すことになるのです。

 阪本順治は「9.11」に触発されてこの映画を撮ったそうです。「余計な御世話」と揶揄されつつも「世界の警察」を自認して世界中のあらゆる紛争に首を突っ込む超大国アメリカ、この物語の終わりに暗い影を落とす新たな喪失、即ち「朝鮮戦争」は、そんな彼らに原点ともまた言えるのかも知れません。彼らとてそれが「喪失の装置」に過ぎないことくらい十分に承知しているはず、それでもしかし、繰り返される「歴史」からまるで何一つも学習していないかのような涼しい顔でひたすらに「喪失」を繰り返し、自らの責任で開けたその「穴」を埋めるべくの作業の中で確実に「国家」を生きている人達、アルカイダの飛行機が開けた大穴は「グランド・ゼロ」と呼ばれ、其処には未来への希望すら既に託されているのです。物語が此処に「生きる」ために幾つかの「喪失」を要請しているとするならば、アメリカもまた同様の要請(マッチポンプ)によって、今どき余り流行らない「国家」にひたすらに延命措置を施していると、莫迦げた話とは言い条、現実問題として、アメリカほど国家らしい国家など他にはないという指摘はそんなに的外れなものでもないはずです。勿論、そんなふうに「国家を生きる」ことが「正しい」のかどうかの判断は留保せざるを得ないのですが、しかし、少なくとも「我が身」を省みて、其処に明らかな違いのあることは十分に理解しておくべき、我々は少し高いステージの上でアメリカから輸入された音楽を、相変わらず彼らに雇われて演奏しているに過ぎないのです。「ダニー・ボーイ」の美しい調べに乗せて投げ掛けられるステージからの眼差が何処までも優しいのは、此処に多く発見される「父子関係」の一つが其処にもまた見出されているからなのかも知れません。否、この際何が「正しい」のかなど措くとして、そんなふうに国家を生きる人達への畏敬の念にも似た、ステージでジャズを演奏することしかできない我が身にともすれば「罪悪感」を覚えてしまうような、其処に偉大な「父」の姿を認めざるを得ないような…。

 公開初日の土曜日の午後、賞レースの効果もあってかいまだに行列のできている『ラストサムライ』とは対照的に初日にして閑古鳥の鳴く惨状、別の場所でそれを「犯罪行為」と表したのですが、此処でもやはり同じことを、「犯罪者」になりたくない人は、今からでも遅くはありませんから、とにかく映画館に駆け付けましょう。そう言えば、この映画を観た翌日に『アドルフの画集』という映画を観たのですが、それもやはり第一次世界大戦直後のドイツを舞台とした「喪失」の物語、その「喪失」を埋めるべく生きた人間の物語であるのもまた同様でした。彼に開いた穴、その後の暗い歴史を約束してしまったその喪失は、それほどまでにも大きかったということなのでしょうか。


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