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ル・ディヴォース〜パリに恋して〜
監督:ジェームズ・アイヴォリー
2004年5月23日(有楽町スバル座)

 サック・ア・クロア



 この映画の中では階段の途中でキスをする場面が二度、もしかすると、それ以外には男女がキスをする場面はなかったのかも知れません。フランス、階段、キス、これはやはりトリュフォーのイメージでしょうか?

 ジェームズ・アイヴォリーの『シャンヌのパリ、そしてアメリカ』の中に個人的にとても気に入っている場面があります。クリス・クリストファーソンが居間で何気なく観ているテレビにマイケル・チミノの『サンダーボルト』の或る場面が映っているのですが、これを映画館で観たときはそれが『サンダーボルト』だと分かって、それが個人的に好きな映画だということもあって何となく嬉しく感じたという程度だったのですが、後日改めてその『サンダーボルト』を観直してみると、アイヴォリーの映画に何気なく引用されていたその場面が、実はその映画の内容と非常に深い繋がりを持つものであるということが分かり、甚く感銘を受けたのです。映画の中では(テレビの)音声が消されていた引用箇所の会話の遣り取りはこんな感じ。

 クリント・イーストウッド:お前は何者だ?
 ジェフ・ブリッジス:アメリカ人だ!

 ちなみに、その引用は「時代考証」をまるで無視したものでもあって、クリス・クリストファーソンがテレビでそれを観ている劇中の時代は『サンダーボルト』が製作される数年前のことだったりも、勿論、その引用の出鱈目さ加減がますます私を惹き付けたのは言うまでもないことです。

 この『ル・ディヴォース』もやはりブラウン管(液晶だったかも知れません)を介した映画の引用があります。物語の序盤に現われるマイケル・パウエルの『赤い靴』などがそう、その映画の中で語られていることの一つは、『デブラ・ウィンガーを探して』の中でその映画の監督でもあるロザンナ・アークエットが自身の体験に照し合せて指摘したように、女性に於ける「愛か芸術か」あるいは「家庭か仕事か」の二者択一の命題であり、この映画の引用画面でもその色彩の鮮やかさが際立っていた「(脱げない)赤い靴」は、女性を社会的に束縛するものの暗喩ともまた理解されています。ケイト・ハドソンがティエリー・レルミットからプレゼントされた、その鮮やかな「赤」が既述の引用画面を受け継ぐ「赤いケリーバッグ」を見たナオミ・ワッツが彼女に「男性からの高価なプレゼントは女性を束縛する(だから直ぐに返しなさい)」と苦言を呈するのですが、その言葉はそのまま『赤い靴』の主題と結び付き、また、男尊女卑的な婚姻制度等、アメリカと比べて遥かに旧弊なフランスの風習文化を(アメリカ人の立場から)批判的に指摘するものとしても機能します。序でに指摘しておけば、そのケリーバッグを持つのが「妊婦」のナオミ・ワッツではなく、独身のケイト・ハドソンであるというのが、そのバッグの名前の由来を知るものにとってはまたユニークなところなのかも知れません。

 外国を訪れた際に感じるカルチャーギャップというのは、今どき「箸とフォーク」の問題でもなくて、言うなれば「フォークとフォーク」の問題、或る場所ではそれを食事のときに使い、或る場所ではそれをトイレ掃除の道具として使う、むしろそのようなときにこそ感じるものに違いありません。つまり、可視的な或る一つのモノを介して文化コードやコノテーションといった潜在的(不可視的)なもの(制度)の差異が顕在化する、従ってこれが仮に「アメリカとフランスのカルチャーギャップを描いた映画」であるならば、それが「映画」である以上、其処には幾つかの可視の記号が映し出される必要があり、当然ながら此処にはそれがあります。その一つは勿論、先にも触れた「赤いケリーバッグ」、それは単に国家間の文化的差異を顕在化するだけではなく、個々人に於けるコノテーションの差異をもまた明らかにし、その感覚された差異、即ち「予期せぬ反応」がこの物語の流れを方向付け、正しく動かしてもいるのです。その意味に於いて、この映画の主人公はケイト・ハドソンでもナオミ・ワッツでもなくて、その「赤いケリーバッグ」であるとさえ、ケイト・ハドソンが深い考えもなしに持ち歩くそのバッグ、此処に於いて、彼女と接する人達の感情は、彼女の言動よりもむしろそのバッグ(に潜在するそれぞれの意味)によって左右されることになるわけで、実際、スクリーンと向き合う観客にしても、それなりに美しいケイト・ハドソンより、ときには彼女の肩で揺れ、ときには彼女の傍らに投げ置かれたその鮮やかな「赤」に、むしろ視線が釘付けになってしまうのではないでしょうか。また、そもそも「認識の差異」ということで言えば、観客にとってもまた同様で、スクリーンに現われた赤いそれがエルメスの「ケリーバッグ」であると何の説明もなしに分かる人もいれば、ただの「高級そうなバッグ」としか認識できない人もいるはず(私もその一人です)、あるいは、エルメスのバッグだと分かっても「バーキン」と区別が付かない人も中にはいるのかも知れません。そして、同じことは、私が上の方で知識とも言えぬ「知識」を披瀝して書いた幾つかのことにもまた言えるわけで、此処に於いてケリーバッグが「妊婦」の手にないことに何かを思う人もいれば、そんなことにはまるで頓着しない人も、引用されたそれが『赤い靴』だと分かってこの物語との関係を探る人もいれば、それが何の映画なのか、あるいはそもそもそれが映画であるとすら分からない人もいる、今さらの話ですが、スクリーンに在るあらゆるものは予め多層的な意味を抱え、それを見る人間の知識や教養、あるいは経験によって少しずつその意味を違えていく、或る一本の映画を誰かと語るときに誰しもが少なからず感じてしまうに違いないのと同じ「齟齬」を、もう少し大きな、それとはまた別の枠組みに於いて体験しているのがこの映画に於けるナオミ・ワッツやケイト・ハドソンであると、それだけと言えばそれだけの話なのかも知れません。従って、物語の最後、エッフェル塔から抛り投げられパリ上空を優雅に彷徨う赤いケリーバッグは、それに「愛人からのプレゼント」という意味を見出すケイト・ハドソンにとっては、愛人との関係に関わる或る一つの「決意」を意味するのではあっても、それはしかし、あくまでも一義的なものに過ぎず、例えば、その「パリ上空を彷徨う赤いケリーバッグ」にアルベール・ラモリスの『赤い風船』を想起するのかも知れない何人かの観客にとっては、その優雅に彷徨う赤い「記号」は、また別の意味を持つことにもなるのです。何れにせよ、此処に於いては、別に「カルチャーギャップ」自体が面白いのではなくて、それを顕在化する一見何の変哲もない「モノ」と、それがスクリーンを往来する様子(運動)が(それなりに)魅力的なわけで、実際、この映画の中で単に「言語情報」としてのみ与えられる「カルチャーギャップ」など、少しも面白くはないのです。

 公開二日目の日曜日の午後、客席は漸く半分くらいでしょうか。むしろ「コスチュームプレイ」の作品群でよく知られるこの監督、「非=コスチュームプレイ」の作品だとどうしても「小品」のイメージなのか、大した宣伝もされていないようですし、この惨状も致し方ないのかも知れません。ちなみに、この映画の中でテレビ画面を介して引用されていたのは他にも二つあって、一つはアメリカの有名なテレビアニメ『シンプソンズ』で、これに関しては「アニメによるアメリカの文化侵略」のようなことが映画の中で語られていたりも。もう一つはコクトーの『美女と野獣』、これに関しては、『赤い靴』同様、劇中で何かが語られることはなかったのですが、これも多分何らかの意味が託されているに違いありません。尤も、私がそれを『美女と野獣』と諒解したのは、残念ながら、あくまでも映画館の外でのこと、ですから、それなりに思うところはあるものの、此処では何も語らないことにしておきます。


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