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悪い男
監督:キム・ギドク
2004年2月29日(新宿武蔵野館1)

 緑衣の異物ども



 繁華街のベンチに一人で座る若い女に「一目惚れ」したヤクザものがいきなり彼女に抱きついて強引にキスをする、揉み合いの末彼女から離れたそのヤクザものはその一連の暴挙を目撃していたグリーンベレーのような風体をした一団に取り押さえられ殴る蹴るの暴行を受ける…、この映画の冒頭のシークエンスは大凡そんな感じなのですが、此処で興味深いのは男を取り押さえた「グレーンベレー風の一団」の存在、これは多分「軍人」なのだと思うのですが、何が興味深いのかと言えば、少なくとも日本ではこれと同種の存在が制服のまま昼間の繁華街をうろついているような状況などまずあり得ないから、特にこれが韓国映画、外見的に日本人と大差のない人達を其処に捉えた映画だけに、その何気ない「街の風景」に現われた決定的な差異にはどうしても目を引かれてしまうのです。勿論それは表層の違和感に止まる話ではなくて、この誰がどう見ても「ヤクザもの」か「危ない人」にしか見えないその男に対して怯むことなく暴力を振るえる(振るっても何の違和感のない)人種が同業者か警察以外にも昼間の繁華街に存在しているという事実が、やはり非常に興味深くもあるわけで、以下に続くのが「暴力による対話」あるいは「循環する暴力」に関する物語であることからすれば、そのヤクザものが他でもない「暴力」による制裁を受け、それに屈してしまうというその状況が、何となく「特別なもの」にもまた見えてくるのです。

 素手や野球のバットでガラスや鏡を粉々に割り、飲み干したジュースのアルミ缶は千切り捨てる、バッティングセンターでは一心不乱にボールを叩き、時には通り掛かりの男を殴りもする、この「悪い男」が殆ど言葉を発しない理由はさておくとして、此処に於いては本来的に「言語」によって為されるべき対話が専ら「暴力」によるそれに置き換えられているのは容易に知れることです。冒頭のおよそ「暴力的」なキスにしても然り、なるほど、所謂「不器用な男」がさらに尖鋭化してもはや「異形」としか呼べない何ものかに転じたと、この男をそんなふうに理解することも可能なのかも知れません。しかし、此処に於いて決して無視できないのは、その「暴力」の奇妙な循環構造とでも呼ぶべきそれ、此処で象徴的に用いられる「凶器=暴力の装置」は専らガラスの破片、それは男が怒りに任せてバットで砕いてみせた「暴力の残痕」に他ならないのです。西部劇の「酒場の喧嘩」などでよく見かけるビール瓶の底を割って凶器(武器)にするというのなどまさにそれなのですが、ガラスやビール瓶の類は粉々に破壊される(暴力を受ける)ことによってまた新たな「暴力の装置」に転じるという、此処に於ける暴力とは、つまり、あるいは「因果応報」という言葉を当てるべきなのかも知れない一個の閉じた円環運動を為すものとして表象されているのです。従って、この「悪い男」は、言葉の替わりに暴力(過剰な身体表現)を以て他者との対話を果たすのと同時に、その行使によって一個の閉じた円環運動のうちに押し止まる、自らの身体を其処に押し込めるべく言葉ではなく暴力を率先して「選択」していると指摘できるのです。他でもない、彼が唯一発した言葉がそんな彼の状況を正しく説明してもいるのです。

 売春宿の女主人が逃亡を企てようとした若い女(ソ・ウォン)に自身の「銭湯にも行けない身体」を晒す、其処に何が「在る」のかは観客の想像に委ねられているのですが、しかし、それもやはり「暴力」が彼女をその円環運動あるいはそのうちに形成された円の中に押し込めているという状況を示唆するものに他なりません。そして、その若い女は書店の本を「破る」という細やかな暴力を自らが行使してしまったことを以て、やはりその逃れられない円環運動に巻き込まれてしまうことに、紆余曲折はあるものの、最後には自らがマジックミラーを粉々に破壊するという暴力を以て一つの「運命」を選択するというそれは、逃れ得ないその円環運動に彼女が自らその身を投じたと理解し得る場面、それでもしかし、「悪い男」は自らが其処に止まる、自らの身体を其処に押し込めるために、その若い女を彼女が本来在るべき場所へと押し戻してしまう、彼女を其処に置いたままその円環運動に許された他者との関係、ひたすらに暴力が連鎖する其処で本来為されるべき「対話」の持続が、彼にはやはり困難だった、否、そもそも彼はその術を持たなかったとでも言うべきか。

 此処に於ける身体運動による対話は、必ずしも「暴力」によるそればかりでもありません。何よりも素晴らしいのは「煙草」によるそれ、刑務所の面会所に於けるそれも勿論そうですが、男が暴力による制裁を加えた舎弟との和解を示唆するシークエンスに於けるそれは、「煙草」という今どきの世の中では肺腑を黒くするだけの余計者とも目されているそれが、あるいは「映画」に限ったことなのか、速やかな対話を促す一個の装置であり得ることを教えてもくれます。最近の映画だと阪本順治の『この世の外へ』などもそう、世の趨勢からして遠からず「映画」から同様の場面は消滅してしまうのでしょうか、必ずしも現実を模倣するわけでもない「映画」に於いては、あるいは、まだまだ当分は安泰なのでしょうか、喫煙者としては大いに気になるところです。

 閑話休題。円環運動からの逸脱がもはや「死」を以てしかあり得ないというそれは、この映画に於いてもやはり例外ではありません。男は円環の外から突如として現われた「ナイフ」によって致命傷を負い(彼がその「ナイフ=円環の外から現われた暴力」を砂に埋める即ち「隠す」場面は実に印象的です)、女はその小さな円環運動など嘲笑うかのように広がる「海」へと、物語はその後巧妙に「ファンタジー」への転換を果たすことになるのですが、しかし、それはあくまでも其処に然るべき「逸脱」があり得たからこそ、その転換を正しく「解釈」するとすれば、やはりそう理解すべきではないでしょうか。それにしても、そのファンタジーは実にユニークです。逸脱を果たした以上、彼らはもっと「普通の関係」を其処に実現していても別に構わないと思うのですが、しかし、其処に実現されているのは、あくまでも旧来の円環運動にその身を委せた上での共生とでも呼ぶべき状態、否、そのような「関係」すら嘗ては決して果たされなかったわけですから、それとてやはり「夢」の一つには相違ないと、あるいは、この「悪い男」には「死」を以てすら逸脱があり得なかったということでしょうか、彼は暴力の連鎖、悪しき円環運動に「巻き込まれた」のでは決してなく、予め其処に在る、其処から生まれ其処へと帰っていくべき存在であると、浅黒い肌を輝かせた彼が紛れもない「異物」として雑踏の中に鮮やかに立ち現れるこの映画のファーストショットを思い返すと、そんな考えもまた何となく浮かんできます。

 さて、この物語とは直接には関係がないのですが、冒頭のシークエンスに現われた「軍人」と彼らによって行使された「暴力」を「特別なもの」とした理由にも一応触れておけば、彼らによるそれは、つまり、まるで「循環」しない性質のものなのです。例えばもし仮に、彼に(暴力による)制裁を加えた人間が実際其処に多数居合わせた「善良な一般市民」だったとしたならば、彼は多分折りを見て(暴力による)仕返しをしたはず、あるいはそれが同業者の類なら何らかの抗争に発展するのでしょうし、警察権力などそもそもが其処に暴力を循環させる「敵」のような存在、実際、この映画にはその円環運動にどっぷりと浸かった(堕落した)刑事も登場します。勿論、彼が制服を着た現役軍人、その背中に「国家」を背負った「暴力のプロ」に仕返しを試みても別に構わないのですが、しかし少なくとも此処に於いては、その循環を断ち切るべき、同様に「暴力」を行使する存在ではあっても、彼らはその円環運動の外にいる言わば「超越的」な表象として其処に立っているわけで、言うなれば、ハリー・キャラハンのような男が何一つのフィクションも予感させない何処にでもありそうな「街の風景」の一部分として其処にいて、しかも、暴力の循環を断ち切るべくその機能を十全に果たしさえすると、あるいは、女の眼前に広がった「海」にもまた似たものであると、ともあれ、それが良いとか悪いとかの話では勿論なくて、ただ、やはり「特別なもの」には相違ないと、そんなところに「国情」の差異を発見するのが「正しい」のかどうかは知りませんが、私がその「緑衣の異物」に図らずも発見してしまったのは、しかし、間違いなくそれなのです。

 公開二日目の日曜日の午後、狭い箱はほぼ満席でした。昨今の韓国映画あるいはテレビドラマの「ブーム」に乗った現象とも言えるのかも知れませんが、しかし、何であれ良いものは良いと、それだけの話に過ぎないともまた言えます。尚、蛇足ながら付け加えておけば、上述の「緑衣の異物」が暴力の循環を断ち切るものとして機能するのは、それが此処に於いてそうであるような「街の風景」の一部としてあった場合にのみ、また別の場面に於いては、此処で語られているよりも遥かに巨大で且つ虚しい円環運動を促す存在であると、否、今さら分かりきった話なのですが。あと、寡黙で暴力的と言えば、どうしても北野映画の彼自身を想起してしまうのですが、第一に映像的なものの印象がまるで違っている所為で(映画を観ながら)直接それを想起することがなかったのに加えて、北野武の場合はもっとふわふわと地に足がつかない感じと言うか、この「悪い男」が或る円環運動の中から生まれ其処に帰っていく存在だとするならば、北野武のそれは何処から来て何処へ帰るのかも知れない不気味さがあると、そんなところでしょうか。この映画に登場する事務所のあの「狭さ」は決定的ですし。


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