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世界の中心で、愛をさけぶ
監督:行定勲
2004年5月30日(新宿スカラ1)

 何もない場所で



 何を写して見せても、どのように写して見せても写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象であって写真そのものでないのである。(ロラン・バルト著『明るい部屋』より)

 もし仮に「写真そのもの」が見えるとすれば、それはフレームごとそれを見るときなのかも知れません。フレームの内と外に切り分けられた世界、その「断絶」を体験することが即ち「写真そのもの」を見るということ、尤も、そのような体験に於いては、「指向対象」は何処までも遠くに置き去りにされてしまうことにもなります。映画のスクリーンに「写真」が映し出されることは然して珍しくもありません。多くの場合、マーティン・スコセッシが得意とするような「フラッシュバック」の効果が試される一つの技法として持ち込まれることになるのですが、そうでない場合もあって、物語的に「写真そのもの」が重要な意味を果たす映画もあります。スクリーンに映し出されたそれがいつの場合も「写真そのもの」であるのは、それが必ず「フレームごと」捉えられているから、フレームが映り込まないくらいに近写するにしても、その前後のカットではやはり何らかのカタチでそれが「フレームごと」捉えられているはず、何故なら、そうでもしなければそれが「写真」であると観客が気が付かないかも知れないから、「説明」のための便宜のようなものです。問題なのは、それが「写真そのもの」であってしまう故に、スクリーンの前の観客の目には肝心の「指向対象」が遠くなってしまうということ、勿論、それは観客それぞれの心掛けの問題でもあるのですが、しかし、如何に「写真を見るように」それを眼差したところで、スクリーン上の人物、バルトが言うように「指向対象」しか見ていない人間が見るようには決して見られないわけで、其処に一つの「齟齬」が生じてしまうのです。

 これは「音」に関しても言えることなのかも知れません。カセットテープに録音された声を聴くものが「声そのもの」を聴くのではなく、あくまでもその言葉にのみ耳を傾けているとするならば、やはり映画に持ち込まれたそれも同様に「齟齬」を生み出すはず、何故なら、観客はそれがカセットテープから流れ出ているものであるという意識を決して棄てることができないからです。スクリーン上の人物が「写真」を眼差し、「カセットテープ」の声に耳を傾けるこの『世界の中心で、愛をさけぶ』という映画は、つまり、その物語を介して彼らと観客の間に不可避として生じる「齟齬」を解消するための、ひたすらに不毛な営為なのです。スクリーンの前にあるものは大沢たかおが見るようにはその写真を見ることができないし、彼が聴くのと同じようにカセットテープの声を聴くこともできない、そもそも、此処に現われる「写真」は、山崎努の写真館の壁に飾られたそれらの殆どが「縦型」であるのに加えて、あの年代物のカメラに残されていたそれらすら、それが正しく何と呼ぶべきサイズなのかは知らないのですが、映画で言うなら「スタンダードサイズ」にも似た正方形に近い形状、つまり、予めスクリーン(シネマスコープ)のフレームとの親和性に乏しい故に、観客は取り分けそれら写真のフレームを意識してしまうことにもなるわけで(あの年代物のカメラから取り出されたフィルムの現像プリントが始めてスクリーンに映し出されたとき、その特異な「フレーム」に目を奪われなかったものなどいないはずです)、その事実をして、その「齟齬」は予め企図されたものであるとすら言い得てしまうのかも知れず、そして、それと同様のことは「カセットテープ」と「ウォークマン」という、実際、映画の冒頭にそのようなエピソードが挟まれてもいたように、今どきはむしろ違和感を覚えてしまう媒体と装置によって再生された「声」にもまた言えるのです。予め企図された「齟齬」と、それをただひたすらに解消するために与えられた二時間、これはやはり何処までも「不毛な営為」と言わざるを得ないわけで、何故なら、観客が映画館の暗闇で眼差すのも、野心的な映画批評を目論むものでもなければ、それが何であれ、やはり「指向対象」に他ならないからです。

 これはとにかく人物の背中ばかりを撮っている映画、何故そうなるのかと言うと、独りで歩いたり走ったりする人物をカメラがその背後から追い掛けるように撮る場面が多いから、勿論、折りを見て正面等からのショットに切り返されるのですが、「背中」の印象が強いことに変わりはありません。人物の背中を追うのは専ら手持ちカメラ、しかも、その場所の多くが「学校」とくれば、これはどうしてもガス・ヴァン・サントの『エレファント』と比較したくなってしまうのですが、何処となく「政治的」に抑制されていた印象もあった『エレファント』に於けるカメラの挙動と比べると、この映画のそれにはどれほども深い「配慮」が隠されているようには見えないわけで、あるいは単に、既に手垢に塗れた感もある、或る種の「現実感」を捏造する試みに過ぎないとも、否、それによりも何よりも、『エレファント』とこれの決定的な差異は、カメラが人物の背中を追うその場所で果たして何が起こるのかということに、ヘッドホンを耳に当てた大沢たかおが彷徨し、長澤まさみがその長い手足を誇示して見せるこの映画の「学校」は、「銃乱射事件」はおろか、あらゆる「暴力」あらゆる「理不尽」ともまるで無縁の場所、其処にはただ各々個人によって都合良く切り取られた過去、「ノスタルジー」があるだけなのです。思い返してみれば、この監督の初期の作品である『ひまわり』というのも、やはり「学校」という場所に(個々人にのみ帰するどうでもよい)過去を探る「ノスタルジック」な映画だったわけで、其処に於ける「学校」もやはり何が起きるわけでもない、ただ、嘗て其処を通り過ぎて往った人間に関わる何かが隠されている(とその当人達によって期待された)空間に過ぎませんでした。それは近作の『きょうのできごと』に於いても同様、妻夫木聡との付き合いがまだ浅い田中麗奈は彼の過去を探るために彼が卒業した高校のグラウンドを訪れるわけで、同様の趣旨の場面は『GO』にも、そもそも、その『GO』という映画は「学校」を舞台とした「闘争」の物語であるにも関わらず、其処に於ける「暴力」から徹底して「痛み」を排除することによって(監督自身の発言です)、「学校」という空間を相変わらず何も起こらない、未来の窪塚洋介にとってはやはり「ノスタルジーの場所」でしかないのであろう空間に仕立て上げてしまっていたわけで、何かがあると信じられつつも、しかし、実際には何もない場所、行定勲が執拗にスクリーンに定着させる「学校」から受ける印象は大凡そんなところ、それは『世界の中心で、愛をさけぶ』に於いても勿論例外ではありません。

 北野武の『キッズ・リターン』のラスト、「学校」に戻った安藤政信と金子賢がこの映画の冒頭と同様にグラウンドで円を描くのを教室の窓から森本レオが見ています。この場面の「残酷さ」は挫折を経験した二人がいるグラウンドにあるのではなく、むしろ森本レオがいる教室にあります。冒頭の場面を反復しているのは実は森本レオの教師も同じ、そもそも「学校」とはそういう場所、教師という職業は目の前に並べる生徒こそ毎年入れ替わりはするものの、彼が生徒に教えること、教壇での彼自身の動作は毎年殆ど変わりはしないわけで、実際、その場面でも、彼は冒頭と何ら変わりのない日本史の授業を反復しているに過ぎないのです。そして、其処に目撃される唯一の変化は、森本レオの頭髪、彼の頭はあるいは「演出過剰」ともとれるくらいに白髪を増やしているのですが、しかし、その演出が決して過剰でもないのは、そのひたすらな「反復」と其処に身を投じるもののうちに生じた「変化」が、「学校」という場所のどうしようもない退屈さ、終わりなき「円環運動」の不毛を表象しているからに他なりません。森本レオにグラウンドの二人の姿は見えても、グラウンドの彼らから森本レオの姿は見えない(見るつもりもない)、仮初めにも其処に円を描こうとも、彼らがグラウンドにいる限り、「勝敗」は既に明らかなのです。ともあれ、此処で『キッズ・リターン』のその場面を引き合いに出すのは、袴田吉彦や妻夫木聡、あるいは大沢たかおが時を経て訪れる行定勲の「学校」には、彼らの遠い後輩に当たる生徒達はおろか教師の影すらなく、いつでも「無人」だから、つまり、彼の映画に於いて其処は決して不毛な「円環運動」の場所ではなく、故に、彼らが「在った」と信じる何かを不用意に流してしまったりはしない、いつでも彼らに「ノスタルジー」を用意してくれる「懐かしく甘美な場所」であり得るのです。

 しかし、存在するいかなる像も自我と一致はしない。それはイメージが自我と一致しないのではなく、自我がイメージとは一致しないのである。(ロラン・バルト著『明るい部屋』より)

 行定勲の「学校」に「何もない」理由は何となく分かります。彼が体験したのであろう80年代の「学校」を私もまた体験しているからです。しかし、だからと言って、私は彼を弁護する気にはとてもなれません。彼の決定的な錯誤は、「学校」という場所を離れて久しいはずの彼がスクリーンに切り取るその像が、嘗て彼が「切り取られた」のであろうそれとどれほども違ってはいないことに、つまり彼は、自身が学生のときのスナップ写真を感慨深く眺めるのと大差のない動作でスクリーンに彼の「学校」を再現しているに過ぎず、あろうことか、イメージとは決して一致せず、「軽快で、分裂し、分散し、たえず動き回っている」はずの自我(=彼のイメージに回収されない学校)を何処かに置き忘れてしまっているのです。行定勲がその持ち前の器用さでそれを模倣してみせもする彼の「映画」とは、大沢たかおや袴田吉彦が、彼らの独り善がりなイメージを其処に託し、「何かがあるに違いない」と信じて疑わない「学校」と同じ、そして、その「学校」は、彼らが抱くイメージを共有し得ないものには、ただひたすらに「何もない場所」であるに過ぎないのです。

 最後に、やはりロラン・バルトの『明るい部屋』の一節を引用しておきます。

 結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うものは、「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドスなのだ。

 公開から既に何週か経った日曜日の午後、当たり前のように満席でした。客層は専ら若いカップル、「シバサキが脚を引き摺っているのは、子供のときに事故に遭ったからなんだよね?」等々、終映後は分かり切ったことを確認し合っている彼らの姿が何故か矢鱈と目に付きました。ともかく、何年か前に『ひまわり』を観たときから薄々感じていたことなのですが、私は行定勲に対して或る種の「憎悪」を抱いているようで、この映画を観てそれを確信に変わりました。否、「確信に変わった」というよりは、結局、彼が『ひまわり』のときから何も変わっていないことが一番の問題なわけで、彼のその「何もなさ」に彼と同世代である自身の「何もなさ」を見出してしまうかのような、そんな虚しくも複雑な体験を彼の映画は私にさせてしまうのです。多分、彼は今後も駄目なのでしょう。それはつまり、私もやはり駄目に違いないということです。


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