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ジョゼと虎と魚たち
監督:犬童一心
2004年2月15日(シネマミラノ)

 出汁巻卵から茹卵へ



 幾つかの写真を並べた錯時的なフラッシュバック、然して珍しくもない「話法」の一つに過ぎないのですが、この場合は、それが或る一定以上の「移動速度」に慣れていない人間の動体視力、その覚束ない視線が捉えた「外界」のサマが正しく再現されているようでもあり、単なる「話法」である以上に強く印象に残るものでした。

 さて、こういう書き方は大いに語弊があると知りつつも、しかし、敢えてすれば、身体障害者というのは(健常者と比べて)何かが「足りない」もしくは「欠けて」いる人間のこと、そして、所謂「同情」とは其処に足りない何かを埋めるべく(この場合なら健常者の側に)満たされる感情、あるいは其処に何一つも「足せない」己の無力さを再確認する作業のことです。この類の物語の「胡散臭さ」は、差し当たり「足りている」人間が「足りない」人間にひたすらに何か与え続けることによってその関係を維持してみせ、しかもそれが決して「同情」ではないと(つい)強弁してしまうことに、この物語が少なくともそのような「胡散臭さ」から遠くあることができるのは、妻夫木聡が其処に足りない何かを不必要に埋めようとしたりはしない、むしろ、彼の側がひたすらに「与えられる」ことによってその関係を持続しているからなのかも知れません。此処に於ける妻夫木聡は、彼と同年代の若者が大抵そうであるのと同じように、「食」あるいは「性」に対する欲求を(まだまだ)持て余し、その意味に於いてはむしろ足りない、誰かに何かを満たしてもらう必要のある存在として其処にあるわけで、彼が差し当たり「食」の欲求を満たしてくれる場所であるその貧乏長屋へ辿り着くのは或る意味必然とも、別の場面、むしろ江口徳子の方が積極的に「上」になる行為(与えられる行為)によって欲求の一つが満たされた彼は、今度が自身が厨房に立ってもう一つ別の欲求を満たすと、なるほど、世話好きそうな弟の存在が幾分例外的であるせよ、「食」に対する欲求が契機となるのはやはり極く自然なことなのです。勿論、妻夫木聡の側が何一つも与えていないわけではなくて、新屋英子が庇護者として其処に君臨する間、彼はスケートボードで改造した「足」と、制度の助けを借りた環境のバリアフリー化を、しかし、何れも結果は惨憺たるもの、気紛れに「与える」つもりでいた「たこ焼き」すら持ち帰るはめになります。彼の蹉跌は其処に「足りない」もの、身体的な「欠如」とは差し当たり無関係に「求められている」ものの正体を正しく理解せず、それを満たすことができなかったことに、其処に足りなかったのは「トカレフ」と「雲」と「フランソワーズ・サガン」、彼が何の確信もなく与えた三番目のそれが、此処に漸く「交換」を成立させているのは何となく皮肉な話です。

 異形が仮に「純粋」なものとしてあり得るとするならば、それは多くの人間が(その異様な)実存を予め排除した上で、より積極的にその心の奥底を覗き込もうとするからではないかと考えています。例えば、子供が純粋なのは、そう感じる人間がその対象を(大人とは姿形の異なる存在としての)子供として見ない、子供であることを積極的に忘れるようとするからであり、それは傴僂男のような文字通りの異形にしても然り、その醜い姿形を「直視すべきではない」と判断すればこそ、むしろその内側に在るものへと辿り着けると、これは個人的な「思想」の類なのですが、その意味に於いて、人間とは誰であれ本来的に「純粋」な存在であり、ただ、その様々な、それによって大抵の判断が為されてしまう実存(外見)が人間のその本来的な状態を見え辛くしてしまっていると、異形が特権的であり得るのは、差し当たり異形に属さない人間が有する如何にも通俗な「倫理」の要請によって予めその実存が排除されてしまうからに他ならないと。さて、此処に於ける妻夫木聡に何故かその「通俗な倫理の要請」が欠如しているということで言えば、彼こそがむしろ異形であるとも指摘できるのですが、しかし、この際それはさて措くとして、あくまでも自らの欲求に忠実に、それを満たすべくの功利に拠って異形と対する彼がその実存を予め排除などしないのは至極尤もなこと、あるいは、不足を補う努力に然して熱心でないことをして、意図的に排除するどころか、端からそれが見えていないようにさえ、少なくとも「差別感情を押し込める」というような(通俗な)意識の結果が其処に顕れているわけではないでしょう。何れにせよ、此処で肝要なのは、それ故に池脇千鶴が「凡庸な純粋さ」から遠く在ることができているということ、それは当の妻夫木聡にとってそうであるだけではなくて、専ら彼の第一人称に近い視座を借りてこの物語を追い掛ける観客にとってもそう、これを案外「何処にでもある話」のように語ってしまう人が多い理由もあるいはそんなところにあるのかも知れません。

 妻夫木聡が貧乏長屋に居を移し池脇千鶴と同棲生活を始める、つまり(あくまでも交換の対象として)彼が身体そのものを彼女に「与える」ことによって其処に一時の幸福な時間が約束されるのは、それが正しく「求められたもの」だったから、交換が上首尾に為された結果に他なりません。此処で執拗に「交換」という言葉を用いるのは、既に書いているように、それを妻夫木聡の側からの一方的なものとしてしまうと、途端にその行為が胡散臭いものに転じてしまうから、一時的であれ「幸福」があり得ている以上、其処に正しく「交換」が成立していると理解すべきが妥当なのです。尤も、映画はその幸福な時間を積極的に捉えようとはせず、如何にも映画的に省略してしまっているわけで、確かに、見事な「調和」が必然として要請する退屈な反復作業など、最も「映画」から遠いものとして真先に排除されてしまうのも致し方のないことなのですが、ただ、この場合の調和、正しく交換が成立した状態を映像として示すことが(他の場合と比べて)難しいのもまた事実、何故なら、図らずも新井浩文が正しく指摘してしまった「お前ら毎日ヤリまくって」というそれこそが此処に正しく交換が成立した状態であると指摘できるから、否、冗談でも何でもなくて、「食」と「性」を与えるものとそれを受容する身体、その幸福な時間へと至る(物語の)過程に於いて実際に示されていたのは正しくそれなのであって、これはもはや省略するしかない、観る側の健全な想像力に任せてしまおうと、それは、本来的にフェアでないものを、あらゆる「偽善」の類を排除した上で、それでもフェアに見せようとする果敢な試みが生んだ「歪み」のようなものともまた言えるのかも、何れにせよ、新井浩文が指摘したもう一つのことがその「正しく交換が成立した状態」を無効にすべく物語は新たな局面を迎えることになるわけです。

 省略された「幸福な時間」に一つ重要な場面があります。それは池脇千鶴と上野樹里が鉢合わせする場面、刮目すべきは乳母車を押しているのが誰かと言うこと、妻夫木聡ではないのです。勿論、物語的に其処に彼が居合わせてしまうと色々と不都合が生じる故にそのようなことになっているのだとは思うのですが、しかし、映画的に省略されてしまったその時間に於いては、彼が乳母車を押して「散歩」をすることなど何度もあったはず、それでも、そんな「日常」が其処に切り取られることは決してないのです。この映画の中で妻夫木聡が池脇千鶴の「足」になる場面はそんなに多くは現われません。歩ける人間と歩けない人間、与える立場とひたすらに与えられるだけの立場、彼らの関係のバランスはあの貧乏長屋を離れた途端に崩れてしまうわけで、それをスクリーンにより多く捉えることは、差し当たり「胡散臭さ」から遠くあるつもりのこの物語を破綻させてしまう危険をも孕んでいるのです。そんな予感はスケートボードの場面に於いて既に、「あの雲を持って帰りたい」と呟く池脇千鶴の何気ない横顔に垣間見えてもしまう「凡庸な純粋さ」は、もはや誰の目にも彼女を一個の「異形」として映してしまう、動物園で「虎」と対面する場面も然り、出汁巻卵から茹卵へ、妻夫木聡が旅の途中で己の「通俗さ」を思い知るのも、もはや異形でしかない池脇千鶴の実存、直視を余儀なくされる故に無視せざるを得ないその姿に、他でもない「凡庸な純粋さ」を発見してしまったから、あくまでも「交換」に拘る池脇千鶴(ホテルでの遣り取り)は、その努力も虚しく、其処に独り取り残されてしまうのです。

 蛇足ながら付け加えておけば、物語的現実として彼らのは破局は勿論最後の旅で唐突に訪れたわけでもなくて、映画的に省略された時間に於いて徐々に進行していたものなのだと思うのですが、既に指摘したように、此処に於いてそれをスクリーンに捉えることは予め禁じられているのであり、あくまでも其処に一個の「アトラクション」が用意されることによってより明快に状況の変化が語られる、映画の映画たる所以とでも言うか、自動車は走り、異形はその実存を惜しみなく晒け出す、と。

 公開から既に何週も経っている日曜日の午後、新宿に場所を移してくれたお陰で漸く足が向いたという個人的な事情はともかく、さすがに場所を移して上映が継続されるだけのことはあって、殆どの席が埋まっていました。ちなみに、それまで上映されていた渋谷のシネクイントというのは個人的に最も「肌が合わない」映画館だと感じています。否、理由は特にないのですが。


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