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ルーニー・テューンズ バック・イン・アクション
監督:ジョー・ダンテ
2004年4月3日(シネマミラノ)

 砂に書いたラブレター



 これは多分有名なエピソード。『バットマン&ロビン』の中にバットマンが高層ビルから颯爽と飛び降りる場面があって、その場面は勿論、CGで描画/合成されたバットマンがジョージ・クルーニーの「スタント」を果たすわけなのですが、しかし、その映像を見た彼は怒り心頭、その場面自体が「お蔵入り」になってしまったのだとか。バットマンが高層ビルから飛び降りること自体は何の問題もなかったのですが、ジョージ・クルーニーが問題視したのはそのあと、地上に着地したCGのバットマンがほんの数歩、時間にして1秒にも満たないくらいの間、暗い夜の舗道を普通の人間とまるで違わない動作で歩き出してしまうのです。高層ビルから飛び降りることは許せても、しかし、舗道を歩くことは許せない、CG製作者の親切心が血筋の正しい映画俳優のプライドを傷付けてしまったということなのでしょう。アメリカのCG映画に登場するキャラクターは、日本の(これは映画というより専らテレビゲームの話になるのですが)CGキャラクターと比べると、何処となく垢抜けないところがあって、それは多分、日本に於けるそれの多くがより生身の人間の姿形に近付けようとしているのに対して、アメリカ映画の場合は、そのような意識が希薄と言うか、そのような意識はむしろ積極的に遠ざけられているフシもあって、故により「アニメぽい」造形であったり偸閑な「異形」であったり、あるいはその身体運動に於いて生身の人間とは明らかに一線を画するようなものであったりするわけです。要は徹底した「棲分け」が為されていると考えられるのであり、殆どの映画俳優がジョージ・クルーニーが抱いたのと同様の「危機感」を抱いているのであろうことをすれば、例えば坂口博信の『ファイナルファンタジー』のような、その姿形や挙動が生身の人間と殆ど差別化されていないCGキャラクター達によって一本の映画が作られるなど、あるいは、アメリカ映画に於いては今後もあり得ないことなのかも知れません。否、それどころか、今どきは『トゥームレイダー』や『バイオハザード』のように、そもそもCGキャラクターをそのオリジナルとする「物語」が、生身の人間がそれに置き代わることによって一本の映画になってしまうことも珍しくないわけで、それが巧妙な「意趣返し」なのかどうかは知りませんが、先進の技術はあくまでも人間に奉仕するものであってその地位を奪うものではないというそれなりに健全な意識を彼らが持ち続けているのは確か、勿論、それは決して悪いことではありません。

 上の話を思い出したのは、この映画の序盤、ワーナースタジオのオープンセットでの一連のシークエンスの中に、バットマン(のスタント)がまさにビルから飛び降りようとする場面の撮影風景が持ち込まれていたから(その場面ではロジャー・コーマンが監督役を演じています)、勿論、その場面を見て私が上のエピソードを思い出したというだけの話であって、実際、それが上のエピソードを踏まえた「皮肉」なのかどうかは分かりませんが。ともあれ、精緻なCGどころか、二次元のアニメーションがそのまま実写に貼り付けられているに過ぎない(合成の技術は相当に高度なのだと思いますが)この「異種混合映画」が、少なくとも映画俳優に失業の危機を抱かせることがないのは確か、「今どきこんなことを」と思うのは観客の勝手なのであって、俳優達にしてみれば、もしかすると、こういう映画だからこそ安心して、何に憚ることなく出演できるという事情もあるのかも知れません。

 考えてみれば、ジョー・ダンテの代表作ということになっている『グレムリン』というカップル向けのクリスマス映画も異様なほど「引用」の多い映画だったわけで、テレビには『素晴らしき哉、人生!』や『ボディ・スナッチャー』(ドン・シーゲル)の黒白映像が映し出され、フィビー・ケイツは『裏窓』のジェームズ・スチュワートのようにカメラのフラッシュでグレムリンを追い払う、包丁を握り締めるフランセス・L・マッケインの異様な姿はまるでヒッチコックかアルジェントの映画のようですし、映画のクライマックスは「ショッピングモール」でグレムリンが「チェーンソー」を振り回す、等々、それらが「オマージュ」なのか「映画的記憶」なのかは私の知るところではありませんが、そう言った意味も込められた監督の「遊び」であるのは多分間違いのないところ、否、その表現に語弊があると言うのなら、監督自身がそれを「愉しんでいる」とでも言い直しておきましょうか。何れにせよ、同様の「遊び」は、件の「ロジャー・コーマン」や『グレムリン』にも登場した『禁断の惑星』のロボット、あるいは、わざわざ画面を黒白にして見せた『サイコ』の引用(カラーだとガス・ヴァン・サント版の引用になってしまうからなのかも知れません)等々、この映画にもますます過剰に盛り込まれているわけで、その「過剰さ」がもはや異常ですらあるのは、これが『グレムリン』などよりもさらにその「対象年齢」が低く見積もられた映画であるから、パンツだけを連れて行くロケットに莫迦笑いする小学生が「ロジャー・コーマン」など(多分)知るはずもないのです。同伴の父兄を愉しませる配慮にしても些かマニアック、この壮大なる「空騒ぎ」が(蓮實重彦が指摘するように)「アメリカ映画批判」であるのなら尚のこと、それを「読み取れる」人間がこの映画の観客席にどれほどもいるとは、あるいは皆無であっても別に驚きはしません。宛先のない手紙、砂に書いたラブレター、それでも、其処に確りと明記された差出人の名前だけは記憶に止めておくべきなのかも知れません。

 ジム・ヘンソンの幾つかの「マペット映画」もそうなのですが、この類の映画が幾分複雑な「入れ子」の構造を持つ傾向にあるのは、カーミット・ザ・フロッグやバッグス・バニーが「映画中映画」から果敢に抜け出したところで、しかし、彼らは相変わらず「カーミット・ザ・フロッグ」であり「バッグス・バニー」であることを止めたりはできないから、例えば、ティモシー・ダルトンが「ダミアン・ドレイク」であることを止めるのは容易でも、彼らにはそれと同様のことなど到底できないわけですから、予め強固なその記号的属性をむしろ逆手に取って、(それ故に)入れ子状に複雑化された物語空間を縦横無尽に、何の苦もなく駆け抜けることになるのです(その意味に於いて、カーミット・ザ・フロッグが「ボブ・クラチット」を大真面目に「演じて」しまった『マペットのクリスマスキャロル』は、それが面白いかどうかはともかくとして、革新的な試みだったとは言えるのかも知れません)。従って、此処に於けるバッグス・バニーやダフィー・ダックと言ったカートゥーン・キャラクター達がこの物語に何らか貢献することなどまるでなくて、此処に辛うじて「在る」と言える物語は、ブレンダン・フレイザーが父親の危機を救うためのものであったり、ジェナ・エルフマンが自らの失職の危機を回避するためのものであったりと、専ら積極的に何かを「演じて」いる人間(俳優)達の行動によってのみ生み出されるのであり、確かに、ダフィー・ダックが「失職」という状況を「演じる」それは此処に間違いなく一個の物語を生むことにもなるのですが、しかし、彼は早々にも「復職」を諦めることによって、その状況を「演じる」ことを止めてしまい、同時に彼は物語からひたすらに遠い存在へと自らを転化させることになるのです。彼らは、物語的に言えば、それらの人間達に「同行」することによってひたすらにスクリーンの「余白」と音声の「切間」をその荒唐無稽な動作によって埋め尽くすことにのみ意義を発揮し、80分もすれば予定通り終わってしまう物語の進行を妨げることなく、かと言って、無様に物語に回収されてしまうこともなく、そして、何を「演じる」ことすらなく、見事に彼らの役割を果たし切ってしまうのです。彼らは「マペット映画」に於けるカーミット・ザ・フロッグがその「入れ子の構造」に甘んじて、ともすれば「カーミット・ザ・フロッグ」を「演じて」しまうかのような「失態」は徹底して回避するわけで、従って、彼らの振る舞いは何処までも「軽薄」で、其処に何を生み落とすこともない、故に、仮にこれが「子供向け」の映画であるにしても、「教育的」でなどまるでないのです。そして、カートゥーン・キャラクター達による「空騒ぎ」と人間達による控え目な「物語」が、非生産的であればあるほど、ジョー・ダンテの誰に宛てたとも知れぬ「ラブレター」が、その文字を鮮明に浮かび上がらせてくることにもなるのです。

 公開2週目の土曜日の午後、客席は半分も埋まっていませんでした。しかも、その大半はシルバー料金で入場していると思しき高齢者、本来の対象であるはずの「子供」など影すらありませんでした。都内での上映は二館のみで、そのうちの一館、私が観た歌舞伎町のシネマミラノは何故かいまだに上映が継続されている『ラストサムライ』との併映、午前中と午後一回のみの上映となっています。加えて、国内では「日本語吹替版」のみの上映と、かなりのいい加減に扱われているようなのですが、それもしかし致し方のないところなのかも知れません。内容的にとても子供向けとは言えない「子供映画」ですし(実際子供など何処にも見当たりませんでした)「興行」を第一に考えれば、多分、かなり扱いの難しい映画なのでしょう。


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