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ビッグ・フィッシュ
監督:ティム・バートン
2004年5月15日(新宿アカデミー)

 遠近法の詐術



 この映画のどの場面が一番気に入っているかと訊かれれば、私は迷わず「猫の場面」と答えます。サーカスのテントで天井高く吊り上げられた猫、一体何が始まるのかと思いきや、怖ず怖ずとジャンプして地上に構えられたマットの上に見事に着地する、そもそもそれを「芸」と呼ぶべきかどうかすら怪しい莫迦莫迦しさなのですが、しかし、その猫が示して見せた「命懸の滑稽さ」とでも呼ぶべきものに、父親の語るホラ話、延いてはバートン映画の持つ何とも言えない魅力の正体が隠されているのではないかと、何となくそんなことを思ったわけです。

 二度目のラストシーン、父親の葬儀の場面にその参列者として或る双子の姉妹が登場します。しかし、観客の殆どは、カメラが上半身のみを捉えたその双子を「単なる双子」だとは決して思わないはず、映画の途中で大鼾をかいていた人でもなければ、その理由は今さら此処に書くまでもないことでしょう。肝要なのは、そのような「錯覚」を抱いてしまう原因が、観る者の多くが予め「或るイメージ」を持って対象を見てしまうことにあるということで、つまり、その場面の話なら、殆どの観客は実際にはスクリーンには映されていないその双子の下半身に「或る特定の形状」を当然のように想像してしまうと、ですから、そのような先入観を持たない人間(それは此処で言うなら肝心の場面で大鼾をかいていた人間ということになるのかも知れませんが)の目には多分「単なる双子」にしか見えないはずなのです。同様の場面はこの映画のもっと早い段階にも現われます。それは突如として町に現われた「巨人」を巡って、町長を中心に町民達の間で意見交換が為される場面、その場面の導入部は壇上で演説する町長をその背後から俯瞰気味に、壇上を見上げる町民達を実際以上に「小さく」見せるような撮り方をしています。勿論、これは町民達を小さく見せることに意味があるのではなく、その意味、意図するところは、壇上で演説している町長、その時点ではまだ「町民達と対峙して立っている何者か」でしかないその人物を実際以上に大きく見せることにあって、観る者の多くはおそらくその場面を「町民達の前についに姿を現した巨人と、その巨人と呆然と対峙する町民達」と錯覚するはず、勿論、その錯覚が物語的に何らかの意味を持つことなどなくて、こういうのは映画に於ける一つの「遊び」のようなものに過ぎません。しかし、此処でもやはり、その「錯覚」の因がアングルを凝らしたそのショットにのみあるのではなく、その大前提として直前のシークエンス、全体像が判然としない「巨人」が羊を喰らうというそれが重要な意味を持つと指摘できるわけで、それによって植え付けられた先入観が、常人と何ら違わない町長を巨人に見せてしまうことになるのです。予め植え込まれた「先入観」と現実を切り取る或る作為的な「角度」、現実を捉えつつ現実を「虚構化」してしまうトリックの一つです。

 ユアン・マクレガーが迷い込んだ「スペンサー」の少女(ジェニファー)が彼に面白いことを言います。18歳のマクレガーと8歳の少女、10年後には28歳と18歳になり20年後には38歳と28歳に、其処で彼女はこう言うのです、「だんだん歳が近くなるね」と。これは別に珍しい感覚でもなくて、よくある話で、例えば、16歳と30歳の俗に言う「歳の差カップル」には驚いても、それが35歳と49歳なら然して驚かないというのと同じ、同じ年齢差でも或る程度以上の年齢を超えてしまうとその差には余り意味がなくなってくる、理由はどうあれ、そんなふうに感じている人は少なくないはずです。ただ、その感覚自体は在り来たりなものであっても、そのような感覚とはつまり、同じ1年間でも18歳の人間が体験する1年間と40歳の人間が体験する1年間には、その質の問題として明らかな差異が存在し、年齢を重ねれば重ねるほど一般にその質は低下していくという発想に基づいているのだと思われるのですが、それはしかし、自らが自らの人生を貧しいものと見做してしまっているかのようでもあり、今さらの話とは言え、何となく寂しい発想のようにも思われてしまいます。人間は歳をとるに連れて次第に「現実の時間」をしか生きなくなる、18歳のときには間違いなくあった「プラスαの時間」を、48歳の人間はもはや持つことができない、勿論、そんなのはその人間の生き方次第でどうにでもなるはずなのですが。ともあれ、この映画に於ける少女のこの発言に興味を惹かれるのは、それが一つ上で述べた「虚構化のトリック」にもまた似たものであるから、同じ年齢差、同じ1年間でも立場を違える、それを眼差す角度によっては長くなったり短くなったりと、まるで違ったものに見えてくる、そして、それは同時にまた人間は年齢を重ねるに連れてもはや或る種の「虚構」を生き難くなることをも指摘、取り分けこの映画に於いては、これは実に示唆的な発言なのです。

 勿論、私は今さら「遠近法の詐術」とでも呼ぶべき原初的な技術に回帰せよと言いたいわけではありません。この映画にもCGは効果的に用いられていますし、あるいはそれなくしてはあり得ない映画とさえ言えるのかも知れません。その原初的な詐術は、人間が現実に生きてきた、その体験によって生み落とされた創意であり、その意味に於いてそれは人生にもまた似ている(既述の年齢に関するそれなどもそう)、科学技術が発達した現代に於いても、人間は間違いなくその魅惑的な詐術に溢れた世界を生きていると言えるわけで、そして、父親が語り聞かせる「虚構」に関するこの映画には、人生にも似たそれがそれ自体として間違いなく其処にあって、故に「素晴らしい」と、そんなことを言いたいわけです。人間は誰しもがその詐術に溢れた世界を生きている、一見して「現実」を生きているかのようにも思われる息子(ビリー・クラダップ)にしても、しかし、実際には虚構を生きているに過ぎないのは、彼が「父親の浮気」を端から疑っていたことに明らか、此処にあるのはつまり、「現実と虚構」の相克ではなく、むしろ「虚構と虚構」のそれなのであり、そして、結果として「虚構」が受け継がれることも含めて、世の中のあらゆるすべての人間が虚構を生きているに過ぎないのなら、(相対的に)それが即ち「現実」でもあるともまた言えてしまうわけで、つまり、此処に於いて選択された「より良い虚構」とは、取りも直さず「より良い現実」のことなのであると、あらゆる人間は虚構を生きているに過ぎない、その事実を認めない人間は、『最後の晩餐』の台形に歪んだ空間に今さら文句を言う人間と同じくらい滑稽なのです。

 これは物語的なことで言っても、多分、実につまらない指摘に過ぎないのかも知れません。息子の一番の蹉跌が母親(ジェシカ・ラング)に多くを問わなかったことにあるというそれです。二人の出会いエピソードにしても出生時のエピソードにしても、「現実」を知りたければ、悶々と悩んでいる暇にもそれを母親に問うてみれば、すべてではないにしても、「氷山」の大部分は海面上に浮上するはず、それでも息子はそれをしない、否、正しくは多分、「すべてが嘘ではないのよ」と思わせぶりなヒントを与えるに止まる母親の方がそれに答えてくれないのでしょう。あるいは、仮に母親がそれに答えたにしても、ヘレナ・ボナム=カーターによって語られ映像化されたそれと大差のないもの、つまりは当の父親によるそれと大差のないものが其処に再現されるだけ、何故なら、物語的結論として息子が其処に至ったように、彼女もまた(既に)父親(夫)の「虚構=現実」を共に生きているからです。そして、此処に於いて何よりも素晴らしいのは、この美しい夫婦関係もありようもまた実に印象深い「遠近法の詐術」によって切り取られていること、物語の序盤、夜のプールで泳ぐ夫を二階の窓越しに妻が見つめる場面、窓ガラスに反射する妻の顔の脇に(その詐術の所為で)滑稽なくらいに小さく見えてしまう庭先のプールと其処で泳ぐ夫の姿、そんなふうにスクリーンに切り取られたそれが、妻が夫の(あるいは夫が妻の)「虚構=現実」を共に生きているという関係を既に正しく示唆しているのです。それがあの世にも美しい「バスタブのラブシーン」に呼応するものであるのは言うまでもないこと、歳を重ねるに連れてその質を低下させていく時間、遠近法の詐術に抗えず死を間近に控えてバスタブの「小さな池」に自足せざるを得ない夫、それでも、彼と共に生きることを決めた妻は、狭苦しい其処に何の躊躇いもなくその身を沈めてみせるのです。

 ティム・バートンの荒唐無稽なファンタジーに「現実」に通じる何かを見出す人は少なくないでしょう。しかし、彼が創造するファンタジーが断じて「現実」の比喩でなどないのは、この映画を観れば容易に知れること、彼は「現実」と同じようにファンタジー(虚構)を見つめ、あるいは、小利口な観客が映画(虚構)の中に「現実」を見出してみせるのと同じように、彼は「現実」の中にファンタジー(虚構)を見出しスクリーンに投射してみせる、差し当たり「現実」と差異化された鮮やかな色彩も、つまりはあくまでも「現実」のうちに予め隠された、多くの人間が見逃している、もしくは当たり前のように目を背けている「現実」の或る一部分に過ぎないのです。

 公開初日の土曜日の午後、上映開始15分くらい前に映画館に到着したところ、映画館の前には長蛇の列、慌てて列の最後尾に並んだところ、何となく様子がおかしい気がしたので、前の人に質問してみたところ、私が並んだその列は同じビルの別のフロアでやはり公開初日を迎えた『ドーン・オブ・ザ・デッド』の入場を待つ人達の列だということが判明、慌てて目的の場所を目指したものの、しかし、其処には列などできていなくて、既に粛々と入場が始まっていたという、それでも、最終的にはそれなりに広い劇場の7割くらいの席が埋まっていました。あと、以前にも何かのときに書きましたが、私は親子関係の物語には非常に弱いところがあって、この映画の終盤でも、柄にもなく目頭を熱くさせていたりもしました。尤も、上でも書いたように、この映画で最も美しいのはジェシカ・ラングとアルバート・フィニーの「夫婦関係」なのだと思っていますが。


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