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永遠の語らい
監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
2004年4月18日(シャンテシネ2)

 母と娘と一艘の船が



 字幕の弊害に付いては折りに触れて書いているつもりなのですが、特にヨーロッパ映画の場合、一つの映画の中に複数の言語が用いられることが稀にあって、それでも、字幕はそれらを何ら差別することなく、当たり前のように等しく日本語によってその「意味」を書き記すに止まる、迂闊な観客はもしかすると其処に複数の言語(音)が流れていることにすら気付かないのかも知れず、それはやはり非常に「不幸」なことです。比較的最近だとジャック・リヴェットの『恋ごころ』というフランス映画、日常の場面がフランス語であるのに対して、断片的に挿入される「劇中劇(=非日常)」ではその台詞にイタリア語が用いられているのですが、しかし、字幕は(何の註釈もなく)等しく日本語で書き記されていたという、フランスでの上映に際してそのイタリア語の場面がどのように処理されていたのか(フランス語による字幕があるのか無いのか)は定かではないのですが、少なくともそれが「非=フランス語」であることに気付かない観客などいないわけで、もし仮に字幕が一切用いられていないのであれば、或る程度イタリア語の素養のある人間でもなければ、その場面の台詞はまるで意味不明なものとして(それ以外の場面とは)明瞭に差別化されることに、日本語の字幕を介して等しくその「意味」を理解できてしまう日本人の観客とは、その一点をしても、その映画に対する印象が大きく変わってきてしまうことは間違いがありません。作家の意図を正しく酌むという意味でも、劇中劇の場面は字幕を削るか、せめて括弧で括るくらいの工夫が欲しいと思いました。勿論、その「意味」を専ら字幕に拠る(語学の素養のない私のような)日本人であっても、純粋にその「音」の違いを聞き分けて、その言語を巡る状況を正しく理解することは可能、実際、私ですら劇中劇のそれがイタリア語と分かったくらいですから、ヨーロッパ映画の上映に駆け付ける奇特な日本人の教養の程度など知る由もないとは言え、現実問題としては何を憂うことでもないのかも知れません。それでも、敢えて「字幕」の弊害を指摘しておけば、それは其処に「意味」を求める余り、紛れもない一個の「音」である言語(原語)を取り零してしまう可能性があるということ(「音」そのものを差替えてしまう「吹替え」など論外)、映画に於ける台詞とは、予め解体された物語内容を再構築するための「パーツ」であると同時に、音楽や効果音同様にスクリーンを埋める「音」の一つでも、字幕はあくまでも前者を補完しているに過ぎないのです。

 この「現役最年長監督」のヨーロッパ映画(ポルトガル=フランス)にもやはり複数の言語が持ち込まれています。ポルトガル語、フランス語、ギリシャ語、イタリア語、そして英語、にも関わらず、何を差別することなく字幕が等しく日本語であるのは相変わらずのことです。それら複数の言語は、或る一つの場面で同時に用いられることになるのですが、その特異な状況がどのようなものなのかは映画を観れば誰にでも分かることですから説明は割愛するとして、(語学の素養のない私のような)日本人がそれを「音」として聞き分けるということで言えば、実際、そのような「配慮」の意味があったのかどうかは知りませんが、比較的親切な作りになっていて、先ずはカトリーヌ・ドヌーヴとジョン・マルコビッチがそれぞれフランス語と英語を用いて対話するという誰の「耳」にも不自然な状況から始まって、次にステファニア・サンドレッリがイタリア語で、イレーヌ・パパスがギリシャ語でそれぞれ言葉を挟んでいくという、尤も、私はギリシャ語を「音」としてすら余りよく知らないことに加えて、イレーヌ・パパスという女優のこともまるで知らなかったものですから、状況から彼女が話しているのが英語、イタリア語、フランス語の何れでもないことだけは確信していたのですが、それがギリシャ語だということは、あくまでも彼女の「乗船地」から推測して、そして後に字幕に書かれた台詞の「意味」を介して漸くと理解できたに過ぎません。繰り返しておけば、スクリーンの隅に書き記された字幕はそれら複数の言語を何ら差別することなく均質な日本語で、後になって(物語的に)その状況の説明が為されますから、その「他言語による対話」の存在をまるで知らずにエンドクレジットの迎えてしまった観客などさすがにいないとは思いますが、例えば、まるで状況を理解していないレオノール・シルヴェイラの小さな娘が唐突にポルトガル語で叫んでしまうという「音」を巡る余りにも見事に演出された「サスペンス」を其処に見出し得なかった(不幸な)観客はもしかするといたのかも知れず、そのような負の可能性に、字幕の「罪深さ」を改めて思い知るわけです。

 それら五つの言語の何れをも母国語とせず、悪平等な字幕を「目で追う」ことに多くを費やさざるを得ないその不幸な立場に、或る種の「疎外感」を覚えてしまったのは多分私だけではないでしょう。オリヴェイラはその五つの言語が補完する「世界」の外側に零れ落ちてしまった人間のことなどあるいは何も考えていないのではないか、その、言葉を発する女優達の魅力も相俟って、余りにも美しい「音の共演」(あるいは「音の共演でしかないもの」)に魅了されつつも、そんな呪詛の言葉を吐いてみたりも。ただ、日本語を母国語とする人間がこの映画と対峙するときに覚える疎外感、それがただの「音」でしかないという不具な状況は、この映画が「意思疎通の道具」としての言語に託した「世界」を眼差す一つの視座を、幾分「変則的」ではあれ、しかし、正しく指摘するものでもまたあり得るのかも知れません。「余りにも英語が堪能なのでイギリス人かと思った」、客船のデッキでレオノール・シルヴェイラに声を掛けたジョン・マルコビッチが漏らすそんな言葉が実に示唆的、客船という一つの「家」にあっては、肌の色が同じなら、その差し当たりの「属性」を切り分けるのはもはや言語でしかなく、あるいは、その言語の障壁さえ乗り越えてしてしまえば、其処には何一つの差別もあり得なくなってしまうと、実際、均質な日本語の字幕によってスクリーンに捏造されてしまった「平等な世界」は、オリヴェイラが演出した「多言語による対話」という摩訶不思議にして美しい一つの状況を待つまでもなく、皮肉なことに、既に彼の「理想」を其処に実現してもしまっているのです。ポルトガル人、フランス人、イタリア人、ギリシャ人、そしてポーランド系アメリカ人と、スクリーンに在る五者を差別するはずのものは、迂闊な日本人によって予め無効に、幾分にも親切過ぎる「状況説明」と彼らが発する「音」の差異が、辛うじて其処に境界線を引いてみせるとは言え。

 此処で「我々」は或る一つの「不誠実」を思い出さなくてはなりません。或る特定の言語によるファシズム的な世界戦略、そう、ヒトラーやスターリンに英語で演説をさせてしまうアメリカ商業映画に於けるあの厚顔無恥な文化戦略です。迂闊な日本人が錯覚してしまう「平等」はともかくとしても、オリヴェイラが一つの理想として示したそれが各々の文化を尊重した上での世界のボーダレス化なら、今どきのアメリカ商業映画に於けるそれは、言語をその基盤として成り立ってもいる文化をおよそ軽んじた態度であり、言語(文化)の傲慢な押し付けによって世界の「画一化」を図ろうとする浅はかな態度、商業主義的に「流通の速やかさ」が第一義とされているのであろうとは言え、その代価として失うものに対する余りの鈍感さは、それが如何にそれ自体として(文化的に)優れていたとしても、それを帳消しにしてしまうほどにも醜く、また「貧しい」ものであると指摘せざるを得ません。そして、それがそのままジョージ・ブッシュによるあの醜い「世界戦略」に符合してしまうのは、オリヴェイラのこれが他でもない「9.11」に触発された映画であるという事実を持ち出すまでもなく、決して偶然でなどないのです。

 さて、そのメッセージ性の「豊かさ」とは対照的に、この映画、即ちショットの連鎖によって何かが形作られる95分間のそれは、驚くほど「シンプル」です。リスボン大学で歴史を教えるレオノール・シルヴェイラとその娘のインドへの道行、その移動は地中海を経由する客船によって、途中停泊の幾つかの都市に彼女らは西洋文明のルーツを再確認すると、物語としてはそんなところ、オリヴェイラが実は彼と同年代であるということに今さらながらに驚いてしますロッセリーニの『イタリア旅行』を想起する人もいるのかも知れません。各々の停泊地では名の知れた古代遺跡の類が何を衒うことなくスクリーンに収められ(例えば「フィックス/長回し」の背景として)、様々な状況を借りて、其処に言語による簡単な解説が乗る、レオノール・シルヴェイラらの視座を借りて、観客もまた西洋文明のルーツを其処に再確認することになるのです。「シンプルさ」として何よりも目を引くのは、客船の停泊地から次の停泊地への「移動」の描写、船のデッキから陸地を見下ろすレオノール・シルヴェイラの視座を借りた切り返しショットと、波を切る船の水押を捉えたショット、そして、遠く海上を漂うその船を捉えたロングショット、基本的にはそれら(の組合せ)の単純な反復であり、リスボン、マルセイユ、ナポリ等々の空間は何れもそれらショット群が明快に約束する「移動(の運動)」を以て繋がれることになります。また、或る意味「間抜け」ですらあるのは、船上のレオノール・シルヴェイラ母娘を捉えたショットとその視座を借りた遠景ショットの反復される切り返しが余りにも単純である故に、それが「トリック」であろうことが容易に知れてしまうこと、眼差とその対象物の現実的な繋がりは言わずもがな(娘の方の視線はまるで定まっていませんし)、真実はどうあれ、レオノール・シルヴェイラが立つ其処が本当に「船上」なのかすら疑わしく感じられてしまうわけです。尤も、そんなことがこの映画の何を損なうわけでもないのは言うまでもないこと、状況説明などシンプルであるに越したはありませんし、無駄に意匠を凝らしたところで、それがフィクションであることを迂闊にも忘れてしまう観客など何処にもいないはず、感情より理性に、ともすれば「平板」に感じられてしまうのかも知れないそのシンプルさが(無駄な意匠に溢れた娯楽映画がそうであるように)感情を直接刺激することはなくても、静かにそして確りと其処に捉えられた「文明そのもの」が、観る者の理性を刺激し知性を育むことに、何を言語化するまでもなく、それは既に「豊か」なのです。そして、この現役最年長の映画作家が決して侮れないのは、ただひたすらに状況を単純化しているだけのように思われたその反復が、まさに執拗に反復されるが故に、その(反復の)「終わり」が持ち得てしまう恐るべき「意味」を其処に際立たせることにもなっているから、船の移動(反復)の終わり(停止)が同時にこの映画の終わりを意味するであろうなど誰にでも予感できたこととは言え、しかし、果たして訪れたその瞬間を想像し得たものが一体何処にいるのか、マンハッタンのあの事件がそうであったように、それは「まるで映画のよう」に訪れるのです。船に引っ張られて海に落ちそうになる犬、邪気もなく隠れるようにプレゼントを買う「男性」、そして、あの優雅な「他言語」のテーブルに六人目の女性として紛れ込んだ、その黒いベールが観る者の不安を否が応にも掻き立てる人形等々、此処に淡々と羅列されるあらゆるイメージは、ただシンプルに状況を繋ぎ合わせているだけのように見えて、しかし、その実は複雑に絡み合い、その絡み合いのうちに何れ訪れる「悲劇」を着々と準備している、それは多分、マンハッタンのあの悲劇や、イラクの人質事件のようなそれらを人知れず準備し、無自覚が演出するその唐突さを以て我々を戦慄かせもする「現実のこの世界」にもまた似ているのかも知れません。我々がこの映画の最後に聞くことになる耳を劈くあの「音」、その「音」の前にまるで無力なのは、その言葉(音)に意志の伝達を託し、ひたすらに「跳べ!」と叫ぶジョン・マルコビッチだけではないのです。

 公開二日目の日曜日の午後、客席には高齢者の姿ばかりが目立ちましたが、八割方は埋まっていたように思われます。ところで、この映画に出ていたステファニア・サンドレッリが『星降る夜のリストランテ』の頃と比べて随分と痩せていたのは、個人的に非常に嬉しかったりも。同じエットーレ・スコラの『あんなに愛しあったのに』が好きな人間としては、その『星降る…』で見た如何にも「イタリア人的」に弛緩した彼女の姿には絶望すらしたのですが、『あんなに…』の頃の愛らしさが戻った、などと言うのは言い過ぎであるにしても、オリヴェイラの「配慮」が行き届いた映像もあってか、その当時と遜色のない印象を受けもしました。フランソワ・オゾンの容赦のないカメラの前では醜さばかりが目立ったカトリーヌ・ドヌーヴにしても然り、あの「テーブル」の豪華さは、ただ其処に大女優を並べたからでは決してないということなのでしょう。


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