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21グラム
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
2004年6月5日(新宿ピカデリー1)

 煙草一箱の重さ



 男が草刈り機の轟音を唸らせながら作業をしている、カメラは道路を一本隔てたあたりから固定気味のショットでその様子を捉え続け、程なくしてその前を一台の自動車が通り過ぎる、この映画の中にそんな場面があります。そのショットは自動車が通り過ぎた後もやはり固定されたままで、スクリーン向かって左側、自動車が通り過ぎて行った方向から草刈り機の轟音をさらに上回る「自動車事故」を連想させる悲壮な音がその草を刈る男と観客の耳に届くまで続くことになります。この「省略」が観客の誰一人をも混乱させないのは、この映画が「錯時法」によって構成されているから、そのショットの少し前に草を刈るその男と談笑していた父と娘二人、あるいは其処を通り過ぎて行った自動車の「その後」を、観客は既に「見て」いるのです。また、この場合は、省略された幾つかのことが容易に諒解できるだけはなくて、カメラが固定された前を或る特定の自動車が通り過ぎるであろうこともまた観客は予想でき、つまり、その場面に於いてカメラが固定されている理由はそれ、固定されたスクリーンを前にして、観客はひたすらに「待つ」ことを要請されているのです。そのような「要請」があり得るのも、勿論、これが錯時法によって構成されているから、この映画が何故そのように構成されているのかはともかく、そのような構成をとることによって、断片的なそれぞれの場面の撮り方にも或る程度の「幅」が生まれてくるわけで、此処に引用した場面などはまさにその状況を有効利用した好例と言えるでしょう。

 この映画はベッドシーンから始まっているわけではありません。映画の冒頭に配置された物語の断片の一つはあくまでも「ショーン・ペンが煙草を吸う場面」です。もう少し精確に言えば、「ショーン・ペンが咳き込まずに煙草を吸う場面」、其処に於いて何よりも重要なのはその状況なのです。その後、時間軸を遡った或る場面に於いて、自宅療養中のショーン・ペンがトイレで隠れて煙草を吸うのですが、そのときの彼は酷く咳き込むことになります。咳き込まずに煙草を吸うために彼は新しい心臓を手に入れた、これは決して無茶な物言いではなくて、実際、この物語に於ける彼の行動を見ていればそんな考えも浮かんきてしまうのです。その意味に於いて、冒頭のそれはまた「ショーン・ペンが事も無くセックスをやり終えた場面」とも言えるのかも知れません。やはり時間軸を遡った或る場面に於いて、彼はシャルロット・ゲンズブールの身体を撫で回しただけで、煙草のときと同様に、彼女に窘められてしまうわけで、冒頭のその場面は、つまり、嘗て禁じられていたはずの二つのことをショーン・ペンが果たし終えたことを示唆しているのです。彼はセックスと煙草のために新しい心臓を手に入れた、命の重さ、生きることの意味を問う映画にしては余りにも軽過ぎるように思われるのかも知れませんが、しかし、差し当たり寿命が延びたショーン・ペンが「生」を実感しているように見えるのは実際そんなときくらいしかなくて、むしろ「生」を持て余しているようにすら、故に、彼は探偵を雇ってまで心臓提供者を探ろうとする、彼には他にやることがないのです。ただ、この物語に於いて重要なのが彼のその行動であるのもまた事実、この三人の人間の数奇な運命に関する物語は、一見すると、ベニチオ・デル・トロが起こした交通事故に端を発しているようにも見えるのですが、しかし、例えば、もし仮にショーン・ペンが心臓提供者を探さなかったとしたら、ただそれぞれがそれぞれの人生を生きて行くというそれだけのことにしかならなかったはず、これはつまり、本来は出会うはずのない三人が出会ってしまうことによって生み出された物語、彼らが出会ってしまった理由の一つがショーン・ペンのその行動にあるのは言うまでもないことです。

 錯時法を駆使することによって観客に物語的に重要な幾つかのことを予め教えてしまっているとは言っても、しかし、その結論だけは周到に隠されているという意味では、この映画は普通の、時間軸に従順に語られる物語と大差がないとも言えます。この映画の最後に配置された幾つかの断片は、時系列に正しく沿ってもやはり一番最後に配置されるべきもの、或る段階までは錯時法によってその「時間」や「空間」が(作家によって)自在に操られてはいても、最後の最後だけは正しく「最後」なのであり、それはつまり、その結論だけは予め観客の目に触れたりしないよう(通常の物語同様に)注意深く隠されているということ、そして、さらに言えば、時系列的にも正しく配置されたその結論こそが此処に於いては何よりも重要と言えるのです。理由は簡単、それが正しく「結論」であり得るようにそれに相応しい場所に配置されているから、あるいは、それ以外の箇所は、錯時法が用いられている以上、観るものがその流れを正しく理解することが第一義とは決してされておらず、それはつまり、其処に於ける物語的な因果関係など然して重要視されていないということ、此処に唯一成立する因果関係は、この映画の最後に(正しく)配置された三者それぞれに与えられた物語的結論(結果)と、時系列を無視して語られるそれ以前のすべてのこと(原因)、此処に於いて何よりも重要なのはそれら両者の関係なのです。逆に言えば、錯時法を用いることによってその因果関係の理解に(観るものが)混乱を来してもしまう幾つかのことは然して重要でもないと、正直に言えば、一つ上のパラグラフは半ば冗談のつもりで書いたのですが、しかし、例えば、一見して此処に於けるすべての因果の起点であるかのようにも思われるベニチオ・デル・トロが起こした交通事故が必ずしもそうではないのは紛れもない事実、物事の因果は複雑に絡み合い、単純にAの結果がBでCの結果がDであるなどとは言えないのがこの物語でありまた我々が生きている現実の人生というもの、この物語が錯時法によって語られている理由があるとすれば、つまりはそれ、我々が生きる現実の因果関係は「物語」ほど単純明快ではないのです。差し当たりあるいは如何にも「物語らしく」此処に明かにされているのは「結果」のみ、此処に於ける「結果」とはショーン・ペンが死に、ナオミ・ワッツが子供部屋に入る勇気を得て、ベニチオ・デル・トロが家族の元に戻るというそれ、しかし、錯時法の混乱に表象されるように、その結果に対する原因は何処までも曖昧、否、正しく指摘できる原因など何処にもないのです。

 人生は続く、この映画の中で何度も繰り返される言葉です。では、映画(物語)は続くのか? 答えは多分「否」です。それが特定の誰かの人生に焦点を当てたものであるにせよ、映画や其処で語られる物語はあくまでもその一個の「断片」に過ぎません。エンドクレジットの後にも人生は続き、タイトルクレジットの前にもやはり人生は続いていた、勿論、人生を断片化するものが持つべき「誠実さ」の証として、大抵の場合、切り取られた断片のうちにその「前後」を予感させる何かが抛り込まれてはいるにせよ、しかし、だからと言ってそれが「断片」であることを止めたりは決してしません。この映画には(差し当たりの)結果はあるが原因はないと指摘しましたが、それは或る意味すべての映画(物語)にも言えること、確かに、二時間なり三時間なりに切り取られたその断片のうちに然るべき原因と結果を抛り込むのが「物語」の本来であるとは言え、それが我々が現実に体験し生きている人生から程遠いものであることもまた認めざるを得ないのです。人生は続く、映画がその「現実」に目を向けるのなら、其処に抛り込まれた単純明快な因果が、単なる断片に過ぎない何かを恰も人生のすべてであるかのように見せてしまう詐術からはできるだけ遠ざからなくてはなりません。ショーン・ペンは何故死ぬのか? ベニチオ・デル・トロは何故ナオミ・ワッツの家族を自動車で撥ねてしまうのか? 此処にその原因などありはしませんし、そんなものは多分何処にもないのでしょう。誰かが死ぬことに何らか原因があるとすれば、それはその人間が死ぬ直前まで間違いなく生きていたから、ただそれだけのこと、人生のアンチノミーです。何れにせよ、此処に於ける錯時法とは、つまり、所詮は「断片」に過ぎない映画(物語)に人生のすべてを錯覚させたりはしない「誠実さ」が要請するもの、原因と結果の転倒、「問い」と「答え」の錯乱は、その二時間に切り取られた一個の「断片」のうちに何らか明確な「関係」が成立してしまうことを巧妙に回避し、まさにそれ自体が断片であることを以て、「人生は続く」という現実を示唆してもいるのです。そして、差し当たり此処に示された幾つかの「結果」にしても、ショーン・ペンのそれはともかく、あくまでも一時的なものに過ぎず、その訪れを以てこれが幕を閉じるのは、「これが映画であるから」という以外には何の理由もないのです。我々は物事の「原因」などいつも取り零していて、体験するのは常に「結果」ばかり、錯時法によって因果の鎖から解放されたそれぞれの場面は、あるいはそれぞれに「結果=現実」でもまたあり得るのです。

 上の方で「ショーン・ペンの煙草」に拘ったのには理由があります。煙草一箱の重さも実はおよそ21グラムなのです。

 公開初日の土曜日の午後、客席は半分も埋まっていませんでした。と言うか、この映画が上映された新宿の「ピカデリー1」というのは千人超の大劇場なわけで、作品の出来不出来とは関係なく、これはそもそもそのような場所で上映される類の映画ではないと思うわけで、従って、そのような惨状も或る意味致し方のないところ、私が事前に当然そうであろうと予想していた「ピカデリー2」での上映だったら、あるいは立見が出るくらいの混雑だったのかも知れません。それにしても、シャルロット・ゲンズブールが当たり前のように英語を話す「イギリス人」の役というのには何となく違和感を覚えたのですが、考えてみれば、彼女は『ジェーン・エア』でジェーンの役を演じていますし、実際の国籍がどうなっているのかは知りませんが、出生地はイギリス、「ゲンズブール」という名前の所為もあって「フランス人の中のフランス人」のようなイメージを抱いてしまっていますが、それは私の勝手な思い込みに過ぎなかったのかも知れません。しかし、どうしてこの役が彼女なのか…。


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