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テキサス・チェーンソー
監督:マーカス・ニスペル
2004年3月20日(新宿グランドオデヲン座)

 アメリカは恐ろしい



 私は「アメリカ南部」という地域に非常に悪いイメージを持っています。「悪い」と言うよりは「怖い」と言った方が精確なのかも知れません。勿論、それは「差別」を巡る問題、他でもない「有色人種」の一人として、文明国の中で最も足を踏み入れたくない場所の一つだとも思っています。ジャズやブルーズといった主にアメリカ南部の黒人達によって生み出された音楽、あるいは、それらと白人音楽が正しく融合した、この映画に導入されてもいる「サザンロック」のような音楽を好む人間としては何とも複雑な心境でもあるのですが、別に「聖地巡礼」をしなくても音楽は十分に愉しめますから、それをしてもやはり其処が行きたくない場所であることに変わりはありません。尤も、既に世紀を跨いで久しい現在、その「前世紀の遺物」なのかも知れないものにいつまでも拘っているのはむしろ「逆差別」と指摘されてしまうのかも知れず、そもそも私が物心ついたときから持つその「イメージ」がどれほど正しいのかなど分かりはしませんし、其処に住んだことはおろか、西海岸への渡航歴が一度きりという私には何らかの印象を口にする資格すらないのかも知れません。私とアメリカの接点、それはしかし、何をどう考えてみてもやはり映画にしかなくて、つまり、あるいは偏見に過ぎないのかも知れないその「イメージ」は、中学生の頃に読んだ(読まされた)フォークナーの影響では多分なくて、これまでに数えきれないくらいに観た「アメリカ映画」によって培われたものに相違なく、否、むしろそれだけのことに過ぎないのです。具体的な作品など枚挙に遑がありませんが、それが「恐怖の対象」であるということで言えば、一番印象に残っている(心的外傷を与えた?)のは多分『イージーライダー』のそれ、恐ろしいことに、私はピーター・フォンダのオートバイが炎上したあの地点が正しく「アメリカ南部」なのかどうかすら知らないくせに、ピーター・フォンダに何の躊躇いもなく銃口を向けてしまうあの白人男性のイメージをそのまま「アメリカ南部」のイメージと勝手に一致させては、いまだ恐れ戦いているのです。私は、今どきならマイケル・ムーアが「アホでマヌケな」と自嘲気味に形容してみせるそんな人達が怖いのです。レザーフェイスなど憐れな精神異常者に過ぎません。私は「二挺拳銃」のあの狡猾な保安官、沼地に身を潜め、泥濁した空気に脳髄を冒されたあの高齢の白人男性を怖れるのです。そもそもアメリカは怖い。地図を見ているだけでも怖い。レザーフェイスの一匹や二匹何処に隠れていてもおかしくないあの広大な国土、アメリカはやっぱり恐ろしい。

 この映画「本編」の冒頭、レナードスキナード「スイートホーム・アラバマ」を鳴らしながら走る自動車のシークエンスは秀逸だったのではないでしょうか。自動車の車中ではむしろ当たり前な(其処に乗り合わせた人物の)クロースアップ・ショットが目紛しく割られ、時にはカメラがフロントガラスの外に置かれる、その内から外への視座の唐突な移動がアクロバティックな印象を持たせるもするショットも挟み込まれているのですが、あるいは煩わしく感じてしまう人もいるのかも知れないその激しいカット割、しかし、それが或る一定のリズムを持続させていることがそのままその自動車の「運動の持続」に連動しているのが非常に理に適っていると言うか、それは文字通りの持続、「長回し」がもたらすのと同様の効果が試されているとも指摘できます。もし仮にこの場面が一つもカットを割らない「長回し」で撮られていたとするならば、その持続の終わり、ショットの断絶が一体何処で訪れるかなど少し映画に慣れた観客になら容易に知れてしまうはずで、それはつまり自動車が停止するとき、観る者はいつまでも断絶しないショットにいつまでも停止しない自動車のサスペンスを予感し、「この自動車は一体いつ停まるのだろうか?(このショットは一体いつ途切れるのだろうか?)」とひたすらに気を揉むことになるわけです。その目紛しいカット割が一定のリズムを持続する故に「長回し」にも似た効果を生むその執拗に長い(そう感じられる)停止しない自動車のシークエンス、停止しない自動車がサスペンスを生起するのは、それが、何れ訪れるに違いない自動車が停止せざるを得ない状況、車中の若者達に降り掛かる(彼らのその後の運命を決定付ける)決定的な事態の訪れがひたすらに「留保」されているにも等しい状態であるから、勿論、その断絶の訪れる地点がレナードスキナードのコンサート会場だと予感する観客などいなはずです。このシークエンスがさらに「気が利いている」のは、自動車が停止する少し手前で、まるでそれを準備するかのようにラジオが消され、やはり其処にリズミカルに持続されていた「スイートホーム・アラバマ」が先ず停止するから、「段取り」としては実に周到です。斯くて自動車は停止する、ひたすらに留保され回避されてきた一個の「答え」が其処に示されるわけです。これはホラー映画のオープニングとしては文句の付けようがないものだと思うのですが、しかし、そう思えば思うほど、このシークエンスが実は純然たる「オープニング」ではないという事実が甚だしくも残念に思われてしまうわけで、冒頭に挿入されたあの如何にも胡散臭い「疑似ドキュメンタリー」はやはり疑問、今どきあんなものに何らかの「気分」を促される観客などいるのでしょうか? あるいは、それがつまり「ブレアウィッチ以降」というヤツなのでしょうか?


 以下、覚書を幾つか。

■この映画の「残酷な場面」の多くは案外隠されていて、例えば、チェーンソーが実際人間の身体に接触する場面は一度もスクリーンに捉えられていなかったはず、逃げる男の脚が切断される場面のカット割の記憶が曖昧なのですが、それ以外の場面は、最後の眼鏡の男の股間を切り裂いているはずのチェーンソーはフレームが巧妙に隠していますし、道端で倒れレザーフェイスに馬乗りで切り刻まれているはずの女のそれは、ジェシカ・ビールの視座を借りて少し離れた車中からのロングショットで控目に捉えられているに過ぎません。そのような「隠し」で最も印象的だったのは、ジェシカ・ビールがレザーフェイスの腕を肉切り包丁で何度も「叩く」場面、この場面ではチェーンソーの場合とはむしろ逆にカメラはひたすらにその肉切り包丁がレザーフェイスの腕に接触する場面をアップで捉えるのですが、カメラが対象に寄り過ぎている所為で、観ている側としては状況が今一つ掴めないところがあります。最終的に彼女がレザーフェイスから逃れたところで、カメラが角度を変えた上で少し退いて(私のような勘の悪い人間にも)漸く状況が明らかになるのですが、同様の「退き」のショットが彼女が肉切り包丁を振り回している最中に挟み込まれていれば「より親切」なのは明らか、しかし、これもやはりそうする(そうしない)ことによって直截な描写を回避、意図的にそれを「隠す」ために為された配慮とでも理解するのが妥当なのかも知れません。想起するのは『サイコ』のあの有名なシャワー室のモンタージュ、今ではむしろ残酷さを際立たせているとも評されているあれも、確か、本来的には何かを「隠す」ための意匠だったはずです。ともあれ、その意味では、この映画は案外「上品」なのではないかとも、勿論、冒頭の脳天を潜り抜けるカメラを例外として。

■最後の方の自動車のエンジンが掛かるか掛からないかのサスペンスの場面、あれはしかし「失敗」だったのではないでしょうか? 具体的に何がどうだとは指摘できないのですが(多分、運転席の撮り方やカットバックの仕方が間違っているのだと思います)、少なくとも私の目にはジェシカ・ビールがトラックの運転席にいるような錯覚はまるで起こらなくて、故に、運転手がトラックに近づいていくショットとジェシカ・ビールがエンジンと格闘するショットのカットバックが何一つのサスペンスも生起し得ていなかったというか、むしろ明らかに間違った場所に近づいている運転手の様子が単なる「間抜け」に見えてしまいました。

■やはりジェシカ・ビールがエンジンを掛ける別の場面。「一体何処でそんなこと覚えたの?」と訊く女友達に彼女は「少年院よ」と答えるのですが、そのときの女友達が特に表情を曇らせるでもなく無反応だったのは実に「勿体ない」ことのように思われました。女友達がもっと意外そうな反応を見せれば、その場面に得も言われぬ「暗さ」が持ち込まれたのではないかと、状況が状況だけにとは言い条、その「暗さ」は間違いなくその状況本来の「暗さ」をさらに増幅することになったはずです。勿論、それがその女友達にとって既知の事実に過ぎないなど「演出」としては最悪でしょう。

■トレイラーハウスにいた太った女性は多分「特殊メイク」なのだと思うのですが、否、もしかするた単に私の思い違いなのかも知れないのですが、もし私のその認識に誤りがなければ、それはしかし非常に「貧しい」ことではないかと、あのくらいの体形の女性などアメリカには幾らでもいるのでしょうから、オーディションでもして「本物」を集めるべきだったのではないかと。

■ジェシカ・ビールがタンクトップの下に確りとブラジャーをしていたのは余り「70年代的」とは言えないでしょう。別によからぬ期待をしていたわけでもありませんが、リアリズムの観点からつまり…、否、何らか不都合があるのなら、タンクトップの色(劇中は白でした)を変えてでも「ノーブラ」に拘るべきではないかと、あるいは「70年代」に対する私の「過剰期待」でしょうか?

■最近よく見掛ける「冷蔵庫の中からのショット」がこの映画の中にもやはりあったのですが、あれを最初にやったのは誰なのでしょう? 他の場合は何となく間が抜けている印象も持つのですが、ホラー映画の場合は、その視座の意外性がそのまま状況の不気味さに貢献しているという意味で、それなりに効果があるようにも思われます。


 さて、既述の自動車のシークエンスに始まるこの映画(の本編)は、その緊張感が見事に持続されている「前半」は非常に面白いのですが、しかし、或る状況を境として始まる「後半」は余り面白くありません。或る状況とはつまり、ジェシカ・ビールがレザーフェイス一家に終には捕らえられ、あの鉄扉の向こう側に抛り投げられるというそれ、地下室で展開される「ピアノの場面」など確かに面白いとは思うのですが(ジェシカ・ビールは男に請われてその腹を刺すのですが、しかし、現実問題として、あれでは直ぐに絶命したりはせず、むしろ余計に苦しむことになるのではないでしょうか?)、地下室のシークエンス自体が全体から見て何となく「小休止」という印象、物語外部からの「抑圧」を感じないでもありません。何れにせよ、自動車が停止することに始まり、ひたすらにその場所へと「誘導」されていた、その不条理さが「恐怖」を煽ってもいた前半とは打って変わって、その「小休止」を挟んで以降は、ジェシカ・ビールがその場所からひたすらに遠ざかる(生き延びる)ことに物語の主眼が置かれることになるわけで、私の印象では、それを境にこの映画の「ジャンル」自体が変質してしまったのではないかとさえ、彼女が如何にも「エイリアン以降」のヒロインにありがちな勇猛さを発揮することをして、例えば「ホラー」から「アクション」への変質であるとか、今どきの(面白くない)アメリカ映画には珍しくない、言うなれば「ダークキャッスル的」なパターン(≠ジャンル)を踏襲しているようでもあり(つまり『ゴシカ』や『ゴーストシップ』のような)、これが「リメイク」であれば尚さらのこと、此処にそのような「現代性」が持ち込まれていることに、然したる根拠もなくそれと向き合うものにあるべき態度として或る種の「冷淡さ」を要請されてしまった、と。そもそも最近のアメリカ映画をそれなりに観ている人なら、この実質「1対1」に転じた「後半戦」の勝者が誰になるのかなど容易に想像がつくはず、否、別に「予定調和的」であることが悪いと言うのではなく、状況がひたすらジェシカ・ビールを「逃がすこと」に加担するその「無邪気さ」がどうにも白けるのです。大人達から邪険に扱われたあの薄気味の悪い子供が(そのような伏線は一応あるにせよ)突然「普通の子供」に転じてジェシカ・ビールに逃げ道を示唆したり、あるいはあの眼鏡の男、可哀想な話とは言い条、彼がジェシカ・ビールを逃がすための「時間稼ぎ」の道具として利用されるであろうことなどもはや誰の目にも明らか、ガソリンスタンドに一人取り残された赤ん坊にしても然り、ジェシカ・ビールに然るべき道を開くべく、まるでテレビゲームのように「アイテム」が其処彼処に転がっているという「天真爛漫さ」を目の当りにしては、もはや「サスペンス」など期待すべくもありません。理想を言えば、この類の映画に於いて各人が与えられる時間はなるべく「均等」であるべき、今どきは大抵が女性である「最後の一人」に特権的に(より長い)時間が与えるられる理由などそもそも何処にも、冒頭の自動車のシークエンス、あの執拗に引き延ばされた時間が若者達の運命をひたすらに留保する態度だったとするならば、この引き延ばされた「後半戦」に留保されているのは、既にすべてが決定された其処で「映画が終わること」に過ぎないと、観客はひたすらにそれを「待たされる」のです。

 公開初日の土曜日の午後、客席は7割方でしょうか。上映終了後、私の隣に座っていた二十代後半と思しきカップルの男性の方が、予め買っておいた缶ジュースを飲み損ねてしまったことを頻りに悔やんでいたのですが、その事実はつまり、この映画が所謂「ポップコーンムービー」よりは幾らか真剣に観られる類の映画であったことを示唆しているのかも知れません。尚、この「リメイク」を語るに於いて、やはり旧作と比較したくなるのが人情というものなのだとは思いますが、しかし、そのように語っている人達の多くが専ら旧作を絶賛することにその労を費やしているに過ぎないという蹉跌を繰り返しているのなど眺むるに、とても「生産的」な所作には思えなかったので、何となく止めておくことにしました。そもそも私はビデオなりで改めてそれを観直さなくては旧作についてロクに語ることもできませんし、この「リメイク」を語るそのためにそれを改めて観直すなど、それこそ「生産性」の欠片もない所作であろうと、そんなこともまた思いました。


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