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ドッグヴィル
監督:ラース・フォン・トリアー
2004年2月22日(シネマライズ1)

 復讐あるいは不可視の祭典



 舞台の全景を映す俯瞰ショットから少しずつカメラが降りてきて、何れ対象(物語の主たる登場人物)に近接する、これがスクリーンに「アメリカ」を切り取った映画であると言うのなら、そのようなオープニングは旧いアメリカ映画でよく用いられていた手法を借りたものと指摘できるのかも知れません。尤も、この場合の俯瞰ショットが特別な意味を持つのは、この映画の「話題」の一つでもある特殊な舞台装置、スタジオを白線で区切っただけのそれを真直ぐに、90度の角度で捉えることになるから、対象が「平面」であるならば、その角度は特別な意味を持ちますし、カメラが垂直に降りてくることも決して無意味ではありません。ラース・フォン・トリアーは「地図を俯瞰したように」と説明しています。いまだ足を踏み入れたことのないアメリカ、飛行機を恐怖する彼が其処に下り立つには、それ以上に相応しい方法はないのかも知れません。

 この映画には「見えるもの」と「見えないもの」があります。「見えないもの」はその特異な舞台装置の所為で実際に存在しない家屋等のセット、「見えるもの」はその家屋等のセットが存在しないために、本来ならば不可視であるはずの壁の向こう側、主に其処で何かしらの活動を続けている人間達です。此処で重要なのは勿論後者、この特殊な舞台装置に何らか意味があるとすれば、それは、それらが「見えない(存在しない)」ことにあるのではなく、何かが「(見えない故に)見える」ということ、在り来たりな舞台装置が存在しないことなど別に大した問題でもなくて、確かに、余り見慣れない光景で、観るものに違和感を与えることにもなるのかも知れませんが、しかし、大抵の観客は30分も我慢すればその特異な状況にも慣れてくるはず、其処に「想像の壁」を構築してそれを見ている人も中にはいるのかも知れません。現実主義的な観点というのも然して意味がないでしょう、どんなに精緻なオープンセットであっても所詮はセットです、観る側もそんなことは当然諒解していますし、仮にその精緻さに何らか意味があるとしても、それが精緻であればあるほど「(それがセットであることを)忘れ易い」というそれだけ、観客は慣れてくれば逆にセットが存在しないことすら忘れてしまうのですから、どちらにせよ大差がないともまた言い得てしまうのです。重要なのはやはり見える(見えてしまう)こと、この効果は様々だと思うのですが、一番のそれはやはり其処に見えてしまう人間と人間、状況と状況の関係がより明らかになるということではないかと、例えば、ニコール・キッドマンの処遇を決める最後の集会の場面、会を中座して彼女の部屋で会話をするポール・ベタニーの「向こう側」には、集会所で身動き一つせずに何かを待っている村民達の姿が終始捉えられているわけで、ポールとニコール、ポールと村民達、二コールと村民達、その構図は否が上にもそれら三者の関係を意識させることに、特に、ポールを中心とした「三角関係」のバランス、本来的にはポール・ベタニーの意識下に(不可視として)蠢くはずの村民達の「無言の圧力」が、しかし、壁のない其処に於いては可視として存在し、スクリーンそのものを圧迫しさえするのです。家屋の壁の不在は、同時に人間の外面の壁をも無効にし、その内面、意識の流れすら「見えるもの」とするのです。

 関係の明瞭さは同時に無関係、「関係の無さ」もまた明らかにします。ニコール・キッドマンがステラン・スカールスゲールドにレイプされる場面、その「現場」を離れてエルム通りを下っていくカメラは、そのレイプの状況を捉え続けつつもその「手前」で何事も起きていないかのように、その状況とはまるで無関係に普段の生活を続ける村民達の姿をもまた捉えるわけで、その構図が強く訴える「誰もその事態に気が付いていない」という状況は其処で起こっている事態をより陰惨なものに見せるのと同時に、実際には気が付いていない(見えていない)故の無関心であるにも関わらず、まるで気が付いて(見えて)いながらの無関心であるような印象を与えることにも、それがむしろ村民達の真の姿であることは時を待たずして明らかになることでもあります。此処でもやはり壁の不在は人間の外面をも無効にし、その内面を深く抉り出すことに貢献しています。ちなみに、同様の状況を「壁がある映画」で撮るとすれば、レイプの場面と、例えば一つ壁を隔てた隣の部屋を交互にカットバックするような編集で、隣の部屋の人間は何も気が付かずにのんびりと御茶でも飲んでいると、そんな感じになるのかも知れません。また、天蓋のない、例えばトイレの個室のような場所なら、俯瞰ショットで隣り合わせの二つの個室を同時に捉えるような撮り方も、何れにせよ、スクリーンに映し出されたものが与える印象の程度、読み得る意味(情報)の質、量で比較すれば、とてもこの「壁のない映画」には敵わないでしょう。

 序でに指摘しておけば、これは「見えない」故に「聞こえる」映画でもあります。「より聞こえる」とした方が精確でしょうか、この映画に聞こえた「ドアを開くときの音」はいまだに私の耳に残っているのですが、「壁のある映画」で同様の体験をしたことなど記憶する限りありません。

 さて、これはニコール・キッドマンと村民達の間で為される「交換」の物語、交換されるのは「労働」とその「対価」です。「見える/見えない」という話で言えば、両者のこの関係を成立させているもの、即ち「マフィアの存在」また「見えない」ということ、彼らがスクリーンに可視化されるのはあくまでも物語の終わり、正しくはその「関係」を終わらせるべく現われるのです。その意味に於いて、マフィアに狙われている理由も曖昧でその関係が物語の最後まで明かされないニコールは(村民達にとって)そもそもが不可視な存在ともまた言えるわけで、村民達に彼女が「見える」のは彼らが彼女に労働を科すからこそ、言うなれば「労働する主体」として其処に漸く可視化されているのです。逆に言えば、村民達にとって彼女はそれ以外の何ものでもなくて、従って、予め不可視な存在であるマフィアとの関係や彼女の隠された素性など彼らにはまるでどうでも良いこと、そもそもが「見えていない」わけですから。この状況の「転倒」はつまり、彼女が此処に於いて「身振り的存在」であることを意味するわけで、それはこの映画の監督が折りに触れてベルトルト・ブレヒトの名前を挙げていることからも容易に知れることでしょう。彼女がレイプされたのは、彼女が「労働する主体」である以上の存在に転じる、つまりはそれ以上のものに「見えて」しまったから(「性的な主体」とでも言うべきか)、そう見えてしまった以上、相応の労働が新たに要求される(性的関係を強要される)のは至極当然の成り行き、「交換」のアンバランスが彼女に利益をもたらすなど此処では決して許されないのです。また、ニコールが逃亡を企て「労働する主体」であることを自ら止めようとすれば、村民達は、彼女が仮にそれを止める、既に成立している「関係」と「役割」を抛棄しても、それでもまだ十分に「見える」ようにと彼女に首輪を嵌め、其処に繋ぎ止めようとするのです。その理屈は、彼女同様に首輪を嵌められていた「犬」が終始不可視だったことに思い当たれれば容易に知れるはず、所詮は「犬」です、其処に何の「関係」をも成立し得ない存在は必然として不可視に、故に、その「関係」の代用として首輪を嵌め、半ば強制的に其処に繋ぎ止めておく必要があると。

 では、彼女の「労働」の「対価」は何か、それは勿論、彼女がドッグヴィル、その「何もない場所」に止まることです。ドッグヴィルもまた本来的には(あるいは文字通り)不可視の場所、彼女が労働の対価として其処に止まればこそ「見える」場所なのであり、家屋の壁が存在しない(見えない)のは、「労働」がそれ自体としては不可視であるのと理屈は同じでしょう(「労働」は「労働する主体」もしくは、例えば収穫されたリンゴのような、その「成果」があって始めて可視化されます)。ニコールが不用意に可視化してしまった労働の対価、あの「七つの人形」が無残にも破壊されるのも道理、それは此処に於ける「交換の原則」からはおそよ逸脱したものなのです。尚、その実際の目撃体験からマフィアが決して不可視な存在ではなく、また、ニコールとの性関係やその他のあらゆる交換を巡る関係に決して積極的には与しなかったポール・ベタニーは、それ故に此処ではまた別の「役割」を演じ、ニコールを可視化する「関係」もまた他の村民とは一線を画するのですが、しかし、結局はその「役割」と「関係」を抛棄し、集会所へ踵を返すことに、彼が最後に求めた対価は、余りにも通俗なものだったのです。

 最後の「逆転」は鮮やかです。では、一体何が逆転するのか、端的に言えば、それは可視と不可視、「見えるもの」と「見えないもの」の逆転です。それまでは不可視な存在であったマフィア(マシンガンを構える彼らの姿は今どきのアメリカ映画に発見されるそれらより余程「アメリカ的」でした)が其処を訪れることによって可視化され、ニコールとの「関係」も明らかになる(それはマフィアの側からも同様で、逃亡によって不可視に堕したニコールが其処に発見され再び可視化するのです)、彼女の「月下の逡巡」とは、つまり、選択を余儀なくされた二つのもの、此処に可視の持続を約束する二つの「関係」と相変わらず「身振り的存在」であることを止めない彼女自身の二つの「役割」の選択なのです。結論は知れた通り、彼女は父親との「関係」に自らの新しい「役割」を見出すことになるのですが、しかし、此処で肝要なのは、その後に起こる一連の出来事は彼女の新たな「役割」とは決して関係がないということ、それはむしろ「ドッグヴィル」とニコールとの間にあった労働とその対価による「交換の関係」が消滅したことにこそ由来する、つまり、ドッグヴィルとその住人達はその「関係」の消滅を以て必然として「不可視」に堕したに過ぎないのです。ニコールは別に「復讐」したわけではありません、必然として生じるドッグヴィルの「不可視化」を幾分派手に演出してみせた(可視化した)だけなのです。その意味に於いて、廃虚と化したドッグヴィルを俯瞰するカメラが其処に死屍累々を捉えてしまうのは明らかな「間違い」であると指摘できます。何故なら、其処にはもはや何も「見えない」のですから。

 蛇足ながら、そもそも彼女との間に何の「関係」をも成立させていなかった(故に不可視な存在だった)「犬」が難を逃れるのは当たり前のこと、むしろ事後に可視化した(関係を成立させた)ことに意味がありそうです。

 公開二日目の日曜日の午後、当たり前のように満席でした。3時間の長尺、長さを感じなかったと言えば嘘になりますが、しかし、決して苦痛ではありませんでした。物語を幾つかの章に分けて、その冒頭で内容を(或る程度)言語化してしまうというのはゴダールの『女と男のいる舗道』に似ていなくもありません。ラース・フォン・トリアーは影響を受けたものとしてブレヒトの他にゴダールの名前も挙げていますから、実際、その映画を参照したのかも知れません。あと、ポール・ベタニーの役名がニコール・キッドマンの別れた亭主の名前に由来していると実しやかに囁かれたりもしていますが、しかし、あれはやはり「トム・ソーヤ」か「アンクル・トム」に由来するものでしょう。ちなみに、『セクレタリー』のときにも少し心配したジェレミー・デイヴィスは、やっぱり頭の弱い人の役でしたね。


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