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ヴァンダの部屋
監督:ペドロ・コスタ
2004年3月13日(イメージフォーラム2)

 縦に流れる時間



 映画には二つの時間が流れています。縦に流れる時間と横に流れる時間、前者は映画そのものが持つ時間、つまりは二時間なり三時間なりの観る者が実際に体験する時間、平たく言えば「上映時間」のことです。他方、後者は物語を流れる時間で、一週間だったり十年だったり、言うなればスクリーン上(物語上)の人物が体験する虚構の時間です。時間が縦に流れるのは勿論「映画」だけの話ではなくて、それが現実の時間である以上、我々の人生そのものがその流れの中にあると言えるのかも知れません。それが「縦」のイメージによって語られるのは、一般に「時間」と対置される「空間」が、我々の行動原理に基づいた概念として「横」の拡がりをイメージさせるから、あるいは、映画の話なら、フィルムが光源の前を縦に流れていくイメージにも由来するのかも知れません。物語の時間が横に流れるというイメージの由来は実はよく分からないのですが、例えば、蓮實重彦がペドロ・コスタの主に『骨』を論評した文章に於いて、その映画のワンシーンワンシーンあるいはワンショットワンショットが、其処にあるはずの物語とはまるで無関係に何か途轍もないものを生起し得ているという状態を指摘して「縦の強度(がある)」と評しているのですが、これなどはまさに物語が「横」に流れているというイメージを前提として為された表現であり、この表現に何の違和感も覚えなかったのは多分私だけではないはずですから、理由はともあれ、そのようなイメージが多くの人に共有されているであろうという認識もそんなにおかしなものではないでしょう。あるいは、映画と言うよりは物語文学の類がよりそのイメージに貢献しているのかも知れません。読書、活字を拾い集めながら物語を体験するそれが、決して「縦の時間」に流されることがないのは誰でも知っていること、一冊の本を二時間で読み終えてしまう人もいれば、一年掛かりで漸く読み終える人もいるのです。読書による物語体験は「縦の時間」からはひらすらに自由、そんな状況があるいは「横」の流れと結び付くのかも知れません。そもそも読書という体験そのものが視線の「横移動」を要請するわけで、横書きの書籍であっても、ページは「横」に捲られていくのです。

 蓮實重彦が「縦の強度」を指摘したその『骨』という映画、其処に流れているのは「縦の時間」です。ペドロ・コスタは物語上の或る人物に感情移入したり、自分自身の姿をスクリーン上に投影するような「一般的」な映画の見方に対して否定的な見解を述べているのですが、それは『骨』が専ら「縦に流れる時間」に支配されている事実と正しく符合します。あるいは、そのフィルムに横の流れが生じることをひたすらに拒絶しているとでも言うべきか、実際、かなり特異な「省略法」が導入されたそのフィルムは其処に物語(横の流れ)を見出そうとする人達には相当に厄介な代物のはずです(蓮實重彦の件の文章を読んだとき「其処に『縦の強度』があるのはなるほど凄いと認めるにしても、しかし、それが『横の強度』を犠牲にして漸くあり得ているのならどれほどのものとも評価できないのではないかのか?」と少し疑問を抱いたのですが、彼の発言を信じる限り、ペドロ・コスタは端から「横の強度」など求めてはおらず、否、むしろ積極的にそれを弱めようとさえしているのですから、犠牲も何も、「横の強度」などと言うことをほんの少しでも考えてしまった私がひたすらに愚かだったと、今ではそんなふうに「反省」もしています)。コスタのフィルムはひたすら縦に流れる、言うならば、予め横に流れているものから幾つかの断片を縦に切り取り(解体)、それを縦に並べ替えた上でフィルムの運動のまま縦に流してしまう(再構築)、『骨』とはまさにそういう映画だったのではないでしょうか。

 その『骨』に制作の動機の一つを借りたこの『ヴァンダの部屋』も、やはり「縦に流れる時間」を体験するフィルムだと指摘できます。映画の時間が抛っておいても勝手に縦に流れてしまうのは、それが二時間なり三時間なりの時間を待てば必ずエンドクレジットが流れ始めることにも明らか、今さら言うまでもないことでしょう。余談ですが、およそ出来の悪い物語映画というのは往々にして時間が(企図せずして)縦にしか流れていないものです。最近だと、マシュー・カソビッツの『ゴシカ』などがまさにそう、私は此処とは別の場所でその映画を酷評して「此処に問題が解決されるのは二時間経てば映画が終わってしまうからだ」と書いたのですが、その言草はつまり、其処では時間が縦にしか流れておらず横になどまるで流れていない、即ち「物語の時間」をまるで体験していないその映画の状態を私なりに指摘したもの、ひたすらフィルムの不可逆運動に付き従うばかりの物語映画が面白かろうはずもありません。ともあれ、そもそもが「物語映画」と呼ぶには状況の起伏に乏し過ぎるこの『ヴァンダの部屋』の時間が縦にしか流れないのは或る意味必然とも言えるわけで、それは予め其処に横に流れる時間が用意されていた、つまりは間違いなく物語映画と呼ぶべきフィルムであった『骨』が、作家の意志によって「解体/再構築」され縦に「流された」のとは明らかに条件を違えています。しかし、それでも、このフィルムは間違いなく縦に「流されて」いるのです。

 このフィルムには意外なほどの律義さで昼と夜が交互に訪れます。これが百二十時間分にも及ぶテープが三時間に編集されたものだというのは多分よく知れた話だと思うのですが、その交互に訪れる昼と夜は、つまり、気の遠くなるような編集作業の成果として其処に現われたものであり、編集者の意志によって選択され配置されたものと考えて間違いはありません。そのような「配置」が特別な意味を持つのは、此処にデジタルカメラによって捉えられるのが(彼らにとっては当たり前の)日常をひたすらに反復する者たちの姿であるから、彼らは何処へ向かうのでもなく何を達成するのでもない、つまり、此処に於いては今日と明日、昨日と今日を差異化するものが何もなく、その限りに於いて「時間が止まっている」にも等しいのです。その交互に訪れる昼と夜が現実の時系列に正しく沿ったものなのかどうかなど分からない、このフィルムに於いて、或る昼の次に訪れる夜が実際には一カ月前に訪れたものなのかも知れないにせよ、しかし、此処に明らかなのは、その「人為」によって漸く此処に時間の概念が持ち込まれた、此処に漸く時間が生起し得たということ、時間は作家によって「捏造」されたのです。同様の指摘ができる箇所は他にも幾つかあって、例えば、服役中のヴァンダの姉を巡って「今度面会に行く」という会話が為された後(縦の時間にして九十分後くらい)にまさにその「面会に行く日」が訪れるのなどもそう、繰り返しになりますが、これは百二十時間分のテープが三時間に編集されたもの、その一見して当たり前な二つの状況にしても、その二つともが同時に此処にあるのは、決して「偶然」でなどないのです。そして、何よりも、此処に象徴的に捉えられ続ける「破壊されていく壁」が、このフィルムに一個の確実な時間を流してもいるのです。

 此処に捏造された時間は同時に物語を生むことにもなります。面会に行くつもりをしていた人間が時を待って面会に行くことになるというそれは「物語」以外の何もでもありません。ならば、此処に生起した(捏造された)時間は横に流れているのではないかともまた考えられるのですが、しかし、必ずしもそうではありません。何故なら、縦に流れる時間とはそもそもが物語を生起するものだからです。フィルムが光源の前を縦に通過する二時間、それを体験した人間には其処で目撃された物語とは別に「映画観た」というその人間に直接関わる「物語」が生まれるのです。そして、そのような「物語」は、あくまでも縦の時間が其処に流れたことによって生まれたものの必然として「過去形」でのみ語られることになる、「映画を観た」あるいは「学校へ行った」、それは想起されることによって始めて「物語化」されるのです。他方、「横に流れる時間」はと言えば、これはむしろ物語が先にあって、それが流れた結果として生起される時間であると言えるのかも知れません。読書体験が「縦の時間」から自由であることは既に指摘しましたが、同様の状況は実はフィルム体験にもまたあり得ます。面白い物語映画を観たときの「あっと言う間の二時間だった」というような体験などがまさにそう、それは観客が物語の中の時間即ち「横に流れる時間」に生きればこそ、現実には一分の狂いもない「縦の時間」が流れていたにせよ、時間を忘れた観客はその「縦の流れ」から既に解放されているのです。また、我々は物語映画や物語小説などの「虚構」を体験するときにのみ「横の時間」を生きるわけではありません。幸福の絶頂にあるとき、何かに没頭しているとき、我々はやはり(縦の)時間を忘れ、人生の一場面に「横に流れる時間」を体験しているのです。何れにせよ、その実際の挙動にも明らかなように、このフィルムに捏造されるのはあくまでも「時間」であり、生起された物語はあくまでもその結果に過ぎない、つまり、此処に「流されて」いるのは、やはり「縦の時間」なのです。そうするまでもなく勝手に流れていくものを、其処に「作家の意志」を剥き出しにしてまで「流す」のには、勿論、それなりの意味があるはずです。

 さて、「時間」の話は一先ず措くとして、此処ではこの映画の「空間」に話を移すことにします。このフィルムの空間を特徴付けているのは、言うまでもなく「壁」と「音」です。ドアを閉じてしまえば昼間でも蝋燭の明かりを頼りにしなくてはならない、この映画に示されたそんな状況が教えるのは「壁」が「光を遮るもの」であるという事実です。その光すら遮ってしまうものが、しかし、此処に於いては、人間のいる空間、其処に人と人とのコミュニケーションを成立させる「場」を断絶するものとはなっていません。何故なら、壁によって隔てられた複数の空間は、此処に於いては常に「音」によって繋がっているから、カメラが其処に捉えるのが薄汚れた壁に四方を囲まれた狭い空間(ヴァンダの部屋)であっても、しかし、その壁の向こう側からは常に「音」が漏れている、つまり、その空間は決して「閉じて」はいないのです。実際、ヴァンダは自室に閉じ籠っていても母親や黒人青年と何の不自由なくコミュニケーションを成立させてしまいます。その状況は一般に連想される「壁」のイメージ、「コミュニケーションを阻害するもの」というそれをすら容易に覆してしまいます。また、此処に於ける「音」によって保証される「空間の連続性」には、時として「作家の意志」が予感されることがあります。例えば、ヴァンダの妹が「壁の外」で何かの動物を捌いてもらっている場面、この映画のそれ以外の場面と同様にやはりフィックスの「ワンシーン=ワンショット」によって捉えられている其処では、その「動物を捌いてもらっている」という状況とはまるで無関係に、フレームの外から(妹ではない)誰かに何かを語り掛けていると思しき男性の声が終始聞こえています。その場面に続くのは薄暗い部屋の中で自分に語り掛けている誰かの声に耳を傾けるヴァンダをフレームに収めた場面、その「誰かの声」は一つ前の場面でフレームの外から聞こえていたそれと同じで、しかも、時間的にも前の場面に正しく連続しているのです。この映画に於いておよそ淡々と連鎖する「ワンシーン=ワンショット」は本来的に何一つ空間の連続性を保証するものではありません。連鎖するショットとショットは文字通り「空間の断絶」を体験させるのみ、此処では時間が横に流れていない(物語がない)のですから、それも道理なのです。人為(編集)によって繋げられた「音」が、本来断絶していたはずの空間の連続性を約束してしまう、それはつまり「作家の意志」によって「空間」が捏造された、より「横」に拡げられたことを意味します。同様の「空間の捏造」は他にも、例えば、ヴァンダが街を彷徨う或る場面でもやはり其処に流れる音楽が空間の連続性を保証していました。また、壁と音、そして人間の関係を巡るこのフィルムの非凡さは、カメラに捉えられる対象(人物)が必ずしも壁の前に配置される必要がないことを示唆していることにあります。例えば、誰かが壁の向こう側に在って、カメラが其処に捉え続けるのがひたすら「壁」に止まっても、其処に「音」が持続される限りは、其処にいる人物の存在は決して否定されないのです。

 此処に空間が捏造されもする理由は、ワンシーンの中では終始その位置を固定されたカメラにあります。『骨』や『溶岩の家』に目撃された「横移動の長回し」は此処にはありません。『骨』や『溶岩の家』で空間を見事に横に拡げていたその美しい映像が此処にはあり得ないのです。故に、壁の向こう側から漏れてくる「音」やショットとショットの断絶を埋める「音」が、その「不自由」なカメラの代理として空間を鮮やかに横に拡げてみせるのです。あの「ココロ、オドル」横移動を体験できないのは甚だしくも残念であるものの、しかし、このフィルムが鳴らす「音」はそれを補って余りあるものと言えるでしょう。では、此処に於けるカメラは何故斯くも「不自由」なのか、其処にもやはり「作家の意志」を見出すことになります。そもそも「フィックス」という手法はスクリーンに於いて積極的にカメラの存在を消去する試みの一つであると言えます。逆に、今どきなら「ドグマ95」を連想する人も多いであろう派手な「手持ち移動撮影」は、観る者にカメラの存在を多いに意識させることになります。観る者に「現実感」を錯覚させるのがどちらかと言えば、それは多分後者です。何故なら、それがニュース映像やドキュメンタリー映画のそれに似ているから、映像が激しく乱れること自体が「現実的」なのではなく、現実を其処に捉えた(ことになっている)映像というものが往々にしてそうであるから、我々はつまり、映画とはおよそ関係のない経験則に拠って、其処に「現実感」を錯覚することになるのです。フィックスがその類の「現実感」を決して錯覚させることがないのは、其処に然るべき他者の視座が存在せず、恰も観客が直接それを目撃しているかのような錯覚を伴わせる、言うなれば、視座が観客に託されてしまっているからです。「現実感」(の錯覚)が経験に依拠するのは既述の通り、確かに、自らの眼で「現実」を直接目撃した経験のないものなど何処にもいないはず、しかしそれでも、其処に「現実感」がまるで希薄なのは、つまり、それが「スクリーンに映し出されたものに過ぎない」というもう一つの現実、決して消し去ることのできないその意識を、観る者が常に抱えているからに他なりません。「手ぶれ」の「現実感」とは、観る者がそれを「間接映像」だと意識して漸く生起するものなのであって、間違っても(観る者が)それが「間接映像」であることを「忘れてしまう」から生起するものではありません。此処に固定され横移動すら許されない「不自由」なカメラが、しかし、間違いなく其処に「現実」を捉えたのであろうそのフィルムは、つまり、我々に或る「忘却」を要請しているのです。其処にスクリーンがあることを忘れよ、作家はそう命じているのです。

 では、ペドロ・コスタという映画作家が何故フィルムに「縦に流れる時間」を捏造するのか、抛っておいても勝手に流れるものを何故わざわざ「流す」のか、それに話を戻しましょう。フィルムに流れる「横の時間」に同化し、ひたすらそれに埋没するのは、それはそれで実に素晴らしい体験です。否、大抵の人はその体験を得るためにこそ、決して安くない入場料を払ってまで映画館に足を運んでいるに違いありません。それはまた映画と同化する、映画を「身体化」する試みとも言えます。しかし、其処に実現されるのは、あくまでも「虚構」との一体化であり、ひたすらに「横に流れる時間」を生きることに過ぎません。確かに、我々はその実人生に於いてもその「横に流れる時間」を体験することはあるのですが、しかし、そんなのは人生のほんの一部分に過ぎず、誰であれその大半は「縦に流れる時間」に生きているのが「現実」です。それは、それが良いのか悪いのかは別として、映画が「現実逃避」の手段でもまたあり得る所以です。しかし、少なくともこのポルトガルの映画作家が我々に期待するのはそんなことではありません。この『ヴァンダの部屋』あるいはペドロ・コスタという作家がそのフィルム体験を通じて要請するのは、スクリーンの前にあって、しかし、それでも、敢えて「縦に流れる時間」を生きることなのではないでしょうか。縦に流れる時間、我々が生きる「現実」のそれにも似た時間をその暗い箱の中で体験する、その態度が真摯なら、我々は其処で「もう一つの現実」に、我々が生きる「現実」と同じような肌触りを感覚し得るのかも知れません。『骨』がフィルムを断片化することによって、その「横の流れ」を塞き止めた映画だったとするならば、この『ヴァンダの部屋』は、ひたすらに状況が反復されることによって図らずも「虚構化」してしまう「現実」を、時間を縦に流すことで果たされる「物語化」によって、再び「現実」に引き戻す、そんな映画と言えるのではないでしょうか。此処で言う「反復による虚構化」とは、つまり、本来「終わりある(はずの)もの」が、ひたすらに反復されることによって、あるいは「永遠」を錯覚されさえして「終わりないもの(非=現実)」へと堕してしまうこと、「終わりあるもの」とは勿論、我々が生きる「現実」のこと、それは二時間で終わってしまう「映画」であり、八十年で終わってしまう「人生」であり、「縦に流れる時間」に何処までも無力なあらゆるすべてのもののことです。我々はこの素晴らしいフィルム体験が僅か三時間で終わってしまう事実に決して感傷的であってはならず、あるいはいつかは終わる人生の比喩として、フォンタイーニャスの人達が其処に間違いなく「生きて」いるように、この忌々しくも縦に流れ落ちていく有限の時間を「生きて」いく覚悟を決めなくてはならないのです。

 公開初日の土曜日の午後、ペドロ・コスタ監督の舞台挨拶がある回だったのですが、客の入りは「まあまあ」と言った程度、本文で何度か言及している『骨』や『溶岩の家』と言った彼の旧作は、その丁度一週間前に水道橋のアテネフランセで観たのですが、そのときの混雑ぶり(立見が出ていました)からすると、肝心の「本編」(この認識が間違っているのでしょうか?)でのこの惨状はどうにも納得が往かないもの、世の「シネフィル」どもの行動原理には今一つよく分からないところがあります。あるいは旧作でもう懲りてしまったということでしょうか、それはそれでまあ「健全」な態度と言えるのかも知れませんが。

 尚、この文章はこれが書かれる二日前に書かれ一旦ネット上にも上げられた「フォンタイーニャスの壁をめぐって」と題された、やはり『ヴァンダの部屋』に関する文章がほぼ全面的に改稿されたものです。


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