Index

 
グッバイ、レーニン!
監督:ヴォルフガング・ベッカー
2004年2月21日(恵比寿ガーデンシネマ1)

 ありもしない全体に



 メディアの発達した現代社会を生きる人間にとって「現実」もしくは「世界」には二種類あって、それは自らが直接見て体験するものと、メディアの類を介して見る(知る)もの、ただ、前者と後者の関係は案外曖昧なものです。ありがちな錯覚は後者が「全体」で前者が其処に従属する「一部分」であるというそれ、確かに、後者の視線は単なる一個人に可能な距離の限界を遥かに超えて、また、或る特定の嗜好に囚われない幅広い視座を提供してくれもするわけで、それが(前者との比較で)より「全体」に近いものであるのは間違いがないのかも知れません。それでも、メディアにもまた「意志」が内在することを否定できない以上、その「全体」は間違いなく歪みを抱えていて、また、海の向こうでは然して珍しくもない(とメディアが教える)、例えば「戦争」が、我々の日常生活を実際どれほども脅かしてはいないという事実をして、それらの関係が果たして「程度」に還元され得るものなのかどうか、もしかするとまるで「無関係」なのかも知れないという可能性すらいまだ残していると、否、斯様な懐疑に対して「想像力の欠如」を指摘するのは確かに尤もなことだとは思うのですが、しかし、そのような見識は、我々の身近な現実が其処に従属する「一部分」であるという錯誤に基づいて、実は真実なのかどうかすら疑わしい「全体」に歩調を合わせるべき、それが個々人に科せられた責務であるとひたすらに教育されてきた結果に過ぎないとも言えるのではないでしょうか。誤解を避ける意味で書いておけば、此処で指摘するそれは、制度的に個人(部分)が社会(全体)に従属するという話とは差し当たり関係がないもの、指摘するのは対象を眼差すことによって其処に切り取られる世界もしくは現実、複数のそれらを混在させてしまう複数の視座の存在、視座と視座との関係性について、です。ともあれ、然して遠くもない昔、マスメディアなどまるで存在していなかった、徒に「全体」を錯覚することもなく「二つの世界」が限りなく近接していた、あるいは単純に「内/外」の認識で遣り過ごしていた時代の人達が何を思い生きていたのかなど知る由もありませんが、「ありもしない全体」の奴隷として、ともすれば顔に開いた二つのそれを単なる「穴」にまで貶めてしまう我々と比べれば、余程聡明で、また幸福だったのではないかと、そんなことをふと思います。

 象徴的なのはこの場面。外では国家を祝祭するパレードが行われていて、戦車まで繰り出すそのパレードの所為で家がガタガタと揺れている、家の中の人間はその状況から外でパレードが行われているという事実を知るのですが、しかし、カーテンを開けて窓の外から通りを見下ろせば間違いなく見えるはずのそれを見るものは誰一人としておらず、彼らは揃ってテレビに齧り付き、ブラウン管を介してその様子を眺めるに止まるという、映画がその「内/外」をカットバックで繋いでいることも相俟って、その場面、状況はかなり異様なものとして映し出されることになります。ちなみに、その「カットバック」という手法は、我々が「世界」を目撃する幾つかの方法とはまた別のところにあるもので、第三者、言わば「神」の視座に於いて現実には(様々な意味に於いて)距離を隔てた二つの世界を併置する所作、此処にそのような「曲芸」が持ち込まれるのには勿論それなりの意味があるはずです。全体の一部分としての「私」を正しく位置付けるためには、それと同様の、神の如くに全体を俯瞰する視座が必要として求められるわけで、しかし、現実にはそんなことなど不可能、故に「全体」は何処までも曖昧で、「私」との関係もまるで掴めないまま投げ出されてしまうと、この映画に持ち込まれた主題の一つ、「宇宙」への限りない憧憬は、其処から俯瞰されて始めて明らかになる「世界」と「私」の関係、希求して止まないその「答え」への欲望が転化されたものなのかも知れません。ともあれ、家庭用の8ミリフィルムのワイプインに始まるこの映画は、主にテレビ、ブラウン管に映された映像が重要な意味を持つことに、家庭に問題を抱えた少年はブラウン管が映す「世界」に逃避し、病身の母親はブラウン管に捏造された「世界」に胸を撫で下ろす、肝要なのは、何れの場合もその体験を介して「ありもしない全体」の中に自らを抛り込み、その隷属状態に辛うじて自我を繋ぎ止めているにも等しいということ、ブラウン管を介しないもう一つの世界、例えば、息子が反体制的なデモに参加して警官から暴行を受けるという直接的に体験された現実を前にして母親がその生命すら危ぶまれる状態に陥ってしまうのも、つまりはブラウン管が錯覚させる「ありもしない全体」に余りにも依存し過ぎた副作用のようなものであると、その意味に於いて、母親に対して取られた延命措置が、同時に「ありもしない全体」に対する延命処置でもあるというそれは如何にも消極的、敗北主義的であるとすら指摘できてしまうのですが、では、此処に何一つの出口も見出されていないのかと言えば、しかし、必ずしもそうではなくて、「その瞬間」は間違いなく訪れるのです。

 此処に於いて、ブラウン管の詐術と同様のものは他にも、中身を入れ替えただけのピクルスの瓶がそう、ブランド米や牛肉の生産地、最近は似たような詐術が国内のニュース番組を賑わしてもいますが、肝要なのは瓶さえ取り換えてしまえば、中身の違いになどまるで気が付かないということ、母親は一言たりとも何かを疑うような言葉を発したりはしません。このような事態に出会してしまうと我々は普段一体何を喰べているのかと疑いたくもなってしまうわけで、まるで中身ではなく瓶とそのラベルを喰べているのではないかとさえ、実際、上述の(比較的)身近な事件にしても、大抵の場合「内部告発」によって事が発覚するのであって、決して誰かがその中身に対する違和感を訴えたからではありません。「ありもしない全体」はその透明な瓶に貼られたラベルによって、忌々しい名前と意味を獲得する、と。

 理想と現実の乖離、ブラウン管を介してなら宇宙飛行士だった男も、現実の視線を前にしてはただのタクシードライバーに成り下がる、彼を巡る社会状況の変化など取るに足らないものです。その証拠に、その彼を再びブラウン管の向こう側へと引き戻せば、今度は国家元首にその姿を変えてさえいると、物語はマザコン青年の詐術を国家の理想にまで昇華してみせるのですが、それでもしかし、それが相変わらず「ありもしない全体」を其処に映しているに過ぎないのは指摘するまでもないこと、ブラウン管を介して「私」が関わるべき「世界」を模索する限りに於いては、結局、問題は何一つも解決されはしないのです。故に、この映画の「最も美しい瞬間」はそのとき、母親が「ありもしない全体」を映すブラウン管から視線を逸らし、傍らに寄り添う「生身の現実」に優しい眼差を送るまさにそのときに訪れるのです。物語的に母親が真実を悟っていたのかどうかなど大した問題ではありません。肝要なのは、その場面をして母親がもはや「ありもしない全体」の呪縛から解放され、長年患ってきた病が漸く治癒したと諒解できることなのです。青年の最後の「親孝行」が、彼女の遺骨をより高い場所へと打ち上げることだったのも、決して偶然ではないのでしょう。

 公開初日の土曜日の夜、満席でした。私が実際に観たのは午後7時過ぎからの回だったのですが、本当は午後4時過ぎからの回を観るつもりで午後2時過ぎには映画館へ、しかし、その時点で既に席が残り少なくなっていてとてもマトモな席で観られそうもなかったので急遽時間を変更したという事情があったりも、要はそのくらい混雑しているということですね。つい先日のセザール賞を始めとして、欧州では数々の賞を受賞しているとは言え、外国語映画としてアカデミー賞ではまるで無視された(そのことが問題になっているようですが)ような映画が何故初日からこんなに混雑しているのかは今一つ不明、世の中には案外「ありもしない全体」から自由な人達も多いのかも知れません。ちなみに、上の本文を繰り返し何度読んでみたところでそんな事情などまるで伝わらないかとは思いますが、私はこの映画を観て泣いたりしました。感受性に乏しい人間、カウリスマキの『白い花びら』以来のことです。


Index