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ロスト・イン・トランスレーション
監督:ソフィア・コッポラ
2004年4月17日(シネマライズ2)

 意味に届かない音



 日本に到着したビル・マーレイが空港からホテルへの道すがらハイヤーの車窓を流れていく歌舞伎町のネオンを眺める、この場面が少し矛盾しているのは、彼がそのネオンを左手に見ているから、目的地のホテルは西新宿にあるわけですから、本来ならばハイヤーはその通り(靖国通り)を逆向きに、つまり、ネオンを右手に見るように走らなくてはならないのです。勿論、そんな指摘には何の意味もありませんし、実際そんな矛盾に気が付くのなど日本人にも殆どいないはず、もしかすると撮影(編集)している当人達ですら無自覚だったのかも知れません。何を指摘したいのかと言えば、つまり、撮る側はそのような矛盾を押してでもあの歌舞伎町のネオンをカメラに収めたかったのであろうと、あの毳毳しいネオンが外国人の目にどのように映るのかなど私にはよく分からないのですが、『キル・ビル』のユマ・サーマンもその同じ通りをオートバイで走り抜けていましたし、あの場所とあのネオンが外国人の目に何か「特別なもの」として映っているのは間違いないところなのでしょう。

 オリヴェイラの『永遠の語らい』に関する文章で、其処に持ち込まれた複数の言語の何れもが(その意味を理解できない故に)単なる「音」に過ぎないことをして「疎外感」のようなものを覚えた、と書いたのですが、この映画の場合は、本来が「音」に過ぎないはずのものが、逆に「意味」が理解できてしまう故にむしろ「音」として感覚し辛くなってしまう、否、それは「贅沢な悩み」なのかも知れませんが、しかし、此処に於ける「日本語」は本来的にはやはり一個の「異音」として耳に届くべきもの、それは例えば、日本人の耳にすら異音に聞こえてしまった『シン・レッド・ライン』の日本兵のそれと同じ、これは異境に於ける、看板の文字などまるで理解できない歌舞伎町のネオンがそうであるような「光」と、異音としての日本語がそうである「音」を巡る映画、「意味」に手が届かない故に単なる「光と音」に純化された一個の都市空間をその舞台とした一組の男女の物語なのです。「音」を巡っては、例えば、スカーレット・ヨハンソンが寂しげに聞くジョバンニ・リビシの「鼾」(英語が通じる相手との対話不全もやはりそれが単なる「音」に転じてしまうことによって生じるということでしょう)や、中野の成願寺でやはり彼女が聞く日本人の耳にすら単なる「音」でしかない「読経」、あるいは、所謂「音ゲー」にばかり目(耳)が向く渋谷のゲームセンターのそれ等々、意味の伴う音(英語)を喪失した彼らにはすべてが等しく「音」でしかなく、その状況が彼らの不安を掻き立てることになるのです。故に、彼らはその「音」から逃れるために水の中(プール)に潜り、英語の歌しか流れないホテルのバーへと退避する、あるいは、その存在を煩わしく感じつつも、しかし、意味の伴う音を求める余り、本国に残してきた家族に電話を架けてみると、意味の伴う音を渇望する彼らは、手紙やファックスに記された意味の伴う記号(文字)では何一つも救われないのです。

 ソフィア・コッポラの監督第二作目であるこれは「光と音」に純化された都市空間(東京)と、あの何処を褒めれば良いのかまるで見当も付かなかった前作のキルスティン・ダンストがそうであったようにスカーレット・ヨハンソン(「シャーロット」ではなく)が魅力的であるという以外、あるいは特筆すべきもない映画なのかも知れず、この孤独な男女の仮初の恋愛の物語に「人生」の何かを知ろうなど、間違ってもそんなことを期待すべきではないのかも知れません。差し当たりそんな「評価」を裏付けてもしまうのが、例えば「京都」のシークエンス、そもそも、あの状況に於いてスカーレット・ヨハンソンが何故唐突に京都行きの新幹線に乗るのかがよく分かりませんし(同じ時間にビル・マーレイがそれに向かってゴルフボールを飛ばす「富士山」と同様の「サービス」と考えるのが妥当でしょう)、また、東京から京都へという「空間の移動」が持つ意味は、多分、日本の地理になどまるで疎い大抵の外国人にはまず伝わらないはずです(にも関わらず、彼女が新幹線に揺られているショットを其処に挟んでいるのは案外「誠実」な試みであるとも指摘できますが)。そして、その京都の南禅寺で、彼女は日本式の「婚礼の儀式」を偶々目撃することになるのですが、その彼女は二年目を迎える結婚生活に何となく行き詰まりを感じているわけですから、その状況にも多分それなりの「物語的意味」が託されているはず、しかし、実際それが物語的に正しく機能しているとはとても思えません。同様の指摘は枚挙に遑がなくて、斯様に、脚本賞を受賞しているわりには、物語そのものが優れているとか、その物語状況に適したそれなりに優れた演出が為されているとは、残念ながらとても指摘できないのがこの映画なのです。ただ、彼女が「婚礼の儀式」を目撃するその場面、眼差と対象の単純な「切り返し」によって構成されたその一連のショットが、しかし何故だか驚くほどにも美しくて、実際のその場面の状況がそうであるように、観る者もまた言葉を失ってしまう、そんな美しい場面を多く持つのもまたこの映画なのです。繰り返しておけば、其処に切り取られたスカーレット・ヨハンソンの眼差はあくまでも「スカーレット・ヨハンソン」のそれであって、この物語に従属した、つまり「シャーロット」のそれでは決してないわけで、その意味に於いては、この場面には何らの物語的意味を期待することも能わないのですが、それでもしかし、その場面は観る者の印象に深く残ってしまうのです。同様に印象深い場面は他にも、例えば、冒頭でも触れた歌舞伎町のネオンが眩しい夜の靖国通り、金原ひとみの小説では殺人まで起きたあの場所を、或る場面に於いては、スカーレット・ヨハンソンとビル・マーレイが手に手を取り合って、本当にもう愉しそうに駆け抜けるのですが、あの場所を実際によく知る私に言わせれば、幾らアルコールが入っているとは言え、大概の日本人はあの辺りをあんなふうに溌溂と駆け抜けたりは決してしないわけで、だからと言うわけでもないにせよ、しかし、ただそれだけのことで何かハッとさせられてしまう美しさが其処には確かにあって、それはつまり、彼らがあの場所を駆け抜けた刹那、スクリーンに切り取られた新宿の夜景、あの猥雑な空間が、あらゆる「意味」を喪失し、まさに「光と音」に純化されたということに他ならないのです。

 この映画の良いところをもう一つだけ指摘しておけば、それは、これが外界との対話不全の状況に孤独を募らせる一組の男女の物語であるにも関わらず、その彼らに於いても実はどれほども「対話」が重要な役割を果たしてはいないということ、つまり、不足なく意志の伝達が能う対話(要は英語による対話)の機会が訪れても、彼らは決して堰を切ったように言葉を発したりはしないわけで、対話(意志の疎通)への渇望が、一見してその渇望を拠所に結び付いているかのようにも見える彼らの関係に於いても、しかし、決して解消されることなどなくて、そして、その「解消されない」あるいは「解消をその目的としない」というモチーフが、そのまま彼らの性的な関係に於ける結論にまた密接に結び付いていると、彼らの間ではまさに「対話の道具」である電話がどれほども活用されず、些かロマンティックが過ぎる「演出」とは言え、その代わりにドアの隙間から手紙が滑り込んでくるのです。『甘い生活』を観る場面でも言葉は少なく、ただ其処に二つの身体が横たわるのみ、決して対話によって補われることのない対話不全の孤独、この「冷静さ」はやはり、ソフィア・コッポラを褒めるべきなのでしょう。スカーレット・ヨハンソンを寝かし付けて部屋を出たビル・マーレイがオートロックのドアに何処となく無念そうな表情を浮かべる、そして、諦めて其処から立ち去って行く彼の姿をカメラは真正面から、彼の肩越しにそのドアがいつまでも見えるように捉え続ける、否、悪くありません。

 公開初日の土曜日の午後、或る程度の混雑は予想していたものの、そんな予想を遥かに上回る混雑、どうやらシネマライズの公開初日、二日目の動員数の記録を塗り替えたようです。しかし、既に何度も書いていることなのですが、シネマライズはどうして「整理券制」にしないのでしょう、私は一時間も前から並んで、それでも三分の二番目くらいに漸く入場できたという、「入替制」にしたくないということなのかも知れませんが、滅多にないこととは言え、上映開始の一時間以上も前から客を「並ばせる」と言う映画館側の態度が正しいのかどうか、もう少し真面目に考えてみても良いのではないでしょうか。ところで、この映画の国内公式サイトの「フラッシュ」の表紙に用いられているこの画像、これはこの映画のファーストショットでもあるのですが、既にこの映画を御覧になられた方なら分かるように、この画像には或る修正が施されています。スクリーンで見る修正のないそれは、もっとエロティックです。


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