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エレファント
監督:ガス・ヴァン・サント
2004年3月27日(シネセゾン渋谷)

 フレームの余白に



 両脇の幕が中央に迫ってスクリーンがスタンダードサイズに設定され其処に「エレファント」の文字が映し出される、客席の何処からともなく溜息が漏れたのは多分気の所為ではなかったのでしょう。むしろテレビに奪われた格好のこの映画本来のスクリーンサイズに不満とも取れる溜息が漏れるのは、今どきこのサイズで上映される新作映画など滅多にないから、「映画」を観に来たつもりの観客が肩透かしを喰らってしまうのも無理もないのかも知れません。尤も、今どきはテレビのサイズが横に拡がりつつありますから、私などはこの機会に「映画」がこれを奪還すべきではないかとも、否、然したる根拠もないのですが、何を映すにせよ、やはりこのサイズが最も「自然」なのではないかと思っています。ともあれ、観客の溜息と共に始まったこの映画、何よりも驚いたのがそのフレームの不自然さだったというのは皮肉な話です。特に固定気味のロングショット、例えば、アメリカンフットボールの練習風景を捉えた場面など明らかに不自然で、観ていてフレームの外に隠れているものが気になって仕方がありませんでした。言うなれば、本来ヴィスタサイズのそれをテレビ抛映用に(かなり下手糞に)トリミングしたような感じ、具体的に何がとは指摘できないのですが、それなりに映画に慣れている(つもりの)人間の目から見て、其処に本来映っているべき何かが間違いなく欠落しているという印象なのです。その意味に於いては「不自然」と言うよりは「不完全」であると、そして、これが確信犯的な所作であるのは言うまでもないこと、私が感じた気持ち悪さ、もどかしさの印象は予め企図されたものに違いありません。これが其処に捉えられた若者達の「或る運命」に関する映画であることをすれば、其処に不自然に隠されたもの、余白(余黒)によって補われるフレームの不完全さの意味は自明のことでしょう。

 私が「スタンダードサイズを奪還すべき」と思う理由の一つは、今どきはそれよりも横長のスクリーンサイズで上映されているものであっても、むしろそのサイズを持て余しているような映画が多いようにも感じられるから、特に「シネスコ」など、何のためにそのサイズが選択されているのかよく分からないような映画も少なくありません。そもそもスクリーンの幅が横に拡がっていったのは、後発でありながら受像機が家庭に入り込むことによって映像媒体としての地位を映画から奪いつつあった「テレビの脅威」に対抗するため、故に、元来はその極端に横に長いサイズに相応しいよう其処により多くの人間やより多くの馬を映すことが企図されていたに相違なく、実際その初期に於いては「スペクタクルもの」がそのサイズによってより多く撮られてもいます。従って、今どき好まれる「ミニマル」な映画が「シネスコ」で映されるなど本来的には相当に矛盾しているわけで、其処に見事に「不在」を映したポール・トーマス・アンダーソンのような優れた映画作家でもなければ、やはりスタンダードサイズで撮っておくのが無難なのです。ウディ・アレンの『マンハッタン』などは「ミニマル」な物語を「シネスコ」でそれなりに上手く撮った映画の一つと言えますが、しかし、あの映画にしても、ともすれば「構図主義的」な嫌らしさを感じてもしまうわけで(そのサイズが選択された)必然性の印象は何処までも希薄です。この『エレファント』と題されたフィルムが其処に映すものが一体どのスクリーンサイズに相応しいのかなど分かりはしませんが、この不本意にトリミングされてしまったかのようなフレームの不完全さは、あるいは其処に「不在」を置くことによってフレームに調和をもたらしたポール・トーマス・アンダーソンの真逆を行くようなスタイルであるとも、否、其処に「(物理的な)余白を置いている」という意味では、むしろそのスタイルがより先鋭化したものだと指摘すべきなのかも知れません。つまり、我々はスクリーンの両端に予め置かれた余白(余黒)ごと一個のフレームとして認識し、其処に「余白が在る」という些か変則的な状況を常に意識に置いておかなくてはならない、予めスクリーンに書き込まれた余白、それは我々の人生がその傍らに常に「余白」を抱えているのにもまた似ています。我々が「運命」だとか「未来」だとか呼んでみたりもする未だ書き込みの為されていない人生の余白、もし仮に其処に何かが書き込まれているにしても、しかしそれを「読む」など決して能わない「暗闇」が、此処に於いては、その不完全なフレームを正しく埋めているのです。

 ジョンがハンドルを握る自動車、カメラは助手席で所在なげな父親のみを其処に捉え、ジョンはフレームの外に取り残されます。ミシェルに何事か説教をする体育教師もフレームの外に、そして何よりも、此処では彼らの「運命」を峻別する者たちの姿がフレームの外に置かれているのです。「撃つ者」と「撃たれる者」がフレーム(ショット)を分けるのはこのスクリーンサイズの言わば必然、なるほど、それらを然るべく連続させることによって正しく因果関係が成立するものの、しかし、「撃たれる者」のフレームのみを切り取ってしまえば、凶弾はあくまでも予め其処に置かれた「暗闇」から、誰がそれを発したのかすら然して重要でないようにも思われてしまいます。それが最も端的に表れているのがアレックスがエリックを撃つ場面であるというのも皮肉な話なのですが、物語的な予感がまるでない分、その「唐突な死」が人為によるものであるという印象すら遠ざけてしまいます。「撃つ者」と「撃たれる者」が同一フレーム内に収まり、其処に「未だ発砲されていない瞬間」が確実に在る、その持続された緊張感は物語に或る種の「豊かさ」をもたらすものの、しかし、此処にはその類の「豊かさ」などまるで無用、生と死は不断の連続体験であり、「死ぬ」という恰もそれなりの質量を伴うかのような「儀式」など実は物語の中にしかない、彼らにせよ私にせよ、常にその「フレーム」に余白を残し、「フレームアウト」するかの如くにその余白に溶けていく、「死」とはそういうものではないでしょうか。可視の領域が狭められたフレームの余白に不確定な未来を暗示し、その「分断」を以て果たして訪れた未来すら因果の知れぬ不条理と知らしめてしまう、此処に於けるスタンダードサイズのフレーム(の使い方)が実に斬新で優れたものであると指摘できる所以です。

 此処に於いて、それが果たして誰の耳に届いているものなのかすら曖昧な、およそ「ノイズ」にも等しい「音」もやはり印象的、それは、その「音」と共にフレームに収められた人物がまるで「世界」の外にいるかのような印象を与えもします。図書館でミシェルの耳に届いてしまったあの音、故に、その「世界」に於いて唯一「確か」だったと指摘できてもしまうその音が、不幸なことに、彼らとその「世界」を繋げてしまったと言えるの知れません。その意味に於いて、ベートーベンのあの叙情的なフレーズは如何にも余計だったとも、ダルデンヌ兄弟やペドロ・コスタのような「ストイシズム」にはまだまだ遠いようです。

 さて、不確定で曖昧でそして恐ろしい「何ものか」をフレームの外もしくは予め其処に置かれた余白に見事に書き込んだ、それ故に称えられもするのであろうこの映画が、しかし、その狭いフレームに不用意にも書き込んでしまった幾つかのものによって、同時にその「凡庸さ」をもまた指摘されてしまうのであろうことは甚だしくも残念です。「エリーゼのために」の転調に合わせて此見よがしにカメラが近づいていく先で興じられる「パソコンゲーム」、あるいは「ナチス」の記録フィルムを映したテレビ画面を中央に置いたそのフレームに紛れ込んでくる「インターネット」で注文された銃器の宅配トラック、そして、校長を相手に垂れ流される「いじめ」の講釈、否、確かにそれらの指摘は至極「正しい」のかも知れず、フレームの内に一つの「答え」を示してみせるのもやはり「映画」のあるべき態度と言えるのかも知れません。しかし、この映画が何に基づいて制作されたのかを知らぬものなどいないことをしても、むしろそれらこそ積極的に「フレームの外」に抛置して構わないのではないのかともまた思うわけで、確かに、不条理で不気味な「死」を特権的にフレームに収めるなど、これは間違っても『テキサス・チェーンソー』のような「ホラー映画」ではないのですから、どれほども「社会的」な営為とは言えないのかも知れませんが、しかし、逆にそういったものをフレームの内に無造作に抛り込んでおけば然るべき「社会性」を得るのではないかというそれも所詮はありがちな錯覚に過ぎないのではないかと、それは恰も、其処に列挙された幾つかのものがこの世の中から消えてなくなれば、若者達の「不条理な死」もまたこの世の中から消えてなくなるとでも言いたげな酷く間抜けな楽観主義のようにすら思われてしまうのです。三度反復される廊下での擦れ違いのシークエンス、あのフレームの余白に書き込まれた未来の差異を暗示するかのようなそれが、しかし、フレームの内に易々と書き込まれた、例えば「インターネット」にその「答え」を譲ってしまうなど、やはりどう考えてもあり得るべきではないのです。だから、この映画は反米の機運高まる欧州のとある「文化国家」で帳尻合わせのように映画賞を受賞してしまう程度の作品にしかならなかったのではないかと、抛って置いても「映画の外」に囂しい言説は映画の外に、それが何ものによるのであれ、あるいはそれがいつの時代であれ、青春を謳歌する若者達が不当に「搾取」されるその姿は、それだけで既に十分「政治的」なのですから。

 公開初日の土曜日の午後、ほぼ満席でした。上にも書いた通り、フレームの横幅が狭くなって其処に本編が映されたときには観客席から溜息が漏れていました。同じことは『ピストルオペラ』を観たときにも体験しました。ところで、酔っ払いの蛇行運転は言わずもがな、ミシェルが室内運動場を通り抜けるときのフィックスのロングはカサヴェテスではないでしょうか? 彼処にベン・ギャザラとピーター・フォークとカサヴェテスを置いてバスケットボールをさせればそのまま『ハズバンズ』の一場面になるような、否、私の単なる「思い込み」なのかも知れませんが。あと、ステディカムで一定の距離を置いて人物の背中を追い掛ける一連のショットは、今どき流行りの「疑似ドキュメンタリー」と言うよりは、スタンリー・キューブリックが主に「サスペンス」に於いて用いていた手法を先ず想起しました。


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