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ディボース・ショウ
監督:ジョエル・コーエン
2004年4月11日(ヴァージンシネマズ六本木ヒルズ)

 切り返しのメロディ



 左にジョージ・クルーニー、右にキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、赤と白の派手な模様の壁を背景に二人が並んで立っている、そのショットはこの映画の宣伝用のスチールとしてポスターなどにも使用されていますから、まだこの映画を御覧になられていない方にも御馴染のものに違いありません。映画を観れば分かりますが、これはラスベガスのホテルでのエレベーターの中の場面、否、そんなことは別にどうでも良いのですが、では、何故このショットが宣伝用のスチールとして選ばれたのか、もしかすると、それもこの映画を観れば容易に知れることなのかも知れません。実は、この映画にはこれと同様のショットが殆どないのです。つまり、主演の二人を同じフレームに収めて、しかもそれなりに「絵になって」いるショットが何処にも見当たらないと、ハリウッドの「豪華二大スターの共演」が謳われている映画にしては、些か「異常」な事態です。何故そのようなことになってしまっているのかと言えば、物語的にそもそも二人が「(緩やかな)敵対関係」にあると言うのも確かにそうなのですが、しかし、一番の理由は二人の対話の場面の殆どが「切り返し」によって編集されていることに、エレベーターの場面は全体からみてむしろ「特異」な印象すらあります。勿論、レストランでの場面等、テーブル越しの対話の場面でも所謂「2ショット」もあるのですが、しかし、それはあくまでも状況説明の必要から「切り返し」の前後に、言わば「作法」として挟み込まれているに過ぎなくて、此処に於ける遣り取りの基本はやはり「切り返し」なのです。ちなみにハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』や『ヒズ・ガール・フライデー』のDVDのジャケットに用いられているスチール(これが公開当時のポスターなりを参照したものなのかどうかは分かりません)もやはり同様に主演の男女が横並びになっているもの、これらの作品を引き合いに出すのは、この『ディボース・ショウ』が、ホークスのこれら二作品がそうであるような主に30年代のハリウッドで流行った「スクリューボール・コメディ」というジャンルを踏まえた映画であるから、実際、監督の念頭にも当然これらの作品があったに違いありません。しかしにも関わらず、ホークスのそれらとコーエン兄弟のこれが「似ても似つかない」という印象を受けてしまうのは、前者がそのスチールからイメージされる通りの映画であるのに対して、後者は、既述の通り、エレベーターの場面に辛うじてそれを見つけられるというくらいに同種のショットが少ない映画、瑣末なことのように思われるかも知れませんが、これはその「スクリューボール・コメディ」というジャンルを考える場合、非常に重要なことの一つではないかと思っています。

 常識外れの行動、警句調の毒舌、そしてプロットの重要な要素のひとつに男性対女性の葛藤を含んでいること。普通、上流階級の人物たちを描き、そのため贅沢なセットや衣装がしばしば見所の一つになる。(中略)その前の時代のスラップスティック・コメディーとは対照的に台詞の占める比重が非常に大きい。(当サイト内「映画用語集」より)

 スクリューボール・コメディというジャンルの特徴は大凡上記の通り、確かに、コーエン兄弟のこの新作はその特徴の通りの映画です。しかし、それでもやはり首を傾げたくなるのは、此処に「切り返し」が多用され、対話する男女の両方が観客席に顔を向けたまま一つのフレームに収まることが殆どないから、それはホークスのそれらが偶々そうであるからということでは勿論なくて、「台詞の占める比重が非常に大きい」というこのジャンルの特徴の一つと「切り返し」という商業映画ではおよそ空気のような編集技法の相性が良いとは余り思えないからです。実際、コーエン兄弟は主演の二人に「マシンガンのように」とその台詞回しを指示いるようなのですが、ただ単に「台詞の占める比重が非常に大きい」というだけではなく、早口で捲し立てるような、そして「リズミカル」な台詞回しがまたスクリューボール・コメディの特徴でも、つまり、台詞の主が切り替わる度にわざわざカットを割っていたのでは、とても「リズミカル」になどなりはしないのです。勿論ホークスのそれにも単純な「切り返し」はあるのですが、言葉の遣り取りが激しくなってくると、それまでは相手と向き合って椅子に腰掛けていた人物が徐に立ち上がって相手の脇(同時に一つのフレームに収まる位置)に移動し、カットを割ることなく延々と対話が持続されることになります。また、対話がよりテンポ良く聞こえる意匠として「台詞を重ねる」ということも、つまり、Aの台詞が終わりきらないうちにBがそれを受けた台詞を発してしまうという、それは現実にはとてもあり得ない、如何にも「演出臭い」動作なのですが、しかし、其処に於いて重要視されるべきが中途半端な「現実感」ではなく「テンポの良さ」であるのは今さら言うまでもないことでしょう。この演出方法に倣っていると思われるのがウディ・アレンのあの饒舌なコメディ、実際、彼の映画には「切り返し」が殆どなくて、台詞もやはり重なっています。彼の映画に登場する彼自身を始めとした饒舌な人物群を見ていると、むしろ「とてもカットを割っている暇などないな」とさえ思ってしまいます。

 コーエン兄弟は何故「切り返し」を好むのか? 否、正直に言ってそんなことは私には分かりません。ただ、これは誰でもそうなのだと思うのですが、「切り返し」のそれぞれのショット(主に話者のクロースアップ)を見る場合、スクリーンの何処により観客の目が行くかと言えば、それは専らその人物の「眼」ではないかと。「切り返し」に於いて重要なのが「眼差」であるのは言うまでもないこと、其処にいるはずの相手がスクリーンに捉えられていないのですから、その相手が誰で、その人物が何処にいるのか、あるいはその台詞が決して独言ではないと保証し得るのは(勿論、文脈から容易に想像できる場合が殆どであるにせよ)やはり話者の眼差なのであって、従って、演出上もそれがより重要になるはずです。勿論、同一フレーム内に二人を収めてしまう場合でも「相手の目も見てものを言う」というのが対話の基本なのでしょうから、眼差はやはり重要なのですが、特にスクリューボール・コメディのような「台詞の比重が高い」状況では、しかし、必ずしもそうではなくて、実際、ホークスのスクリューボール・コメディやウディ・アレンの饒舌な映画では、話者が相手の顔などまるで見ないで言葉を発することが屡々、特別な意味でもない限り(「切り返し」の必然として)必ず相手の目を見て言葉を発するこの映画とはやはり随分と違っているのです。此処に於いて、予め断絶した空間を眼差が繋ぐというそれは、主演の男女二人の対話の場面に止まるものでもなくて、例えば、ジョージ・クルーニーが「愛」について演説をする場面、其処でのカットの割り方もやはり必要以上に眼差に拠っているところがあって、壇上のジョージ・クルーニーとその向かって左側に座っている三人の男、そして、その演説に耳を傾ける聴衆、それら三者が「空間」を共有することは殆どなくて、それぞれに与えられた「空間」の中で、自らの心情を其処に映したその眼差をまた別の「空間」へと向けことによってその「場面=空間」を一つのものとする、否、そんなことは「映画」に於いては当たり前なのですが、しかし、コーエン兄弟の映画の場合、少なくとも私の印象として、それが余りにも過剰なのです。その演説の場面にしても、ショットを工夫すれば(眼差に拠らずとも)幾らでも空間を一つにすることはできるのではないかと、他でもない観客の一人として、そんな「齟齬」をどうしても抱えてしまい、観ていて何となく落ち着かないのです。コーエン兄弟の映画に於いて「眼差」が雄弁なのは今に始まったことでもなくて、これは『オー・ブラザー』のときも指摘したのですが、或る人物が何かを見て驚くような場合、その視線の先にある「何か」にカメラを向けるのではなく、その視線の元、即ち眼差にカメラを向けることによってその「驚き」が説明されると、時には急激なズームアップを、時には急激な首振りパンを、そして時にはステディカムを突進させて、しかし、その行き着く先は決まって(対象を視覚によって認識する人物の)眼差、コーエン兄弟の映画に於いて、それは幾分にも過剰に期待されているのです。勿論、それが「悪い」という話ではなくて、単に私やもしかすると私に似ているのかも知れない誰かが「不快に感じることもある」という程度の話、ただそれが、スクリューボール・コメディという「台詞回しにより重きが置かれたジャンル」を模したのかも知れないこの映画に於いては、その相変わらず過剰期待を背負った「眼差」が、それ故に要請してもしまう「切り返し」によって、此処に或る種の「対話不全」の状況をもまた持ち込んでしまっている(つまり失敗している)ようにも思われてしまうわけで、「それがコーエン兄弟の映画だ」と言われれば、確かにそれだけの話なのかも知れませんが、ならば、彼らの遣り方は少なくとも「スクリューボール・コメディ」には向かないもまた指摘できる、否、やはりこれはそもそも「スクリューボール・コメディ」とは何の関係もない単なる「コーエン兄弟の映画」と考えるべきなのかも知れません。また、此処に於いては、対話する男女は単に向かい合わせに配置されているだけではなく、その間には常に何かしらの「障害物」が、それはただのテーブルであったり、その上に山積みにされたパンであったり、あるいは、ギターを弾きながら陽気にサイモン&ガーファンクルを歌う神父であったり、もしかするとコーエン兄弟にとって何よりも重要なのは、その「歌う神父」や「山積みにされたパン」の方なのではないかとも、其処に「山積みのパン」を置くために男女は(「切り返し」を要するほどにも)その距離を隔てる…、何れにせよ、この映画が、その「幸福な結末」の割には、物語を其処へと導く「フレーム」の一つ一つが何処までも「幸福感」から遠いように感じられてしまうのは、それが口汚い罵り合いであれ何であれ、やはり、彼らが一つの空間を共有する機会(エレベーターの場面のように)にどれほども恵まれていないからではないかと、尤も、それは「コメディ」というよりは、コーエン兄弟が得意にしているとはとても思えない「ロマンス」に関わる問題なのですが。

 それが「蓋付き」である所為で白く輝く「歯」以外のものが隠されてしまう自動車の場面、それは多分ジェフリー・ラッシュが「ボクサー」を口遊む冒頭のオープンカーの場面と対比されるべきなのでしょう。そして、それに続く、其処に「声」のみを残したジョージ・クルーニーが「シャロウ・フォーカス」を潜り抜けて颯爽と登場する一連のシークエンス、それを面白いと思うかどうかはともかく、この「過剰さ」はやはり「コーエン兄弟の映画である」と評するしかないのでしょう。やはり如何にも大仰なシャロウ・フォーカスが駆使された法廷の場面も然り、何度か反復されもする「決め台詞」へと繋がれる一連のショット群にはさすがに食傷してしまうのですが。

 公開二日目の日曜日の午後、ほぼ満席でした。客の中に他の人が笑わないような場面で一人大笑いしている女性がいて、土地柄(字幕に依らない)外国人の客なのかと思ったのですが、気になって上映終了後に確認してみたら、何のことはない単なる日本人、もしかしたら、単なる「少しずれた人」だったのかも知れません。尤も、その話とは関係なしにやはりこの類の映画では原語と字幕のニュアンスにずれを感じてしまう部分が(私に分かるものですら)何箇所かありました。だからと言って、今さら語学に勤しむつもりもありませんから「これはナカナカ難しい問題だ」としか言えないのですが。尚、上の本文を書いた後にネット上で読めるコーエン兄弟のインタビュー記事を眺めてみたところ、この映画の製作にあたって彼らが一番に参照したのはブレーク・エドワースなのだとか。ブレーク・エドワースの作品で直ぐに思い出せるのは例の「クルーゾー警部」のシリーズと、トルーマン・カポーティの原作が「パラマウント的」に翻訳されていた『ティファニーに朝食を』くらいなのですが、前者が「コメディ」で後者が「ロマンス」、しかし、両者を融合したものにもやっぱり見えませんね。


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